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後悔に先立つもの(前)

 肌を刺す十二月しわすの風は夜になって一層鋭さを増し、凍てつく空気を吸い込む度に肺が鈍い痛みを訴える。香霖堂から一歩外に踏み出せば、世界はこんなにも冷たく尖っていた。

 立ち止まれば考え込んでしまうので、とにかく歩く。これといって行くあてがあるわけではなかったが、自然と足は森の方角に向かっていた。

 日が出ているうちは何てことのなかった森の木々も、夜になると不気味さを帯びるから不思議だ。骨ばった指にも似た枝は重なりあって空を覆い、胸の詰まるような圧迫感を私に与えてくる。こうして動いていなければ、押し潰されてしまいそうだった。

「はぁ……」

 吐く息が白く凍る。枝の隙間から差し込む月明かりに暗中の視界を助けられながら、私は夜の森を歩いていく。遠くに聞こえたけたたましい鳥の鳴き声も、いまではすっかり慣れっこだった。

 初めてこの森に入ったのは何年前だったか。霧雨家を追い出された頃の私は右も左もわからなくて、道に張り出した根っこにけつまずいては体のあちこちに擦り傷を作っていた。傘を開いたキノコさえ、妖怪の類に見えたものだ。

 そんな私を助けてくれたのが、森近霖之助だった。まだ香霖堂を開いて間もない頃で、いまに比べて置いてある道具がずっと少なかったのを覚えている。

 店に転がり込んだ傷だらけの私を見た時、霖之助は大層驚いていたけれど、それでも何も言わずに傷の手当をして、食事と寝る場所を用意してくれた。彼がいなければ、きっと私はいまごろ森の土になっていたことだろう。

 この森で生きていくためのすべを、私は霖之助から教わった。火の起こし方、毒キノコの見分け方、危険な動物の種類、果ては家の建て方にいたるまで、知る限りのことを彼は私に教えてくれた。そのための道具は快く貸してくれたし、食べ物に困った時は食事をまかなってくれた。

 感謝してもしきれない、一生分の恩を私は霖之助から受けている。それはどんな形をもってしても返せないのだろうし、返そうにもお人好しの彼は受け取ってくれないだろう。

 ならば、私にできることは何なのか。霖之助に繋いでもらった命で、私ができることとは。

 いまの私にはそれがわからない。もう彼の助けを借りずとも生活できるとはいえ、それでも霧雨魔理沙はまだまだ未熟なのだ。何にもなりきれていない私は、歩むべき道さえ知らない。

 ——霖之助は、私を信じていると言ってくれた。それは一体どういうことなのだろう。自分の意志で考えて決断しろという言葉には、どんな意味が隠されているのだろう。

 歩くのに疲れた私は、適当な切り株を見つけてそこに座り込んだ。向かいの木陰から一匹の小鹿が顔を出し、私の顔を不思議そうに見つめながら走り去っていく。その背中を見送りながら、私はなおも考えた。

 自分の意志で決断をするということはつまり、どこにも逃げ場がないということだ。考えて考えて、自分がベストだと信じた答えに、たとえ根拠がなくとも我が身を委ねなければならない。その覚悟を持ち合わせていなかった私はあの時、霖之助に解答をすがった。それはつまり、甘えということなのではないだろうか。そしてその甘えを、霖之助は許さなかった。いままで願えば必ず与えてくれた彼は、初めて私に拒否の意を示したのだ。

「……!」

 答えが、見えた気がした。

 そうだ。私は気づくべきだった。霖之助はあの時、私に本当の意味での「自立」を促したのだ。

 むしろあれだけのヒントを出されてわからないほうがどうかしていた。親父のことばかりが頭に渦巻いて、冷静な考えを失っていた。

 霖之助の、私を信じているという言葉の真理。それはきっと、自分の意志で決断することの答えに私がたどり着くことを、信じてくれていたということなのだろう。

「……何だよ。また香霖に借りを作っちゃったじゃないか」

 まったく、何から何まで霖之助には世話になりっぱなしだ。

 だったらせめて、自分の信じた道——後悔のない選択をすることで、私はその恩に報いようじゃないか。

 暗い空から、一筋の光が差したような気分だった。

 けれどまだ、何も終わってはいない。

 霖之助の言葉を理解したからこそ、私は決断をしなければならないのだ。

 長い間、心の奥にしまいこんで置き去りにしていた親父との関係。

 数年にわたる猶予期間は終わりを告げた。決着をつける時が来たのだ。

 正直、私の胸にはまだ迷いが残っている。どうすればいいのかわからない。どうしたいのかもわからない。けれど、目をそらしていた自分と向き合う覚悟はできた。

 立ち上がり、空を見上げ、私は歩き出す。

 行き先は未定だったが、とにかく体を動かしたかった。思いが、前向きに推移を始めた。

 その時、視界の隅に何かが映った。

 踏み出しかけた足を止め、私はそちらに目を向ける。

 藪の中に倒れていたのは、一匹の鹿だった。

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