最果てに降る
これが二度目の逃避行になる。
間違いと知って、再び私は繰り返す。
病に倒れた親父を見捨て、今さら謝ることもできず、
吹きすさぶ北風を濡れ髪に浴びて、私はただ、この冬という季節を嫌っている。
顔中にまとわりついた水滴を振り飛ばして走った。何度も何度も転びながら、身体中に擦り傷を作りながら、わけもわからず走り続けた。
私の悪癖である。
一度切れてしまえば、煮えたぎった感情のはけ口を見つけるまでどうあっても止まらない。昔からそうだった。大事なときに、今一歩踏みとどまるべきところで私は破裂する。喘息の発作と同じようなもので、それはいつからか自分の中にあって、泣こうが喚こうが一生付き合って行かなければならないものなのに、いつまで経っても飼いならすことができない。厄介なもうひとりの自分はどこか病気にも似ていて、けれどどこまでも私自身だった。
途中で竹箒を拾ってからは、それにまたがってひたすらに飛び続けた。きっとむちゃくちゃな飛び方だったと思う。進行方向に鳥か妖精がいたら、避けもせずに跳ね飛ばしていたかもしれない。
とにかく帰りたかった。誰の目にも晒されず、誰も私を否定しない場所に帰りたかった。惨めなこの私が、もっと救いようのない、劣等感のかたまりになってしまう前に、帰らなければならなかった。だから一心に、鳥も雲も妖精も及ばないような高い空を飛び続けた。そして、箒を握りしめる両手が凍えてしまうより早く、私は魔法の森の、人目につかない小さなボロ小屋の前に降り立った。
「霧雨魔法店」
一見して上手いのか下手なのかわからない筆致で書かれたその看板に、私はようやく小さな安堵を覚えた。自分の家に、誰にも邪魔されない場所に帰ってこられたのだと、疑いなく信じることができた。この上なく矮小で手前勝手な逃避行の、それは終わりだった。私は使い込んだ箒を右手に持ち、空いた左手で、ずっと前に建てつけの悪くなったきり直していないドアノブを回した。
「ただいま」
返るはずのない返事。ひどく疲れていた。だからもう、何を気にすることもなく、私は休みたかった。
そんなことを考えていたからだろう、一挙に緊張の糸が切れた私の耳には、こんな空耳が聞こえてきたのだ。
「おかえりぃ」
声そのものが酔っていた。
驚きのあまり直毛になるかと思った。
「…………」
あえて補足をするならば、私の家に同居人はいない。霧雨魔法店は自営業の店舗で、確かに年中無休だが、しかし住み込みで人足を雇うほど繁盛しているわけでもない。
ひとりだ。
反論の余地なく、私はひとり暮らしなのだ。
そして、先だっての「おかえり」である。
私は耳を疑った。そして疑うべきは耳でよかったのだと、勝手にひとりで得心した。
きっと疲れすぎたのだ、だから空耳なんて聞いたのだ。
そう思って、私は開けた扉を後ろ手に閉め、目の前にそそりたつ魔導書の山を右に避けると、家の中に踏み入った。
そして、
「おおう、遅かったじゃないか。もしかして男にでも会ってたのかい?」
……私は、私に対する認識を改めなければならないのかもしれない。
疲れのあまり幻聴を聞く、なるほどここまでならよくある話だ。別段珍しい話でもない。
しかし幻覚となれば事情は変わってくる。
本来見るはずのないものをこの目に、それもはっきりと映してしまうという異常を、疲れの一言で片付けてしまうのはあまりに強引ではないだろうか。
たとえば、私が普段愛用している座椅子に、三途の川の渡し守をしている死神がさも当然のように座っているという事実を、精神の疲弊という理由で説明していいものだろうか。
私の部屋は、ただひとつの異常を除いて、普段となにも変わるところがない。文机、羽根ペン、卓上ランプ、積み重なった本の群れ、なにを煮たかもわからない鍋、棚に並んだ薬品類。拾い集めたガラクタは部屋の各所に山脈をなし、ここが地獄の三丁目と言わんばかりの威容をもって鎮座する。いまこの瞬間、私は間違いなく自分の家にいた。
だからこそ許せないのが、小野塚小町の存在である。彼女は折り重なった日常にただひとり迷い込んだ非日常であり、私の安楽を邪魔する不届き者であり、つまり虫だ。
「……なんでお前がここにいるんだ」
本当に疲れていた私は、本当に疲れているがゆえに、通り一遍の疑問を彼女に投げかけてしまった。そんなことをしてもきっと意味なんてないだろうに。
「それがさ」
死神は、私が大事に取っておいた酒を美味そうに飲みながら、
「四季様に大きな休みをもらってね。何年も頼み込んでようやくもらった一週間の有給休暇。これを遊ばずに過ごす手はないだろう? だからここはひとつ幻想郷をふらっと見て回ろうと思って、それでまあ、ここにいるわけだ」
「死んでしまえ」
「それを死神に言うかね」
小野塚小町は上機嫌の赤ら顔で瓢箪の酒を飲み干し、私を見てがはははと笑った。相当に酔っている上に、和服の胸元も大胆にはだけてしまっている。
「どうしたぁ魔法使い、そんな辛気臭い顔して。酒飲むか? もう入ってないけど」
がははははははは。
本当に殺してやろうかと思った。
「帰れ」
その一言に収めるのに、相当の苦労を要した。
「なんだいつれないねえ。どうしたどうした、悩み事かい? ここはひとつあたいに話してみな。なんでも聞いてやるから……ってあれ、なんであんた濡れてんだい? 雨なんて降ってないだろに」
無遠慮に肩を組んでくる。こいつはきっと、悩みといったら恋の悩みに違いないと踏んでいるのだろう。吐きかけられる息からは、私が飲むはずだった酒の匂いがこれでもかとばかりに漂ってくる。
なにが有給休暇だ、なにが遊ばずに過ごす手はない、だ。
私の気も知らないで。こっちがどれだけ苦労しているかなんて少しも知らないくせに、勝手なことばかり言って。
でも、それが真実だと思う自分も確かにいた。
きっとみんなそうなのだ。相手がなにを考えているか、嘘くさい笑顔の裏になにが隠されているかも知らないまま、わかろうともしないまま、表面的な上澄みだけを自分にとって都合のいいように解釈して生きている。この死神にしたってそれは少しも違わないのだろう。だから人の家に上がりこんでのんきに酒なんて飲んでいられるのだ。そうやって自分のしたいことばかりして、大切なものを見ないようにしていても、なにも変わってくれないというのに。
怒るに怒りきれなくて、それより先に悲しさが立った。
「……帰れよ」
薄く埃の積もった床を見つめ、私は口走った。
「あぁ?」
死神はまるで聞く耳を持たない。
私の話を聞いてくれない。
……どうして。
どうして世の中は、こんなにもままならないことばかりか。
そのとき、私の中でなにかが弾けた。
「帰れって言ってるだろっ!」
床を踏み鳴らして叫んでいた。
宙に舞った埃は、窓から射し込む日の光に洗われて、とても美しく見えた。
前後不覚にあった死神は、ここで少しだけ、正気を取り戻したように見えた。大きく見開いた両目で、私の顔をしげしげと見つめている。
「……霧雨、あんた」
「うるさい!」
小町の言葉を叫び声で殺す。
「帰れって言っただろ! 早く帰れよ! 帰れ帰れ帰れ帰れ帰れっ! そうやって馬鹿やってるやつを見ると腹が立つんだよ! 私がいまどんな状況にいるのかも知らないくせに、そうやって人の酒を勝手に飲んでへべれけになって、自分だけが楽しければそれでいいのかよ! ふざけるな! 世の中にはな、お前みたいに自分を喜ばせるだけじゃ生きていけないやつがいるんだよ。苦しんでるやつがいるんだよ。どうしてそれをわかろうともしないで、『自分が楽しいんだから相手も楽しいはずだ』って思うんだよ! 歯を食いしばってがんばって、それでも駄目なやつがいることに気づけってんだよ…………なあ、おい、なんとか言えよ……」
言う必要のないことばかりが、後から後から溢れて止まらなかった。
私はなにを言っているのだろう。
思えば酷い八つ当たりだ。小町は私となんの関係もない部外者で、どころか人間ですらなくて、おまけに酔っ払っているというのに。
酔いどれに愚痴る魔女なんて、どうにも落ちぶれていて、いかにも私らしい。
床に手をつき、あたかも土下座をするかのような姿勢で小町の前にひざまずいて、私はしばし、なにも言えなかった。
「なにかあったのか……っていう質問は野暮だね。これだけ叫んでおいて、なにもないわけがないもんねえ」
私の無責任な怒鳴り声は、どうやら小町の酔いをも根こそぎ吹き飛ばしてしまったらしい。
「ほら、立てるかい」
本当なら逆の立場にいるはずの小町に、私は助け起こされていた。そのままソファに座らされる。
数秒の沈黙は、わたしにとって永遠とも思える速度で流れた。
「まあ……さっきはすまなかったよ。あたいもはしゃぎすぎていたというか、常識を踏み外した部分があった」
落ち着きを取り戻した小町は、きちんと自分の非を認めることのできる死神だった。なんというか、先ほどまでの彼女からは想像できない誠実さで、むしろ我を忘れてしまった私のほうが恥ずかしいくらいだった。
「私のほうこそ。取り乱して、八つ当たりをしてしまって……」
「いいさ。それだけつらいことがあったってことなんだろ。無責任になって叫びたいときってのは、誰にでもあるからねえ」
なんとなく、互いの目を見ることができなかった。会話にもどこかぎこちない堅さがある。
それからしばらくは、柱時計の音だけが私たちの時間だった。お互いにどう切り出したらいいのかわからない、なんとも気まずい空気だけが流れる。
しかしどうやら、小町はそういった気まずさに耐性を持っていないらしく、数分としないうちに口を開いた。
「話したくなければいいんだが……なにがあったんだい」
本当は、話したいことなんてなかった。
親父のことも家のことも、すべて忘れてしまいたかった。無責任でいたかった。
それでも話さずにいられないのは、私が真に諦めたわけではないからなのだろうか。
小町が出してくれた助け舟に、私は迷わず飛び乗っていた。深呼吸をひとつ、言葉を選びながら話し出す。
「まあ……言ってしまえば親子喧嘩の延長みたいなものなんだ」
「親子喧嘩、ねえ」
「そう、親子喧嘩」
小町は存外聞き上手な性格だった。たどたどしく話す私にいちいち相槌を返してくれたのもそうだし、なにより深く突っ込んでこないところがよかった。あなたの話を聞いているという意思表示を見せながらも、聞き役に徹する以上のことはなにもしない。それがありがたいのだ。
私は小町にありのままを伝えようと試みた。もしかすればそこには、私よりもずっと長生きな死神ならなんとかしてくれるだろうという期待があったのかもしれないし、あるいはもっと直接的な、問題解決の糸口を見つけてもらおうという打算があったのかもしれない。
それでもなんとかしてほしかった。
私の中の弱い自分が、誰かに頼れと言っていた。
「……私と親父は喧嘩別れしたきり、何年も会ってなかったんだ。私はそれでいいと思っていたし、たぶん、親父も似たような気持ちだったんじゃないかと思う。もちろん後悔がないとは言わない。でも、少なくとも私は、親父を意識しないように、なるべく思い出さないようにしてた」
私は、小町のことを本当の意味では知らない。
霧雨魔理沙は、小野塚小町を、なにも知らない。
死神で、渡し守で、怠け者だということ以外は、きっと少しもわからない。
そんな相手に私は、自分の人生に関わることがらを打ち明けている。それはとても危険な行為で、落ちかかった吊り橋を渡るような試みなのだろうと思う。
それでも私はあらゆる手段をとらなければならなかった。
吊り橋が本当に落ちてしまう前に。
親父が……死ぬ前に。
「でも、ずっと忘れたままではいられなかった。親父が病気で倒れたって、知り合いから連絡があったんだ。ついこの間のことだよ」
「病気……」
小町は、一瞬自分のふところを探るような仕草を見せたが、私の視線に気づくとすぐさま手を引っ込めた。
「ああいや、なんでもないんだ。続けてくれるかい」
この場合は、気にしないのが正解なのだろう。
「……初めは躊躇っていたんだ。純粋に親父と会うのが気まずいというのもあったし、もちろんそれ以外の理由もあった。だけどそれからいろいろあって……本当にいろいろなことがあって、私は親父に会おうと決めたんだ」
「その病気ってのは……重いものだったりするのかい」
「ああ、病気自体は相当重い。最初に親父の顔を見たときは驚いたなんてもんじゃなかった。死人が可愛く思えるくらいだったよ。本当にこれで生きているのかと思ったら、一応起き上がることもできたし、口もきけた。多少なら重い物だって持てるくらいだった。それでも本心からは信じられなかった。永琳の治療がなかったら、とっくの昔に死んでたんだと思う」
とっくの昔に死んでいた……自分の口から出た言葉が、なんだか自分のものではないような気がした。それほどに、恐ろしかったのだと思う。
小町は表情を消した顔で、私の話をじっと聞いていた。死神である彼女がなにを考えているのか、人間の私には少しも計り知ることができなかった。
「さっきも言ったとおり、私は親父に会って来た。それこそついさっきまで、同じ部屋で同じ空気を吸っていたんだ。すまん、ちょっといいか」
小町に断りを入れて、私は霖之助から譲ってもらったストーブに火を入れた。冷え切った部屋と、冷え切った私の身体にじんわりと暖かさが沁みる。
小町の隣に座り直し、私は続ける。
「謝ろうと思った。勝手に家を飛び出したこと、それから何年も帰らなかったこと、散々心配かけたこと。たとえ親父が心配していなくても、母さんが心配してくれてるのは知っていたから。私だって少しは成長したはずで、だからもういつまでもいがみ合っている場合じゃないって、本当はちゃんとわかってたんだ」
「それで、謝ったのかい」
「いや、それが……」
これ以上先を話すことはさすがに躊躇われた。『すまん、やっぱりこれ以上は話せない』……そう言ってしまえば、きっと小町は追及してこないだろう。その大人びた優しさに甘えることはできる。なにも難しいことではない。むしろ妥当な選択肢だ。言うまでもなく小町は部外者で、この話は部外者には出すぎた話なのだから、最後まで話すことが彼女のためになるとは思えない。
私は言葉に詰まってしまう。さっきまで淀みなく口を動かしていた私がまるで別人のように思えた。
小町は表情ひとつ動かさないまま、私の目を見ているようで、実は微妙に見ていない。その視線の先は知れず、私は見つからない言葉を探し続け、やがて時計の音のみが増幅されていく。
言うべきことはなにもなく、小町は内心で怒っているのかもしれず、一秒さえ無限に続くように思われた。
その一秒を割るのは誰か。
他でもない、小町だった。
「言いたくないなら、それでいいよ」
突き放すような無骨さの中にほんの少しの優しさを混ぜたような、そんな温かさがあった。
「小町……」
笑っていた。
「詳しい事情はわからないけどさ、大変だったんだろ。それだけは伝わってきたから、あんたがそれ以上言いたくないってんなら、それでいいよ。でも言っておきたいことがあるなら遠慮せずにはっきり言いな。あたいでよけりゃあなんでも聞くからさ。それに、墓まで持ってく言葉なんてのはないほうがいいんだ」
小町はそこで言葉を区切り、ほんの一瞬、息を止め、
「死人は口をきけないんだからさ」
そう言った。
私の時間は、その一瞬に限り、確かに停止していた。
——この死神にはすべてを打ち明けていいような気がした。
「なるほど、ね」
すべてを語り終えた私に小町は頷きを返し腕組みなどして見せたが、不思議とその表情に暗い影は見受けられなかった。私の話はけして軽いものじゃないはずで、事実語る私からしても相当の苦労を要するものだったのに、聞く方の小町にはむしろ余裕すらあった。いわゆる経験の差が表れているのか、あるいは単なる性格のせいなのかもしれないが、本当のところはわからない。
「結局仲直りはできずじまいかい」
「ほんっと、馬鹿娘だよな、私……はは」
私だけが笑っている。その声が止むと、部屋はしん——と静かになった。
言ってしまった後で悔やんでも遅いが、私の居心地の悪いことといったら先ほどまでの比ではなかった。私は満身の覚悟をもって「霧雨魔理沙がいかに馬鹿者であるか」を長々と語ったわけで、行きがかり上そうなるのは仕方ないのだが、やはり決まりが悪いものはどうしようもない。
「病人相手に何本気になってんだろうな」
「そうだね」
小町は過剰な気遣いを知らない。自分の意思を曲げてまで相手に合わせようとはしない。けして付き合いが長いわけではないが、話していてそれくらいのことはわかる。つまり個性が強いのだ。人によってはとことん合わないだろうが、私との相性は比較的良好に思えた。
ぶしつけなくらいが、丁度いいのだ。
「まああんたの家のことだからね、何とも言えないけどさ。でもそれにしたって限度があると私は思うね。あんたは感情的過ぎる。十人いたら十一人がそう思うだろうね」
「……そう、だよな」
「謝ろうにも取り合ってくれないんだろう?」
「ああ」
「没交渉かね」
「没交渉だな」
小さな息をひとつ吐いて、それきり小町は黙り込んだ。ぼんやりした目つきで頬杖をついて、壁の掛け時計を見つめている。
いつまでそうしているのかと思ったら、いくらもしないうちに小町は再び口を開いた。
「なあ」
私の方を見ようとはしない。さっきと変わらないぼんやりとした目つきで、唇だけを動かしている。
「あんたはどう思う? 親父さんはあんたのことを嫌いだと思うかね?」
またそれか。
そう思った。
おのおのが違う頭で考え違う口から発したはずの言葉はどれも同じもので、少し目を凝らせばそこに作為の糸が見えるような気がする。実は私の周りにいる人間がみな一流の役者で、陰でこっそり口裏を合わせていて、その真ん中で踊る私だけが何も知らない道化なのではないか。だとすればどんなにか救われるだろうと思う。みんな嘘で、フィクションで、吹けば飛ぶような娯楽だったら、それが私に知れていたなら。
きっと、悲劇のヒロインも悪くはないのだろう。
「好きじゃないだろうな」
妄想を、その一言で吹き消した。
好きじゃない。嫌われている。現実的で便利な言葉だ。夢を打ち消す魔法の呪文だ。
地に足つけて生きていける。生きていかねばならない。
それが私は、少しだけ悲しい。
「ふうん」
それだけ言って、小町はまた物言わぬ石像に戻った。
その態度に困惑したのは私だった。
「え、何だよ、それだけか? 他に言うことがあるんじゃないのか」
「いんや。ただ聞いてみただけだよ」
本当はそうじゃないような気がする。ぼーっとしているのも酔いが抜け切っていないとかストーブが近いとかそういう理由からではなく、計算ずくで気を抜いているように思えてしまう。
あるいは、落ち着けと暗に示しているのだろうか。
私は小町に倣って心を静めようと試みたが、ちっとも上手くいかなかった。意思とは反対に唇を噛み締めてしまうし、膝に置いた手を開くこともできない。握りこんで皺が寄ったスカートは、まだしっとりと濡れていた。
それからさらに十五分が経過し、小町はまたも突然に口走った。
「実はこういうものがあってね」
見れば、小町が自分のふところから何かを取り出すところだった。さっき出そうとして出さなかったものだなと思い当たった。
それは本のように見えた。しかもかなり古びている。色褪せていて、あちこち折り目だらけで、開き癖なんて数え切れないほどありそうで、おまけにとても分厚かった。
表紙には何も書かれていない。書いてあってもたぶん掠れて読めなかっただろうと思う。
「何だそれ」
と口では言いながら、実はある程度予想がついていた。死神が意味ありげに取り出した本なんて、もちろんただの本であるはずがない。
小町は軽い世間話を振るような口調で答える。
「言うなら寿命の戸籍帳みたいなもんだね。誰がいつ、どこで、どんな風に死ぬのかが事細かに書かれてる」
「寿命の……」
驚かないと言えば嘘だった。いくら予想を立てていたとはいえ、「どう頑張っても知りえない世界の秘密」のようなものが、本というわかりやすい形で目の前に存在する事実には勝てなかった。
小町がそれを出してきた理由は何となくわかった。
「っていうことはつまり、親父のことも……」
「そういうこと。もちろんそれだけじゃない。あんたやあんたの知り合いの寿命だってばっちり載ってる」
何でもないように言う小町を見て、ああこいつはやっぱり死神なんだなと今さらのように思った。人間の神経で考えれば、そんな大層な情報の集まりをたやすく振り回すことはできない。
「でもいいのか?」
「何がだい」
「何がって……人が生きるとか死ぬとか、そういうことに関わる本なんだろ? そんなに簡単に見せびらかして大丈夫なのかって話だよ」
「もちろん大丈夫じゃないさ」
まるで問題なさそうな顔で言っている。さっきからずっとそうだ。終いにはこいつの表情が内面の感情を正しく表しているのかさえ不安になってきた。
しかし、小町はこうも言った。
「建前の上ではね」
「建前……」
それは、小町の前ではもっとも意味をなさない言葉に違いなかった。
「普段は全然使わないんだけどね、これ。なんせあたいは渡し守だからさ、すでに死んでるやつの相手しかしないわけだ。この本を使う機会はまずない。こっちから読み上げでもしない限りはね。でもまあこんな本でも持っておくもんだよ。人はいつ死ぬかわからないから怖いんだ。わかってりゃあ手の打ちようもあるってもんだろ?」
なあ、霧雨。
そう言って、小町は手にした重そうな本を私に向けて放ってきた。雑な動作で投げたためか、宙を舞う過程でそれはもう盛大に頁がめくれて、慌てて受け取った私も酷く不細工な格好になった。
「五十音で分かれてるからさ。見るなら適当にいろはで辿って調べな」
とは言うものの、もちろんそんなに簡単にことを運べるはずもない。
何せ寿命が載っている本だ。死神の持ち物なら偽物ということもないだろう。小町も大概いい加減なやつだが、まさかこんな時でさえ持ち前のズボラさを発揮するとは思えない。明らかに本物だ。ということはつまり、この重くて分厚い凶器のような本を一頁でもめくろうものなら、私は普通に生きているだけでは触れることのない情報と顔を合わせることになる。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「……一応、あたいが酔って前後不覚になっているときにたまたま開かれていた頁をあんたが偶然にも目にしちまったという筋書きで頼むよ」
無理の上から無理を塗りたくったような理屈に、しかし今は従わなければならないのかもしれない。
膝の上に置いた紙の束を見る。何のことはない、薄紙を重ねればこうなるというだけの、ただの本である。少なくとも外見はそうだ。実は厳重な封印が施してあって、少しでもめくろうものなら手が消し炭になるようなことも、もちろんない。ほんの少しの勢いと、無鉄砲さがあればいい。それだけで私は親父の未来を垣間見ることができる。自分の将来だって掌の上だ。知る努力はいらない。
しかしその決意の重さだけは、どうしてもごまかすことができない。
人の寿命なんて、普通に暮らしていればどうあってもわかりっこないものだし、わかってはいけないものだと思う。あらかじめ自分の命日がわかってしまえば、来るその日まで怯えて過ごさなければならないに決まっている。一生を棒に振るのと同じだ。誰だって、自分が死ぬという想像に四六時中背中を脅かされていたくはない。できることなら、自分を含む誰かが死ぬなんてことを考えるのは、本当に死んでしまうその一瞬だけにとどめておきたい。
冷たくて悲しいものからは、可能な限り目を背けたい。
だからこれは悪魔の本だ。この本自体に罪があるのではなく、人の中に住む悪魔を具現化させてしまうのがこの本なのだ。他人の人生を盗み見するような暴挙さえ当然のごとく許される。その愚をわらい、罪を糾弾する者はどこにもいない。少なくともこの場所にはいない。
親父がいつ死ぬか、それがわかるのなら確かにこれは便利だ。便利だなんて言葉で片付けたくはないが、やはりどうしようもなく便利なのだ。「その日」が近ければ心の準備ができるし、遠ければまだ時間的猶予はあるのだと、そんな姑息な算段を巡らせることができる。道徳の光にかざせばそれは反則なのかもしれないが、しかし生きるに正しいも正しくないもあったものではない。
私の時間が凍りつく。身体中から嫌な汗が噴き出してくる。小町は何も言おうとしない、どころか私の方さえ見ていない。我関せずのスタイルで、掛け時計の針を見つめている。ふと、彼女にとっての時間がどんな意味を持っているのかと考えて、かき消した。
いけないことだと理性は叫ぶ。戻れない領域にお前は片足を突っ込もうとしているのだと説いている。しかし天秤のもう一方には無責任な私がどっかと腰を下ろし、そして声高に言うのだ。『見てしまえ』と。それがお前の得になるのだと。
この本を開くにしても小町に返すにしても私は両手を使わなければならないが、肝心の両手は石のように凝り固まって容易に動こうとしなかった。決めかねている。その迷いが動作にまで及んでいる。駄目だ、こんなことではいけないと思いこそすれ、その焦りは実質的な効果をもたらさない。
身体を濡らす冷たい汗は、とどまることを知らずに流れ続ける。
そして。
無地の表紙を永遠近く眺めた私は、やがてその終わりに立ち上がり、本を持つというよりは抱えた状態で小町のもとに歩み寄った。その際、これが小町のふところに入っていたのかと頭の片隅でちらりと思った。
「小町」
「ん。どうした」
「これ」
目をつぶり、どこも見ないようにして、私は小町に本を突き返した。
「……何だ、いいのかい」
「ああ、いいんだ」
やっぱり、私には無理だったのだと思う。必要なら盗みもやる霧雨魔理沙がそれでも越えることのできない一線が、そこにはあった。
「その言葉に偽りはないね。これを見たところであたいはあんたを責めないし、まして心の中で軽蔑することもない。それでも本当に、あんたはこれを見ないまま生きていくんだね」
私は再度頷いた。何度尋ねられても私の出した答えが変わるはずはなかった。
「へえ、そうかい」
見れば、小町は凄みのある笑みを浮かべて私を見つめている。その瞬間、私は確かに、この死神に認められたような気がした。
「あんたなら迷わず覗いちまうだろうと思ったけどね。一体どういう風の吹き回しだい?」
「親父がさ、言ってたんだよ」
かつて親父から聞いた数少ない言葉のひとつを、私は思い返す。
「『楽をして作った道具に未来はない』——確かそんな感じだったと思う。因果応報だな。ごまかせばごまかした分だけ、いずれツケを支払わなきゃならなくなるんだよ。今の私がまさしくそうだ。だから、こんなずるい手段を使って自分を楽にしようとするのは、もうやめだ」
先延ばしにして、逃げてばかりではいつまで経ってもジリ貧のままだ。遅かれ早かれ、いつかは区切りをつけなければいけないのだ。
「ふうん、なかなかいいことを言うじゃないか、あんたの親父さんも。しかしそうなるとますます不可解に思えてくるね」
「不可解って、何が」
「そりゃあ親父さんのことだよ」
どうにもはっきりしない。小町は腕を組んで難しい顔をしているが、その頭が何をこねくり回しているのかちっとも見えてこなかった。
するとそんな私の心境を知ってか知らずか小町は私を見て、
「何だわからないのかい。親父さんがあんたを遠ざけている理由だよ。今の話を聞いた限りじゃ分別のない人間だとは思えないんだが……いやあ、親っていう生き物はわからないねえ。あたいには両親がいないから、そのあたりの機微にはどうしても疎くなっちまうよ」
なるほど、そういうことか。けれどそんなもの、実の娘の私にだってわからないのだから、まして死神にそのこころを推し量れるはずもないのである。
「いや、当の私にもそのあたりははっきりしないんだ。考えなしの無鉄砲ってことはないと思うんだが、やっぱり実の親だからかな、冷静じゃない部分もあると思う。私も親父も感情的にならずにはいられないんだよ」
「そういうもんかね」
「そういうもんだ」
本当は、そう言い切ることができるほど娘歴の長い私ではない。親父の手を離れてからの霧雨魔理沙は、もはや誰の家族でもなかったのだから。
「まあ、あんたがそういうんならそうなのかもねえ。しかし家族というのはわからないね、こればっかりは外から見てるだけじゃどうにも掴めないよ。いや、あたいの舟には人間が乗るわけで、そいつらはみんな誰かしらの家族だったわけだから、そういう空気は割と近いところにあるんだけどさ」
それは私のセンチメンタリズムが見せた幻影なのかも知れなかったが、その時の小町は、少しだけ、寂しそうに見えた。
家族がいない。
その点において、このどこか擦れた死神は、霊夢に似ている。
私は今しも口に出しかけていた言葉を危うく呑み込んだ。
家族がいたっていいことばかりじゃないんだぜ——そんなこと、言えるはずもなかった。
「家族……家族ね」
小町は同じ言葉を何度も口の中で繰り返している。
「なあ霧雨……家族ってなんだ?」
不意にそんなことを訊いてきた。
それは偶然にも私が考えていたことと一致していた。
「さあ……私にもわからないんだ。普通に暮らしてればそんなことは考えないしな。でもいざ遠く離れてみるとさ、ああやっぱりあの人は私の家族だったんだなって気づくんだよ。だから、家族の証明書ってのは別れの隙間に落ちてるんだよな、きっと」
「近くにいるとわからないのかい。何だか変な話だね」
「近いからだよ。いつも側にあるものって、結局ないのと同じなんだよな。ちゃんと見ようとしないから」
「……ずいぶん間抜けなんだね、人間ってのは」
「ああ。特にお前みたいな死神にはそう見えるだろうな」
私から見たってそう見えるんだから。
「そうだね……でも、何となく見方が変わった気がするよ」
小町が立ち上がる。一度大きく伸びをして、近くに立てかけてあった鎌を担ぐと、それだけでいくらか様になって見えた。
「あたいはここらで消えさせてもらうよ。いつまで長居するわけにもいかないしね」
「また来いよ。今度はもっといい酒を用意しとくからさ」
「そりゃあいい。近いうちに四季様の目を盗んで遊びに来させてもらおうかね」
「後が怖いぞ」
「知ってる」
小町との別れに私は精一杯の笑顔で向き合おうとしたが、彼女の目にはその綻びさえ見透かされているのかもしれなかった。
「ああ、最後にひとつだけいいかい、霧雨」
「何だ」
「……親ってのは子供がいない場所だと案外素直なんじゃないかねえ……四季様を見てると、時々そう思うことがあるよ」
——なるほど。
小町にとっては、四季映姫こそがその人なのか。
出て行った小町と入れ替わりに冬が帰ってきた。静かな部屋にため息が溶ける。ストーブが燃え上がりざまにじりじりと鳴いた。濡れた服も乾き、寒さがまた少しだけ遠ざかった。
決めた。
小町が帰り際に口にした一言を確かめようと思う。
とんがり帽子を目深にかぶり、手袋をはめマフラーを巻いた。
魔導書の塔を左に避ける。
玄関に立ち、ノブを回した。
身を切るような風が顔に吹きつけてくる。
怯まない。
箒にまたがって、私はまたぞろ空を駆けた。次は大丈夫だ次は大丈夫だと言い聞かせながら、一心に人間の里を目指す。
空がうっすらと赤い。時刻は夕方に差しかかろうとしている。
今度は私にも策があった。いや、策と言えるほど上等なものではないのかもしれない。見る人が見れば笑うかもしれない。しかしそれを実行しないで燻るのはもっと笑うべきことだと思う。
目的地が見えてきた。『霧雨店』の看板の前に誰もいないことを確かめ、木枯らしを吹き散らしながら私はそこに降り立った。
もう一度だけ辺りを見回す。
鼻を垂らした子供がひとり、風車を手にぺたぺた草履を鳴らしながら駆けて行った。
それきりである。
覚悟が決まった。
やはり場所を変えることにして、私は店の裏手にある背の高い草むらに駆け込んだ。人目につかない方が何かと都合がよかった。一応ここでも先客がいないことを確認してから、私はふところに忍ばせておいた紙切れを取り出し、広げる。
走り書きというのもあるが、一見しただけでは読み解けないように工夫して書いてある。これを解読できるのは幻想郷でただひとり、私だけだと自負している。
言ってしまえば魔法の呪文だ。
肌に刺さる草をひとしきり蹴散らして、その場に座り込んだ。一度手袋を外して、地面に即席の陣を描く。準備完了だ。
長たらしい呪文をつっかえないように注意しながら唱え終わると、私の姿は風にかき消えるように溶けていき、やがて完全に見えなくなった。
成功である。
長いこと研究してきた甲斐あって、精度も申し分ない。空気にでもなった気分だ。外しておいた手袋をはめると、手袋も見えなくなった。これで一時間は透明人間の状態を維持することができる。
『親ってのは子供がいない場所だと案外素直なんじゃないかねえ』——小町の言葉だ。
正面突破が駄目なら搦め手を攻めるしかない。攻めるというのもおかしな話だが、とにかく親父のもとにこっそり忍び込んで、その真意を上手いこと立ち聞きしてやるのだ。
親父は、本心で私のことをどう思っているのだろう。
ついでに足音を消す魔法もかけてから、私は草むらを飛び出し、店の正面に回り、堂々と歩いて侵入した。
途中で廊下を歩く母とすれ違った。ぶつからないように気をつけながら顔を窺うと、その表情はやはり曇っていた。私のことを心配してくれているのだろうか。子供心にはやはりそう思いたかった。
いくら見えなくなっているとはいえ勝手に襖を開けるわけには行かず、誰かが開けるまで私は親父の部屋の前で立ち往生することになってしまった。壁にぴったりと背中をひっつけて、通る人の邪魔にならないように心がけながら、同時に部屋の中から聞こえる話し声を追いかける。
中には親父に加えて霖之助と霊夢がいるようだった。飛び出した私を追いかけてくれてもよさそうなものなのにと思ったが、時間を考えれば、一度追いかけてからまたここに戻ってきたのかもしれない。
それからしばらくは特に物音もしなかった。息をつめた私のわずかな呼吸音と、心臓の鼓動だけが耳の奥に聞こえていた。
その音に親父の声が重なったのは、それからだいぶ後のことだったと思う。
「まったく、あの馬鹿は」
酷く掠れた声だが間違いなかった。霖之助や霊夢のそれではない。間違いなく親父が話している。
「なぜ帰って来ようなどと思った……見舞いなどされても胸糞が悪いだけだのに……」
胸を衝くような感覚があった。
私のことを言っているのは明白だった。やはり私は親父にとって邪魔者でしかないのだろうか。あるいは小町の言うことが当てずっぽうのでたらめだっただけなのだろうか。
「親父さん」
霊夢の声。
「たぶん、魔理沙には魔理沙なりに考えがあったんだと思うわ。いろいろ、悩んでたんだとも思う」
「その気遣いが……煩いと言うんだ」
親父の返答はにべもない。
「あいつはもう俺の娘ではない。勝手に家を飛び出して、それきり何年も帰ってこないやつを指して自分の子供とは言わない」
沈黙、
霖之助の声、
「ですが親父さん、魔理沙はけして心根の曲がった子ではないと僕は思います。少し不器用ではありますが、自分の志を信じて真っ直ぐ進むことのできる強い子です。もう……許してあげてもいいのではないですか」
「駄目だ」
「どうして、」
気色ばんだ霊夢の声、
「どうして駄目なのよ、親父さん。魔理沙は謝りたいと思ってここに来たのよ。病気の親父さんを笑うためにここに来たんじゃない。なのにどうして……」
しばしの沈黙。
「だから駄目なんだ。俺は……あいつを許してはいけない」
許してはいけない。
その言葉に私は引っかかりを覚える。
親父は、ぽつりと言った。
「あいつの夢は尊い」
耳を疑った。
その声が、言葉が、頭の中にこびりついて離れない。
「え……」
霊夢も言葉を失ったようだった。
親父は、自分でも何を言っているのかはっきりとは掴んでいないのかもしれない。うわ言にも似た独白が紡がれていく。
「あの馬鹿は魔法を学びたいと言っていたな。あいつが……魔理沙が今でもその道を諦めていないというのならば、それは何より貴いことだ。その夢が何かに妨げられるようなことがあってはならない。あいつはもう、俺のもとに養われていたか弱い鳥の雛ではない」
「親父さん……」
「あいつにとって、この場所が帰るべき家であってはならない。あいつの足を縛る鎖であってはならない。俺が倒れようが死のうが関係はない。あいつは自分の見据えた方角に向けて歩いて行くべきだ」
だから、俺はもうあいつの父親であってはならない。
沈黙。
それきり、また何も聞こえなくなった。
「…………」
何て馬鹿な父親だろうと思った。親父は病人で、誰より自分を気遣わなければならない身の上なのに、何だってそんなことを考えているのか。こんなことなら嫌われている方がまだマシだ。親父を指してあんたは父親失格だと切り捨ててやれたならそっちの方がずっと楽だ。
何で……そこまで私のことを。
私はこの場を去ろうと決めた。その気になれば透明化の魔法に物を言わせて居座り続けることもできたが、やはり駄目だった。
これ以上床を濡らせば、いずれ私がここにいることも知られてしまう。
そう思ったのだ。
魔法の森の家に帰って、それきり私は、どこにも行けなくなった。
何もできないまま三日が過ぎ、その夜更けに霊夢が訪ねてきた。
親父が、とうとう危篤に陥ったらしい。
取るものも取りあえず、霊夢とともに人里を目指して飛んだ。
思考は消し飛んでいた。ともすれば自分が飛んでいる目的さえ風の狭間に忘れそうになった。その瞬間、私は確かに、夜を引き裂く一発の黒い弾丸だった。
身体のあちこちに擦り傷ができた。血も流れた。しかし、それらの傷がどこで、何によってもたらされたのか、その記憶だけがごっそりと抜け落ちていた。
眼下の人里は夜に沈んでいた。その一点を撃ち抜くような急角度で、私は降下する。
みるみるうちに地面が迫り、激突まであと三メートルもない、というところで私は魔力を解放して、無理やりに勢いを殺した。箒を乗り捨て、走る。
焦りと荒い息が支配する意識の中で、私はいきおい靴も脱がずに店の奥まで転がり込んだ。
「親父!」
開いた襖の奥、敷かれた布団、頼りない灯り、混じりあう薬と畳のにおい、振り返る母、起き上がらない父。
本当に死んでしまったかと思った。
「魔理沙……」
霖之助の声がする。
親父は前よりずっと痩せていて、ともすれば骨に見間違えそうなほど脆く、儚く、弱っていた。眠りの息は浅く、このまま永遠に目を覚まさないのではないかと、あるいは少しの風にもかき消されてしまうのではないかと思われた。
私にはすでにその場に立ち尽くすだけの勇気すら残されていなかった。今にも死にそうな父親、という動かしがたい事実に真正面から向き合うことが怖かった。親父の枕元に座ったままじっと動かない母と霖之助を心の底から尊敬する。同じことが私にはできない。絶対にできない。唯一私に残された行動は、ささくれた神経を振り乱しながら隣の部屋に引き上げることだけだった。廊下を歩き、閉ざされた襖を開ける。
そこで、永琳に会った。
積まれた座布団しかない部屋では、彼女の姿がいっそう目についた。
気になってはいたのだ。親父が危ないというのにどうして肝心の医者がいないのか。答えはこの部屋で助手の兎——確か鈴仙と言ったか——と薬箱を侍らせる彼女の姿が物語っていた。すぐに親父の部屋へ取って返すつもりだったのだろう、何やら瓶のような物を辺りに並べてごそごそやっているところに私は行き合ったのだった。
当然目が合う。
「あ、」
三人の口から同時にもれたその声は、きっとそれぞれに違う意味を含んでいたのだろうが、少なくとも私は、医者の肩書きを背負った彼女らの姿に救われた心地がしていた。
まだ諦めなくていい、まだ助けられる、まだ親父は死なない、
まだ——
「よかった、間に合ったのね……」
安心したように言ったのだ。
ほっとした顔で私を見て、『まだ大丈夫だ』と言いかけた私の心の声を殺して、永琳は言ったのだ。
——間に合った。
何に間に合ったかなんて考えるまでもない。この医者は遠からず親父が死ぬことを念頭に置いて話しているのだ。
ふざけるなと思う。間違っている。明らかに。
人を生かすから医者なのだ。死なせないから医者なのだ。永琳も、鈴仙だってそうだ。こいつらは親父の死を看取るための単なる頭数ではない。それがわからないはずはないのに。
「……なあ、どういうことだよ、今の」座っていた永琳の胸ぐらを両手で掴み、無理やりに立たせた。乱暴なのは承知だが、私は止まらない。「何とか言えよ、おい」
「ちょ、ちょっと何よいきなり」永琳はそう言った後で唐突に目を見開き、そして静かに私の視線から逃げた。私が「いきなり」怒り出したのではないことに気づいたのだろう。
「間に合ったってどういうことだよ。親父は死ぬのか? それはもう変えようのないことなのか?」
彼女は一言も口にしない。いや、できないのだと思う。そらされた視線が再びこちらを向くこともなければ、事態が好転することもきっとないのだ。それが私にはたまらなく悲しいことに思えた。
永琳からこういう反応が返ってくることを予想していながら、しかし私は心の底で違う未来を望んでいた。すべては私の早とちりで、「間に合ったのね」というさっきの台詞もただの言葉の綾で、本当は全然違う事実を指していて……そうであってくれたならどんなによかったか。
「諦めたのか。親父がまだ生きてるうちに、お前は」
しかし永琳は言うのだ。
「……最善は尽くしたわ」
その一瞬の表情に、私は経験ある大人の醜さを見たような気がした。
「違う! そんなことが聞きたいんじゃない!」
私は激昂した。
「ま、魔理沙……」
立ち上がりかけた鈴仙を「黙ってろよ!」の一喝でしりぞける。
「……なあ、何でだよ。お前は大人で、腕のいい医者なんだろ。腕がいいってことはお前のやり方が正しいってことなんだろ。じゃあ何で親父は死ななきゃならないんだよ。正しい大人が正しい方法で人を治療して、それでも治らないなんておかしいじゃないかよ!」
許せないのだ。
郷一番の名医で通っている八意永琳の名前が、親父の前でだけ翳るという事実。例外が私の身内に降りかかるという不幸。それが私にはどうしても許せない。認められない。認めてしまえば終わるから。
「お前なら絶対大丈夫だと思ってたんだよ。信じてたんだよ。なあ、返せよ。その信用ごと返せよ! 親父を治せないならお前なんていてもいなくても同じなんだよ! 頼むよ、頼むから治してくれよ……」
冷たく立ち尽くす永琳の前で、私はただ、みっともなく、思うがままをさらけ出すしかなかった。
「私には無理なんだ。悔しいけど、すごく悔しいけど、私はまだ子供なんだ。私の魔法じゃ手が届かないんだ。でも医学なら何とかなるんじゃないかな。もしかしたら治せるんじゃないかな。だからさ、何とかしてくれよ、頼むから。お願いだから。お願いします。親父を……親父を治してください。まだ、謝ってないことがあるから……このままじゃ、謝れないから」
最後まで永琳を掴み続けることはできなかった。いつしか私は、畳の上にひれ伏して、泣きそうな声で彼女に縋っていた。
今の私を客観的に見ることができたなら、そこにはひどく無様な人間が転がっているのだと思う。人としての尊厳とか、恥じらいとか、そういうものの一切を私は脱ぎ捨ててしまっていた。
「ごめんなさい、魔理沙。できなかったのよ……私には、どうにも」
その言葉は、その宣告は、崩れ落ちた私の頭上に容赦なく降り注がれた。
「どうして、」
永琳の顔を見上げ、私はそこに、悲しみと哀れみとほんの少しの悔しさが入り混じった表情を見る。
「私のやり方が間違っているとは思わない。そのための勉強もしてきたわ。最適な薬を、最適な分量で、あなたのお父さんには投与したつもり。そう……そのはずなのよ」
私は正しいはずだった。
永琳はあえて過去形で語った。いや、もう尽くす手がないというのなら、その表現こそしかるべきなのかもしれない。
「でも、追いつかなかった。あなたのお父さんを治すには、正しいだけじゃ足りなかった」
永琳は、そして、
「ごめんなさい」
深々と頭を下げた。凛とした彼女の身体が、罪の重さに耐えかねたように、私の前でだらりと折れた。目前に垂れ下がった長い銀色の髪からは、微塵の生気も感じられなかった。寝ずの看病が続いたことは明らかだった。
「やめて……やめてくれよ。負けを認めるなよ。お前に治せない病気なんて、そんなの嘘だろ」
なぜだ。なぜ完全なはずの医学が、そのぴったり閉じた両手から、人の命を取りこぼしてしまうのだ。
なにゆえに悲劇というものは、それを回避するための努力を認めないのだ。
「医学は負けたわ。私はそれが許せない。人を助ける手段が、あなたのお父さんの前に敗北したことを、とても……とても、」
私の頬に、滴が一滴、ぽつりと垂れた。
「悔しいと思う」
その時だった。空っぽになった私の心に、悪魔の想像が落ちてきた。
「……なあ、永琳」
これは本当に悪魔の手段だった。ただのその場しのぎにしか過ぎない、本質的には何の解決ももたらさない、最低で最悪の、反吐が出るような方法。
「作ってほしい薬がある」
しかしその時の私には、手段を選ぶ余裕というものがなかった。正しい指標に従って善と悪とを選り分けていれば、失ってしまうものがあった。
実行を躊躇する暇はなかった。
だって親父は、まだ生きているのだから。
ここからは、起きたことだけをかいつまんで記していこうと思う。
まず私は妖怪の山に向かった。永琳に薬を作ってもらうためには、そこに生えている薬草がどうしても必要だった。そう、前に咲夜が話していた、万能薬に変わる薬草である。しかしその薬は本当に万病に効くわけではなかった。噂はあくまでも噂に過ぎず、私は落胆した。
しかし私の目的は万能薬を手に入れることではなかった。もちろん万能薬が手に入ればそれに越したことはないが、そんなものが存在するはずがないということも心のどこかで薄々わかっていた。私の目的は、私が手に入れたい薬は別にあった。そしてその薬の調合にこそ件の薬草は役立つらしかった。
薬草は、強力な結界で守られた祠の奥に花を咲かせていた。私の魔法はおろか、霊夢の能力でも容易には手が出そうになかった。だがここで怯むわけにはいかなかった。そうしている間に親父は死んでしまうかもしれない。その想像が私を無謀な手段に駆り立てた。
頭を使って追いつく問題ではない。その、言うなれば「小型博麗結界」とでもたとえるべき代物に、ちまちました手段で太刀打ちするのはあまりにも愚かだった。血迷った私は手にした八卦炉にありったけの魔力を注ぎ込み、暴発させて結界にぶつけた。光の束が四方八方に飛び散るも、結界に穴が空く様子は見えない。自棄になった私は、自分の命を削ってまでも魔力の生成を試みた。倍加したエネルギーの塊が不可視の結界にぶつかっては消えぶつかっては消え、やがてその中心に小さな穴が空いた。もたもたしていては閉じてしまうほどのわずかな綻びに、私は左手をねじ込んだ。
激痛が走る。肘から先を燃えるような熱が襲い、たちまちのうちに感覚が失われた。もちろん諦めるわけにはいかない、熱と痛みと光の渦に塗りつぶされてゆく意識の中で、私はついに薬草を掴んだ。無我夢中で左手を引き抜き、しかしその安堵も束の間、今度は右手が結界の口に呑み込まれた。
抵抗の意志は、その時点で失われた。
失われたはずだったのだ。
その後私がどのようにして親父のもとに帰りついたのかは定かでない。どこをどう歩いたのか、あるいは箒を使ったのか、誰かの応援があったのか。それさえはっきりしない。私が覚えているのは、視界一面の紫色と、左手に握った薬草を永琳に託した一瞬だけだ。
再び目覚めた時、私の視線の先には天井の木目があった。見たことのある天井。私は店にいるのだと思い至った。身体中に鈍い痛みがあり、視界が妙に狭く感じられたが、構わず私は身を起こした。
と、そこで眼鏡をかけた永琳と目が合った。
「よかった。目が覚めたのね。三日も寝ていたのよ、あなた」
「親父は……親父は助かったのか」私にはそれだけが気がかりだった。
永琳は私の質問には答えず、ただ部屋の入り口を目で示した。「……聞こえないかしら?」
その声に従って、私は店の中の音に耳をすませた。
金属が別の金属を叩く、規則正しい音が聞こえた。
私がその音を聞き違えるはずはなかった。
「じゃあ、親父は」
胸の一点から、じんわりと安堵が広がっていく。
「ひとまずは安心よ。でも魔理沙……わかっているわね」
「ああ……もちろん」
しかし今この瞬間だけは、親父の無事を喜ばせてほしい。そう思った。
私は両手で顔を覆う……いや、覆おうとしてできなかった。私の意思に従って顔を覆ったのは左手だけだったのだから。右半身に、何とも言えない違和感を覚えた。
焦りが走る。急速に時間が引き延ばされていく感覚があった。
私はゆっくりと、狭くなった視界の中で、自分の右肩を見た。
そこには、確かに私の右肩があった。
しかし平穏はそこまでだった。
本来その先についているはずの腕や肘や指の形が、どこにも見当たらなかったのだ。
視界がぐらぐらと揺れた。
叫びだしそうになる喉を抑え、何かの予感に従って、私は左手を自分の左目にやった。包帯で塞がれている。しかしその奥に存在するはずの、半球状の感触がなかった。どれだけまさぐってもなかった。同時に、もう戻ることはないのだと私は悟った。
ああ、と思った。
私は、これだけのものを失ってしまったのだ。
親父に捧げた、不老不死の薬と引き換えに。
「親父」
「何だ」
「……いや、やっぱり何でもない。病気が治ってよかった。それだけだ」
「魔理沙」
「何だ、親父」
「…………お前は、俺を許してはいけない」
「え?」
「お前が薬草を取ってきたことは知っている。そのせいで左目と右腕を失くしたことも。それは俺の罪だ。お前が死ぬまで消えることのない罪だ。だからお前は、俺が死ぬまで俺を許すな。俺が死んでも俺を許すな」
「…………」
死ぬことのできない親父は、それを知ってか知らずか、私を見ずにそう言ったのだった。
かくして私は、隻眼隻腕の魔法使いと呼ばれるようになった。かつてのように「普通の魔法使い」と名乗ることも、またそう呼ばれることもなくなった。「普通」の立場を守り続けるには、私はあまりに多くのものを失っていた。
何となく予想はできていたことだが、失われた私の右腕と左目が回復することはないとのことだった。永琳はすまなそうにしていたが、私は別に構わないと言った。これで都合よく五体満足を取り戻せると言われても、私の方が納得しなかった。
非日常が去った後には日常の雨が降り注ぐ。そうなるように世界はできている。すべてが元の場所に落ち着いた後で、私は再び魔法の研究を始めた。幸いなことに最近は、研究も比較的捗っている。
「邪魔するよ」
小屋の入り口近くに積まれた魔導書の向こうから、小町の声が聞こえた。またぞろ有給休暇とやらを取ったのだろう。今度は私にも二人分の酒の用意があった。
「よく来たな」
小町は私の変貌にもさして驚く様子を見せなかった。「まあそういうこともあるんだろうねえ、何せ生きているんだから」そう言って笑う彼女の死生観には、底知れないものがある。
かつて起きた異変のように冬が長続きすることはなく、魔法の森の霧雨魔法店にも春が訪れていた。開け放した窓の向こうから揺れる木漏れ日が差し込み、暖かな風は間断なく部屋の空気をかき回しかき回し吹き去っていく。
その風は、時に私が書き記した魔導書の上をも吹き過ぎ、ぱらぱらとページをめくる。新たに私が書き起こした、一生をかけて追究しなければならない魔法の研究書だ。
そのタイトルにはこうある。
『テーマ 不死身の人間を往生させる方法について』
完結までに随分と長くかかりました。
この小説を最後まで読んでいただいたことに、無上の感謝を捧げます。




