再会と決別の冬
問題は布団に入ってからだった。
明け方になっていい感じに襲ってきた眠気に身を任せ、あらかじめ敷いてあった布団に転がり込んだところまではまだよかった。しかしながら、掛け布団を被っていざ眠るぞと目を閉じたところでそれは押し寄せてきた。
一種の緊張感というやつである。
霖之助と二人で話をしていたときは特に問題もなかった。他人と相対していればその問題に気づくことはない。相手に意識を向けていれば自分のことは自然とお留守になる。今回はそれが上手く働いたと言っていいだろう。
しかし、いざ一人となれば否が応にもその魔法は解ける。望まなくても自分の内側に意識が向く。これは由々しき事態だった。
もう二時間もしないうちに私は布団を抜け出して身支度をしなければならない。身支度をした先に待ち受けているのは香霖堂の入り口で、そこを抜ければあとは人里まで直行だ。いまさらグズって予定を変更してもらうのは無理だろう。第一、どうしても見舞いに行くんだと言ったのは他ならぬ私ではないか。それをいまになってやっぱり心の準備ができていないから予定を繰り越してくれと、一体どの口からそんなことが言えるというのだ。しかし自分に嘘をつくことはできない。親父の前に立つのが恐ろしいという思いは確かにある。何と言われるだろうか、追い返されるだろうか、あるいは門前払いを食らうかもしれない。そんな暗い感情が何か底知れない沼のような場所から無尽蔵にあふれ出てくる気さえする。どうしようどうしよう、私の決意は嘘だったのか、これこそが偽らざる私の本心なのではないか。
どうやら、私は自分が思うよりもずっと、弱くてちっぽけな存在らしい。
眠るどころの話ではなかった。
さんざん寝返りを打った挙句、私は頭まで被っていた毛布を足もとに蹴りやって、ヤケクソ気味に身体を起こした。立ち上がり、枕もとの着替えを乱暴に踏んづけて、霖之助のいる店先に向かう。
霖之助は視界に私の姿を認めるなり目を丸くして、
「……どうしたんだい。寝なくていいのかい」
と言った。
「やっぱり寝ないことにした」
あえてつまらなそうに、私は答える。
「そりゃまたどうして」
「あまり眠くなかったから」
嘘ではないが、かといって真実でもない。ありのままを口にすることはやはり躊躇われた。
「……そうか。緊張して眠れなかったか」
「なっ……」
ものの見事に見抜かれていた。
「ち、ちがっ……私は、」
必死に反論を試みるが、ここまで動揺してしまってはもはや何を言っても無意味だった。仕方ないと諦めて、私は口を閉ざす。
沈黙が降りた。
霖之助はしばらく私を見つめていたが、やがて首を巡らせると手にした本に視線を戻した。何を言う気配もなく、黙々と読書を続ける。
どうしてか、何を言っても無視されてしまいそうな気がした。
立っているのがつらくなった私は、なるべく音を立てないようにして上がり框に腰を下ろした。下を向いた視線の先に小さな私の靴がある。しばらくそうしていると、不意に霖之助が口を開いた。
「親父さんのことだけど」
顔を上げる。依然として本に目を落としている霖之助の口から、独り言のような呟きが続く。
「君は、親父さんが自分のことを嫌いだと思うかい」
思う。
当たり前のことだった。親父が私のことを嫌いでなかったのなら私を家から追い出すはずがないのだ。嫌われていたからこそ私はあの場を追放されたのであり、いまこうしてここにいる。それが覆しようのない事実であり、すべてだ。
「そんなの、嫌いに決まってるだろ」
いまさら聞くまでもないことである。
「私が大切に思われていたなら、きっと見捨てられることもなかったんだろうから」
そういうことだ。
霖之助は「そうか」とだけ呟いて読書に戻った。結局彼が私に何を言いたかったのかはわからなかった。
二人きりの空間に再び沈黙が降りる。規則的な時計の音がやけにはっきりと聞こえ、やがてその秒針がきっかり六十回を数えたとき、霖之助は思い出したように、
「僕はそうは思わない」
と言った。
いきなり何を言い出すのかと思えば、どうやらさっきの話の続きをしているらしい。
「……どういう意味だよ、それ」
「そのままの意味だよ。いろいろと考えてみたけど、親父さんが君のことを嫌っていたとはどうしても思えないんだ」
「私のことを追い出したのにか?」
「ああそうだ」
少しだけ頭にきた。
お前に何がわかるというのだ。
「そんなのはただの希望的観測だろ。お前がそう思いたいからそういう風に感じてるだけだ。そりゃあ親父が本当は私のことをちゃんと考えていて、その上で心を鬼にして勘当したっていうならどんなにかいいだろうさ。でもそんな上手い話があるわけないだろ。ただそうであってほしいからって理由だけじゃまかり通らないこともあるんだよ。お前だってそのくらいわかるだろ」
「でも、君にだって確証はないはずだ。親父さんが君のことを嫌っているんだと、実際に本人の口から聞いたわけじゃないだろう」
「それは、確かにそうかもしれないが……でも私は拒絶されたんだ。それが証拠だ」
そして、霖之助は言った。
「その考えが甘いって言うんだ」
今度こそ、本当に切れてしまうかと思った。それを何とか押さえつけることができたのは、相手が霖之助だったからなのかもしれない。こんなところで感情的になっても意味がないということも、もちろんあるが。
「……お前に何がわかるんだよ」
「わかるさ。僕は君が生まれる前からあの店にいたんだ。だから、これは自分勝手かもしれないけど、君の考えを正すのも僕の使命なんだと思っている」
思えばやはり、このときの私は冷静じゃなかった。使命だなんてそんな重苦しい言葉を使って、結局自分が言いたいことを言おうとしているだけじゃないか——自分の何倍も年を重ねた相手に対してそんなことを思ってさえいた。
「僕は君が生まれた瞬間にも立ち会った。君のお父さんとお母さんと、成長する君を見てきた。だからわかる。親っていうのは、そう簡単には自分の子どもを嫌いになれないものなんだ。それこそ、自分に反発したくらいのことでは」
ふざけるなと思う。
おこがましいとも思う。
でもなぜだろう、霖之助の言葉にはそういった感情をたやすく打ち壊して響いて来るものがあった。
「……だったら、何で私は追い出されなきゃならなかったんだ。そんなのおかしいじゃないか」
しかしその一点において、私は霖之助を信じることができなかった。
「……君が勘当されたことにも、きっと意味があったんだと思う。親父さんは言葉よりも行動で示す人だ、昔からそうだったろう。でも、君も親父さんも似た者同士で素直じゃないから、その気持ちは少しも伝わらなかった。だから誤解が生まれた。親父さんに嫌われているんじゃないかと、君はそう思うようになってしまった。それはとても悲しいことだ。だから魔理沙、ほんの少しでもいい、親父さんの気持ちを汲んでやることはできないだろうか」
親父の気持ち。
そんなこと、考えたこともなかった。親父の考えることは昔からわからなかったし、その心臓には石が詰まっているのだと本気で思っていた。
そうだ、私は初めから親父のことなんてこれっぽっちも理解しようとはしていなかった。歩み寄ることさえしなかった。
何も知らなかったのは私で、甘かったのも私だったのだ。
「……でも、急にそんなこと言われたって」
「できる限りで構わないさ。ただ思い出してほしいんだ。親父さんは君のことをけして虐げたりはしなかった。むしろ……いや、これは言わないでおこう。いまここですべてを明らかにしてしまうのは、やはり無粋な気がするからね」
「……?」
「どうにも話が掴めないという顔をしているね」
そんな顔があってたまるかと思ったが、口には出さないでおいた。
「お前が隠すからだろ」
「ははは、すまないね。でもいまは言わぬが華ということでひとまず納得しておいてくれ。いずれ君にもわかる日が来るから」
「……そういうことにしておく」
「よろしく頼むよ。くれぐれも、親父さんとは火花を散らさないようにね」
それだけ言って、霖之助は笑った。胡散臭さのない晴れやかな笑みだった。
身支度を済ませていざ出発、という段になって、霊夢がやって来た。
「私が行かなきゃ始まらないでしょ」
というのが彼女の言い分である。
別に霊夢がいないからといって困ることがあるかといえばそんなこともないし、常識的に見てあまり大人数で押しかけるのもよろしくないだろう。
と、普段ならばそう思うところなのだが、白状する、今回ばかりは彼女の存在が何より心強かった。
「そうだな。お前がいなきゃ始まらないな」
憎まれ口でも返ってくると踏んでいたのだろうか、霊夢は私の言葉に眉を顰めながら、
「そうそう……って、何よ魔理沙。今朝はえらく素直じゃない」
「それは……」
「いろいろあったんだよ、いろいろね」
霖之助がにこやかな笑みを浮かべて言う。
「何よ二人して、私に何か隠してるわね?」
「別に何も隠してなんか……」
誤魔化そうとすればするほど、どうしようもなく言葉尻が濁る。もう少し私に嘘をつく才能があればこの場を切り抜けられたかもしれないが、望むべくもなかった。
「ふーん……あっそう」
しかし幸運にも霊夢はあっさりと身を引いた。自分の興味がないことに対してはとことん無関心を貫く彼女のことだ、元々あまり気にかかることではなかったのかもしれない。
これはチャンスだ。私は強引にでも話題を切り替えようと試みる。
「さあ行こうぜ。いつまでここで油を売ってるわけにもいかないだろ」
これはなかなか自然に決まったと思う。霊夢が私を怪しんでいるようにも見えない。
「あ、何勝手に仕切ってるのよ。あんたはリーダーでも何でもないでしょ……って魔理沙、その手」
何かに気づいた様子で霊夢が立ち止まる。その視線はドアノブを掴んだ私の右手に注がれている。
「治ったのね」
「ああ、おかげさまで完治したぜ。永琳に薬を貰ったからな」
「貰いに行ったのは僕だけどね」
さっきまで包帯でぐるぐる巻きにされていた私の右手も、いまやすっかり怪我をする以前の姿に立ち返っている。彼女の薬がなければ、三日でここまで治癒することはなかっただろう。
「永琳がついてくれてるなら大丈夫よね。あんたの手だって綺麗に治してくれたんだし」
「……そうだな」
きっと、何とかなる。
ドアを押し開けた先には、肌に刺さるような冷たい風と日の光がある。
物寂しく枯れた木々の間を、平坦な砂利道が細くうねりながら続いている。この道は直に人里へ通じている。
「ちょ、ちょっと二人とも待ってくれよ~」
背後から追いかけてくる情けない声は霖之助のものだ。その度に私と霊夢は立ち止まって、あの軟弱なインドア派が追いついてくるのを待たなければならない。甚だ非効率的な移動方法である。
「早くしろ香霖。このままじゃ日が暮れるぞー」
「そ、そんなこと言ったって」
ようやく私たちのところまでやって来た霖之助は両手を膝についてふうふうと息を荒げている。別に私と霊夢は飛んでいるわけでも走っているわけでもない。ただ普通に歩いているだけである。それなのにこれだけの差がついてしまうのは一体どういうことなのだろうか。
「はぁ、はぁ……二人とも歩くのが速すぎるんだよ。もう少し年配者に気を遣ってくれよ」
「年配者って、そりゃ霖之助さんは私たちよりずっと年上だけど、それでも妖怪と人間のハーフなんだからもう少しシャキッとできるでしょ」
「無茶を言わないでくれよ~」
弱々しい霖之助の声は聞いているだに腹が立つ。普段こいつと外を歩くことは少ないために気づかなかったが、身体を動かすことにかけてはこの森近霖之助という妖怪人間、からきし駄目なようである。
それでもどうにか道のりの三分の二までは消化できたが、残りの道のりは険しい山道であり、ひいては帰りの労力も考えると私と霊夢のスピードでは最終的に霖之助を置いて行くことになってしまいそうな気がするので、そろそろ何か策を練らなければならない。
「なあ、どうする」
霊夢にアイデアを求めるも、彼女は腕を組んで考え込んだきりうんともすんとも言わない。こうなればすがるべくは霊夢の天才的なひらめきのみなのだ。私なんかがいくら知恵をしぼったところで出てくるものは何もない。いたずらに時間を浪費するのみである。
「うーん、そうは言ってもねえ…………あ、そうだ」
はたと顔を上げた霊夢の頭上に、その時確かに星が光ったように思う。
巫女の天啓である。
「お、何か思いついたか?」
「ちょっと荒っぽいけどね。魔理沙、あんた八卦炉持ってるわよね?」
「八卦炉? ああそれなら」
ふところを探り、八角形のそれを取り出す。
「これをどうするんだ?」
「ちょっと耳貸して」
私が言われたとおりにするより早く、霊夢は私の側頭部に顔を押し付けてきた。ボリュームを落とした声で、その計画の何とやらが吹き込まれる。
「…………って感じでどう?」
「いや、どうも何も危険すぎるだろ」
「じゃあ他に何か考えがあるっての?」
「いや、そう言われると……」
「じゃあ私の言うとおりにしなさい」
気乗りはしなかったが、この場においては提案者の霊夢が強い。嫌々ながら、実行することとする。
この計画の基本コンセプトは、『シンプルイズザベスト』である。手順は大きく分けて二つ。
①霖之助の背中に八卦炉を接続。
「ちょっと失礼するぜ、香霖」
「ん、どうかしたのかい魔理沙、僕の背中に何か」
②点火。
「あれ、何か背中が熱うわああああ————!」
高出力に設定した八卦炉は、火を入れた瞬間に爆発的な推進力を生み出す。眩しい光と悲鳴の尾を引きながら、霖之助は視界前方に消えていった。後は八卦炉が霖之助を目的地まで運んでくれるはずだ。
霊夢が自慢げに語るところによると、この技は名を『地上の流星』といって、攻撃にも転用できるそうだ。というか、もとより攻撃を重視して作られたような気がしないでもない。何せ、適当に火を入れてそこらの岩にでもぶつければ対象は文字通り星になってしまうのだ。いやはや、まったくもって致死相当のひらめきであること甚だしい。
「上手くいったみたいね」
「……そうだな。香霖が死なないといいな」
霖之助の無事を切に願うばかりだが、ともかくはこれで現状打開である。
「私たちも行こうぜ。これでやっと空を飛べる」
「そうね」
ふわりと浮き上がる霊夢を尻目に、私も手持ち無沙汰に遊ばせていた箒へと跨り、一直線に空を目指す。
葉の落ちた枝を突き破る勢いで上空に躍り出ると、遠くに白い煙の跡が見えた。それが霖之助の燃えカスでないことを祈りながら、私と霊夢もその後を追う。
「ああ、やっぱりこっちの方がしっくり来るぜ」
眼下に流れていく山並みと頬に当たる冷たい風は、空を飛んでいるからこそ得られる感覚だ。やはり魔法使いは箒に乗って空を駆ける。そうでなければ始まらないのである。
「魔理沙」
名前を呼ばれて左を向くと、いまにもぶつからんばかりに接近した霊夢と目が合った。
「どわっ、何だよいきなり」
「親父さんのことだけど」
霖之助と同じ話の振り方である。どう切り込んでくるものか、私は身構える。
「正直な話、あんた親父さんのことどう思ってるのよ」
そう来たか。
「どう思ってるって……」
そんなことを言われても困る。急に聞かれて即答できるような質問ではない。
「やっぱり苦手なの?」
「うーん……そりゃあ得意ではないが」
苦手と言うのも少し違う気がする。
親父はまぎれもない私の父親であり、霧雨店の店主であり、母の夫である人物だ。だが実感として好きか嫌いかと問われれば、私としてはどうにも返答に窮してしまう。元より好き嫌いの二元論で語れるほど、私と親父の関係は単純でない気もする。あえて言うなら好きと嫌いの間に強引にねじ込まれたどうにも説明のつかない感情、というのが一番近いのだが、それだって言ってしまえば格別しっくりくるわけではない。他ならぬ私自身が誰かに問いただしたいくらいなのだ。
「複雑なんだよな……確かに親父は私のことを追い出したけど、だからと言ってその瞬間から家族の繋がりまでもが切れたとは思えないんだ。……いや、私がそう思いたくないだけなのかもしれないが」
霖之助と話をする前ならば、私はこの話題に関して迷わず否定的な発言をしていただろう。しかしいまは事情が違っている。私の中でそれまで真っ黒だったものがグレーに傾いたような感じだ。
「ふーん……」
霊夢は興味深そうに私の話を聞いている。これは私の思い込みなのかもしれないが、その瞳には寂しげな光が浮かんでいるように感じる。
「……家族って、どんな感じなのかしらね」
「へ?」
「え……あっ、いや、何でもないわ。ただ、私には家族がいないから……どんな感じなのかなあって、そう思っただけ」
「あ……」
私はどうやら踏んではいけないものを踏んでしまったようだった。
家族がいない。
喧嘩別れしたどころの話ではない。霊夢の過去には、元から家族というものが欠落しているのだ。不幸にも捨てられていたところを拾われ、博麗の巫女としての運命を背負って育ち、そしていまに至る彼女の思い出には、その一切において家族と過ごした時間というものがない。いかにして父親との関係を修復するかなんてことに心を砕いている私だが、思えばそれも贅沢な悩みなのかもしれない。何せ霊夢には、勘当される父親さえいないのだから。
「すまん……無神経なことを言った」
やってしまった、と思った。きっと霊夢は気を悪くしたに違いない。非難の目が向けられることを覚悟しながら、私はおそるおそる彼女の顔色を窺った。
しかしそこにあったのは、まるで何事もなかったかのように振る舞う霊夢の姿だった。予想から大きくそれたその表情に、私は出し抜かれたような気分になる。
「何であんたが謝るのよ。別にいいわよ、つらいのはあんたなんだから」
もし、仮にどんな嘘でも見抜く能力が私に備わっていたとして、それでもいまの霊夢から嘘のにおいを嗅ぎ取ることは絶対にできないのだと思った。なぜなら、彼女の言葉はそのどれもが偽らざる本音であるからだ。確かめなくてもわかった。霊夢とは長い付き合いだ。感情の表れというものが時に理屈を超えて真実を物語るということを私は知っている。
信じられなかった。どうしてそんな顔ができるのだろう。たとえ同じ境遇に置かれたとして、私にはとても真似できそうになかった。
「なあ、霊夢」
「なに?」
意を決して、私はその先を続けた。
「言いたくなければ言わなくていいんだが、その……家族がいないっていうのは、どんな感じなんだ?」
それは、この機を逃せば永遠に訊く機会を失ってしまうことだった。
「そうねえ……」
霊夢は人差し指を顎に当てて考え込む素振りを見せる。風が後方に流れていく数秒の間をおいて、
「あまり不自由を感じたことはないわね。何だかんだで紫が割と助けてくれたし。それに、私は元々家族を知らないから、そのせいで悲しかったり寂しかったりすることもなかったしね」
「そういうものなのか?」
「知らないってのはそういうものよ。悲しいも何も、私にとって家族は元から存在し得なかったものなんだから。わからないことに対して感情を抱くってのはどう頑張っても無理なのよ。……それでも時々、こんな時にお母さんがいたら何て言うのかなあとか、考えることもあるけどね」
「…………」
気の利いた言葉のひとつも、かけてやることはできなかった。ただ胸の奥を乾いた風が吹き抜けていくような寂しさを感じた。
霊夢の表情が何かしらのつらさや痛みを訴えるようなことはない。何でもないような顔をして、時折強まる風に目を細めているのみだ。
私は思った。親しい人間がいなくなってしまうことに耐え切れなくなって涙を流してしまうことがあっても、その人のことを覚えていられるのならまだ救いはある。本当に残酷なのは、死に別れ、あるいは生き別れて取り残されてしまった本人がすべてを忘れてしまうことだったのだ。
誰も彼女の代わりになって泣いてやることなんかできやしない。初めから与えられていないことは、後で失うことよりもずっと悲しい事実だった。
「……悲しいな」
その言葉も上滑りして、何を慰めることもできずに風の半ばへ溶けてしまう。
そんな私の顔を、怪訝な表情で覗き込む巫女がいる。
「なに湿っぽい顔してんのよ、あんたらしくもないわね。ほら、これから親父さんのところに行くんだからもう少しシャキッとしなさい」
私を先導するように、霊夢は速度を上げて飛び去った。一人置いて行かれるわけにもいかず、私は慌てて彼女の後を追う。
一度は小さくなった背中が、近づくにつれて段々と大きくなる。霊夢は一心に人里を目指している。
その背中が泣いているように見えたなら、私はどんなにか救われたのかもしれない。
人里の入り口に黒焦げの塊がくたばっていた。
気味が悪いので、どうにか霊夢に追いついた私はぶすぶすと煙をくゆらせる塊を見なかったことにしてその脇を通り抜けようとするもそうは問屋が卸さない、
足を掴まれた。
「うわあっ!」
慌てて足下を見やると、五本の指と思しき黒炭ががっちりと私の右足首に食い込んでいた。全身から一挙に血の気が引いていく。
「ッァァァァ」
この世のものとは思えない唸り声が響く。
痺れるように冷たい何かが掴まれた右足から這い登ってくる。それが胸を撫で、首を過ぎ、とうとう頭の上にまで達したとき、私の視界は真っ白になった。
動かなくなった頭の片隅でちらりと思う。目下、私の足首を掴む謎の手から注入されたのは、極めて濃度の高い恐怖そのものだ。まんまと私の体内に侵入を果たした猛毒は瞬く間に身体中のありとあらゆる神経を駆け巡り、私の身体を使い物にならなくしてしまった。恐怖に身体を支配されるというのは読んで字のごとく、耐え切れない感情の奔流に理性が焼き切られてしまうことだったのだ。
心の底から絶望した。
私が殺されるまで、もういくばくもないだろう。不幸にもこの人ならざる何者かに足を掴まれてしまった私は、虫ほどの抵抗も見せられずにこの場で取って食われてしまうのだ。そのあっけなさは、運悪く蜘蛛の巣にかかって捕食者の栄養分となってしまう羽虫を私に連想させた。
短い人生だった。まだ何も成し遂げられてはいないが、しかしそれも運命だったのだろう。私はゆっくりと目を閉じ——
——本当にそれでいいのか?
その声は誰のものともつかない。耳に届くというよりは、直接頭の中で聞こえるような響きを伴っている。
——お前が死ねば、残されたものは悲しむだろう。博麗霊夢も森近霖之助も、お前の父親だってその例外ではない。それにお前は父親と和解するんじゃなかったのか? まだその目標も達せられないうちに死を選ぶのはただの逃げだ。命を粗末にしてくれるな、この親不孝者め。
それは、強く生きたいと欲する私自身が発した内なる心の声だったのだと思う。
そうだ。こんなところで死んで何になる。まだ殺されてしまうと決まったわけじゃない。そこに少しでも可能性があるのなら力の限り、
抵抗しよう。
私は死に物狂いで、人型をした炭のどてっ腹に全力のつま先をねじ込んだ。
「この、このっ、離せ! 私はまだ生きなきゃならないんだ! だから——」
その時、信じられないことが起きた。
「痛い、痛いよ魔理沙」
あろうことか、炭クズが私のよく聞き知った声で口を利いたのである。
慌てて蹴り上げようとした左足を抑えようとするも、既に遅かった。
「痛い!」
やはりその声には聞き覚えがあった。
「…………」
「……ねえ魔理沙。もしかして、なんだけど」
「皆まで言うな霊夢」
私の予想が正しかったとすれば、先ほどの霧雨魔理沙がしていたのは、死に体の善人を蹴りつけるという許されざる行為だ。
見方によってはうつぶせになった男性のようにも見えるその身体の、おそらくは背中に当たるであろう部分を、私はおそるおそる窺う。
予想は、果たして正鵠を射ていた。
全身真っ黒に見えた背部に一点、キラリと光る何か。間違いない、それは私が先刻霖之助に取り付けた八卦炉そのものだった。
「香霖、なのか……?」
どうか間違っていてくれと思う。が、それも叶わぬ願いだと知る。
「やっと気づいてくれたか……」
よぼよぼと身を起こした霖之助の顔は、眼鏡までススにまみれて真っ黒だった。レンズが割れていないのはほとんど奇跡と言っていい。
「あちゃー」という霊夢の声が聞こえる。間違ってもそんな軽々しい態度を取っていい状況ではない。
「だ、大丈夫か、香霖」
「いや、特に怪我もなく五体満足なんだが……確か僕は君たちと歩いていたはずなんだ。それなのに気がついたらここにいて、おまけに身体中真っ黒ときた。まったくもってわけがわからないんだが、君たちは何か知っているかい?」
しきりに目配せを送ってくる霊夢に視線で応え、私たちは互いに腹をくくる。
ここは何が何でも白を切り通すしかない。二人の意思はひとつだった。
「特に思い当たる節はないわね」
まず霊夢が動いた。彼女の演技はいかにも自然で、私から見ても何かを隠しているようには見えなかった。秘密を共有する私でさえそうなのだから、霖之助が何かを嗅ぎつけることはまずないと見ていいだろう。ひとまずは安心だ。
「そうか……。魔理沙は?」
霖之助の視線が私に向けられる。
さあ、ここからが正念場だ。
「……イ、いやあ、私も特に何モ見てないトいうかなンというか……」
裏返りに裏返った声で言い終えたとき、私は計画の失敗を確信していた。訝しむような霖之助の表情が何よりそれを物語っている。
「……なあ?」
追い込まれた私は、苦し紛れに霊夢に同意を求めた。
ちらと彼女の方を見ると、霊夢は殺してやるとでも言わんばかりの目でこちらをひとにらみして、すぐに表情を戻した。『何で私に振るのよ』ということなのだろうが仕方あるまい。困ったときは助け合いである。
「……? 二人ともどうかしたのかい?」
「いやいや、何でもないわよ。ただ霖之助さんがそんな格好だと調子が狂うって魔理沙がね」
「あ……ああ、そうそう。そうなんだよ。そんな真っ黒焦げのナリだとお前が香霖だって認識できなくてなあ」
「……やっぱりそうなるよね。これからお見舞いに行く格好ではないよなあ」
霊夢の神がかり的な機転によってまたも私は救われた。おそらく私は一生彼女に頭が上がらないだろう。
「とは言ってもここまで来ちゃったんだし、いまさら帰るわけにもいかないでしょう。ほら霖之助さん後ろ向いて、私が払ってあげるから」
霊夢は霖之助に背中を向けさせると、服を払う動作の合間にさりげなく八卦炉を取り外して私に放った。隠蔽工作も抜かりない。
「さあ、これで少しはマシになったわ。行きましょ、霖之助さん」
「……ああ」
歩き出す霖之助の後ろから、霊夢は私の方に振り向くと片目をつぶってみせた。私は深々と頭を下げることでそれに応える。
本当にありがとうございました、霊夢先生。
左右を田んぼに挟まれた小道は三人が横一列に並ぶだけで通れなくなってしまう。向かいから誰かが歩いてきた場合はこちらが道を空けなければならないし、無理を通そうとすれば相手を脇の田んぼに突き落とす羽目になる。土の乾いた冬場ならまだしも、春になって周囲が水で満たされれば並進歩行は厳禁だ。しかしそれでも私たちが横に並んで歩いていられるのは周囲に人影が見当たらないからであり、なればこそ霖之助の変態じみた黒焦げ一張羅も許されているのだった。
「運がよかったな、香霖よ」
「……何のことかな」
「その服だよ。上から下まで真っ黒焦げだからな、誰かに見られてたら噂の種になること間違いなしだ」
「笑えないね」
その言葉の通り、霖之助は苦々しい表情で前を向いている。日も高く昇り始め、いつどこから誰が現れてもおかしくない時間帯だ。彼の心中が穏やかでないことは容易に察せられる。
「しかしどうするんだ、香霖。そのままの格好で親父の前には立てないと思うんだが」
霖之助は返事の代わりに黒煙を吐いた。隣にいた霊夢がそれを見て吹き出す。
「……そうだね。さすがにこの見てくれじゃあ、魔理沙が怪我をするよりも周囲に与える影響は大きいかもしれない」
かもしれないどころか、そんなことは自明だ。
汚いし。
「やっぱりお前だけ引き返したほうがいいんじゃないのか? 別に私と霊夢だけでも……」
大丈夫、の一言が、なかなか出てこなかった。
「そういうわけにはいかないよ。僕は一応、君たちの保護者なんだから」
「ほとほと頼りないけどな」
しかしその頼りない保護者に私が頼り切っているのも事実だ。
「大体、元はと言えばだな……」
私がそこまで口にしたところで、霊夢が血相を変えて私に襲い掛かってきた。
「ちょっと、何さらっと喋ろうとしてるのよ……! さっきのことは言わない約束でしょ……!」
私の足を踏み潰しつつ、切迫した小声でそう訴えてくる。
「おいやめろ、痛い痛い、痛いから!」
やっとのことで引き抜いた足をまたも踏み潰され、しばし小競り合いのような状態になる。
「何をやっとるんだ君たちは」
傍から見れば突然向かい合うなり踊りだした二人組である。衆目を集めること夥しい。霖之助はそんな私たちを呆れ顔で見ているが、こいつだってそんな見るからに怪しい黒ずくめで固めていれば私たちと一緒くたに噂されてしまうことは目に見えている。
小競り合いはしばらく続いていたが、どうにか霊夢に服従の意思を伝えることで事態は収束した。
「やっぱり僕がついてなきゃ駄目みたいだな」
何もしてない割には偉そうな霖之助である。
「ほら、店はもうすぐそこだから行こう」
「……ああ」
道の先に目を凝らすと、ここから五十メートルほど進んだところで道は二手に分かれている。このまま真っ直ぐ前に進むか。あるいは左に折れて店の屋根を目指すか。問うまでもなく答えは一つだ。
「道は覚えているね?」
覚えている。後は覚悟を決めるだけだ。あの角を曲がってしまいさえすれば、もう視界に店を遮るものは何一つとしてない。それはつまり、もうどこにも逃げ隠れできないということだ。
「よし、それなら君は先に行くといい。僕たちは後からついて行く」
頷く。
震える心及びその他諸々をまとめて奮い立たせ、私は一歩を踏み出す。冷たい手に汗が滲み、心臓は絶えず脈打ち、頭の奥がかあっと熱くなる。平静になろうと努めても、押し寄せる不安を拭い去ることができない。
私は、今、大きな変化の瀬戸際に立っているのだと思う。結果がどう転ぶにせよ、この私の行動によって、今まで触れずにいた何かは確実に動く。ちょうど坂の上から大きな岩を蹴落とすように、転がり始めればもう誰にもそれを止めることはかなわない。
ゆっくりと、しかし着実に曲がり角は近づいてくる。あの日、否応なく何かが終わり、不条理な何かが始まってしまった場所へと私の時間は巻き戻る。
それとともに思い出されるのは、どうしてか幸せな記憶ばかりだ。
この道もいまよりずっと広く感じられて、空はずっと高い場所にあって、魔法がすべてを叶えてくれるのだと信じてやまなかった、あの頃。
その時だった。
「魔理沙ぁーっ!」
耳に届いたのは霊夢の叫び声に違いなかった。反射的に私は振り返る。
「走れぇーっ!」
それは全身全霊の叫びだった。悲鳴にも似たその声が、私を縛っていた重い鎖を完膚なきまでに打ち壊し、私の中の女の度胸に火をつけた。
勢いのままに身を翻し、私は地面を蹴った。髪が乱れるのも長いスカートがはためくのも構わない。全神経を脚に集中させ、心の奥に燃えさかる炎の従順なしもべとなって私は走った。箒はとうに投げ捨てている。
スピードを落とさないままほぼ直角に角を曲がり、私の目は懐かしい木造の屋根を捉えた。道の両脇に四軒ずつ並んだ建物の、左側最奥。間近に見えた我が家を目指し、残された力を振り絞る。
店の入口まであと十数歩の距離に迫ったところで、奥から人影が姿を現した。買い物を終えた客だろうか、上下する視界に映る白いエプロンとバンダナ、金色の髪……、
「あっ」
向かい風が吹くと同時に、私の足がもつれた。
ふわりとした浮遊感覚。私の身体はなすすべなく宙に投げ出され、一瞬ののちに墜落し、冬の乾燥した地面を擦って停止した。両手と膝にじくりと痛みが走り、確かめるまでもなく出血を確信する。目元に浮かんだ涙を奥歯とともにきつく噛み締め、しかしそれでも前方から目をそらすことだけはしなかった。
手に竹箒を持った彼女は、驚きと困惑の入り混じった目で私を見ている。店先の掃除でもしようと思ったのだろう、親父が大変だっていうのに、店を閉めたところで誰も文句は言わないだろうに、まったく、呆れるほどに律儀な人だ。
汚れた服を泥だらけの手で払いながら、私は立ち上がる。私より少しだけ高い位置にある顔を見上げ、その目が見開かれていく様を見守る。
頭に巻いた白いバンダナの、その下から伸びる長い金色の髪と頭の片側だけを三つ編みにした特徴的な髪型。その先に結ばれた小さなリボン。間違えるはずもなかった。
「魔理、沙……?」
彼女の手から箒が離れ、倒れて乾いた音を立てる。
先に目をそらしたのは私だった。胸の内に込み上げた様々な感情が、真っ直ぐ前を見ることを私に許さなかった。
——さあ、言え。
もう一人の自分に急かされ、私は用意していた言葉を口にする。
「その……いままで心配かけて、ごめんなさい。……親父が倒れたって聞いたから、見舞いに、」
そこで言葉が途切れた。
私が言い終えるよりも早く駆け寄ってきた彼女の胸に抱きしめられ、私はすべての言葉を失っていた。
彼女は一言も発しようとはしない。「お帰りなさい」でもなく、「心配したのよ」でもなく、ただただ無言で私をきつく抱きしめていた。しかし、むしろその無言こそが、私にあらゆるものを思い出させた。
私に向けられた無償の優しさ、忘れかけていた母の匂い、側にいるだけで感じられた幸せ。
安心。
母は私の耳元で何事かを囁いた。注意していなければ聞き漏らしてしまうほどに小さな声だったが、私の耳にははっきりと届いた。
「……つらかったわね」
足先から力が抜けてゆくのを感じた。私を取り巻いていた黒いものが綺麗に洗い流されていくようだった。
不意に両膝の傷が痛んだ。じくじくと増してゆく痛みは、やがて耐えられないほどに私の神経をいたぶった。
だからきっと、私の両目から涙があふれて止まらないのも、この傷のせいなんだと思った。
私と母がともに落ち着いてから、まるで見計らったのように霊夢と霖之助がやって来た。
「まったく、二人とも遅刻だぜ」
本当は二人の気遣いに感謝していた私だったが、素直にありがとうなんて言えるはずもなかった。
「あんたも素直じゃないわね。気ィ遣ってあげたんだから少しは感謝しなさいよ。どうせわんわん泣いてたんでしょう」
「そ、そんなこと……」
「その割には目が赤いけど?」
「っ! こ、これはっ」
「嘘よ」
「な……この……!」
私と霊夢が子どもじみたふざけあいに終始する横で、母と霖之助は何やら大人な話を展開している。
「霖之助さんにはいつもお世話になってばかりで……何てお礼を言ったらいいか……」
「いやいや、僕は何も。全て魔理沙の決めたことですから」
「そうなんですか……でも、霖之助さんが魔理沙を見守っていてくれたこと、本当に感謝していますよ。……いままでありがとう」
霖之助の手を取り、母は柔らかく微笑む。でれでれと鼻の下を伸ばす霖之助の首をへし折ってやろうかと思う。
「あんたのお母さんってほんと綺麗な人よね」
私をからかうことに飽きたのか、霊夢は母を遠めに眺めながら言う。
「美人で、優しくて、おまけに髪の毛もサラサラだし……あんたと違って」
「最後の一言は余計だ」
コンプレックスの癖毛を指摘されると、私は黙っていられない。
「でも、あんたの横に並んだってとても親子には見えないわよ。いいとこ姉妹って感じだわ」
「そうかねえ……」
だがまあ、よく気丈に振る舞っているとは思う。
親父が寝込んだことに加えてもう一つ気がかりだったのは、隣に付き添う母までもが心労で倒れてしまうのではないかということだった。昔から親父にべったりだった母のこと、その可能性はけして無視できないものだった。
……のだが、実際に顔を合わせた限りにおいては、母に何か身体的な異常があるようには見えなかった。血色もよく、身なりもきちんとしている。詳しいことは後で本職の永琳に訊くとしても、しかしそれで私の中の不安要素が完全に消えるわけではなかった。
これはもしもの話だが、仮に母の疲労がピークにまで達しているとして、彼女がそれを私たちに悟らせまいとしているとしたら……?
ある時を境に限界が訪れて、母が倒れてしまうかもしれない。本格的に店が休業するかもしれない。その予測を無視して先に進むことはできない。
では、実際にそうなったとして、私はどうすればいいのだ? 一時的に店の手伝いをするだけでいいのか、あるいは今までに学んだ魔法を全て捨てて家業を継ぐべきなのか。
できることなら、私はどうしても後者を選びたくなかった。何年も続けてきた魔法の研究を辞めることを考えた時、私は胸を抉られるような気持ちになる。私にとって魔法とはもはや身体の一部であり、積み重ねた思い出の足跡であり、生きるための指標なのだ。それを否定するということはすなわち自身の全否定に他ならず、そこまでの痛みを伴う決断をそう簡単に下せるはずもなかった。
そもそもが、親父のことにだけ目を向けていれば解決する問題ではなかったのだ。払わなければならないツケの大きさの前に、私は自分の小ささを再度思い知った。
そんな私の耳に、母の呼ぶ声が届く。
「霊夢ちゃん、魔理沙」
見ると、母が店の入口を手で示していた。続きは家の中で、ということだろう。
先に一歩を踏み出したのは霊夢だった。
「さ、行きましょ魔理沙。ここまで来て怖気づいたなんて言ったら許さないからね」
「それはない」
しかし、一つだけ気になることがあった。
結局最後まで霖之助のナリを指摘しなかった母は、何か考えがあった上でそうしていたのだろうか。
あるいは、彼女一流の天然ボケが発揮されただけなのかもしれないが。
折しも親父が眠りについたばかりだということで、間の悪い私たちは別室で待つこととなった。
すっかり客としての立場に甘んじている私は、自分の家でありながら母の案内に従って板張りの廊下を歩き、開かれた木の引き戸をくぐった。記憶のそれとほとんど変わっていない畳敷きの居間に、思わず安堵のため息が漏れる。
「全然、変わってないんだな」
強いて違いを挙げるとするならば、部屋に置かれたちゃぶ台や戸棚などが軒並み小さくなっているということぐらいだ。いや、その表現は必ずしも正確ではない。家具が小さくなったのではなく、単に私の身体が大きくなっただけなのだ。
「さあ、座って」
母が綿の詰まった座布団を三枚、ちゃぶ台の周りに並べる。私と霊夢が並んで座り、母はそそくさと居間を後にする。おそらく茶でも淹れに行くつもりなのだろう。つややかな髪の流れる背中を見送る。
この場に居合わせていない霖之助のことであるが、彼は現在、母の勧めに従って入浴中である。店に入った時点でようやく彼の汚れ具合に気づいた母は(素で気づいていなかったらしい)、しきりに霖之助へ入浴を勧めた。初めのうちは断っていた霖之助も「汚れていては気持ち悪いだろうから」という母の慈悲に負けて、しぶしぶながら首を縦に振ったのだった。
「何やってんだろうな、あいつは」
遠くを見ながら私は呟く。肩まで湯船に浸かった状態で霖之助も同じことを考えているに違いない。いっそそのままのぼせてしまえ、と思う。
しばしの静寂が訪れる。その空白を取り繕うかのように霊夢は「あー寒い寒い」と言いながら部屋の隅へにじり寄ると、そこに置いてあったストーブに火を入れた。昔はなかったものだが、霖之助から貰ったのだろうか。
部屋が暖まるまでの間に母は急須と湯呑みを持って現れ、熱い茶を注いで私たちの前に置くと、丸いお盆を胸に抱きながらどこかへ消えていった。
二人だけの居間に、時折茶をすする音だけが響く。その何回目かの合間に、霊夢はぽつりとこぼした。
「あんた、これからどうするつもりなのよ」
その問いかけは、奇しくも私が考えていたことと一致するものだった。
「それは……私が魔法使いを続けるのか、親父の後を継ぐのかってことだろ」
「それがあんたの選択肢ならね」
遠回しな口ぶりで霊夢は答える。
霊夢の問いに対する明確な答えを、私は持ち合わせていなかった。間を持たせるための緑茶を含み、飲み下す。そのわずかな間に拙い言葉を組み上げ、もうほとんど空になった湯呑みを置いて、私は小さく息を吸う。
「……まだ、何も決めてない」
さらに言うなら、まだ何も決められていない。選べていない。
「……そう」
霊夢は両手で包み込んだ湯呑みに目を落とし、そこに映る自分の顔を見つめている。
「そうよね。そんな簡単に決められることじゃないわよね」
軽くなった湯呑みを遊ばせながら、私は頷く。
「両方を選ぶことは無理だと思うんだ。道具屋の仕事はそんなに楽じゃない。魔法の研究と二足のわらじでやっていくことはできないと思う。仮に実行したとしても、結局どちらかがおろそかになる」
霧雨魔理沙はこの世界にただ一人だ。おのずとできることは限られてくるし、二兎を追えるほど私は器用じゃない。
「わかってはいるんだ。どちらかを選んで、どちらかを捨てなきゃならないってことぐらいは」
それは受け入れがたい現実だったが、弱音を吐いても始まらなかった。
時に大切なものを捨ててでも、人は前に進まなければならないのだ。妖怪でも神様でもない私たちは、何も思い通りになんてできないのだから。
「だから——」
「魔理沙」
背後から聞こえた声に振り向くと、そこにいたのは母だった。
「……母さん」
いつからそこにいたのだろう。もしかしたら、さっきまでの話も聞かれていたのかもしれない。
母は次いで霊夢を見ると、
「ごめんね。少しだけ二人にしてもらえるかしら」
と言った。
「うん、わかった」
そう言われることを予想していたのか、霊夢はさして驚く素振りも見せずに居間を出て行った。後には母と私だけが残される。
母は私の隣に腰掛け、湯呑みに茶を注いだきりで、しばらくは何を言うでもなく黙り込んでいた。私が切り出すのを待っているのだろうことは何となく察せられたが、ろくに目も合わせられない私は湯呑みから立ち上る湯気をただ見つめることしかできなかった。何かを口にしかけてはいい淀む、そんなことを繰り返すうちに無意味な深呼吸の数だけが増えていく。
たっぷり十五分近くもの時間をかけて決心を固め、私はおそるおそる言葉を発した。
「…………その、私」
「ちょっと待っててね」
しかしそんな私の声にかぶせるように母は断りを入れると、やおら立ち上がり居間を出て行ってしまった。
私の頭上に巨大な疑問符が浮かぶ。ひとつだったそれは時間の経過につれて分裂し、やがて部屋の天井を満たすほどに増殖した。
茶を一口あおる。とてもぬるい。到底落ち着かない。
しかし不用意にここを立つのもまずい気がするので、いましばらくは様子を見ることとする。
それからさらに十五分ほどが経過し、背後に足音を感じ取った私が振り返ると、そこには湯気の立つ盆を持った母の姿があった。
「……えっ」
ちゃぶ台に盆が置かれる。その中央に悠然と佇むどんぶりには、なみなみと注がれた茶色い液体と太めの麺。刻んだネギと味付け玉子。
「……えっ」
何これ、と言う間もあればこそ、母は再び私の隣に座り、顔中を笑みの形にして、
「……さあ、食べなさい」
と言った。
醤油の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。それが現実のものに相違ないということを認識するにつれて、私の奥深くに沈みこんでいた記憶が浮かび上がってくる。
そうだ。
そうだそうだよそうだった。昔からこの人はこうだったじゃないか。顔かたちは美しく心根も優しいが、それゆえに一筋縄ではいかない私のお母さんだったじゃないか。何でそんな大事なことをいまのいままで忘れていたんだ。
——忘れたかったからだろう。
そんな言葉が返ってきた。
ぐうの音も出なかった。
「……えっと、これは?」
いぶかりつつ私が問うと、母は私が未知の食べ物を前にして戸惑っているのだと思ったらしく、
「これはね、外の世界の食べ物で『ラーメン』って言うのよ。前に霖之助さんがレシピを教えてくれたの。おいしいから、食べてみなさい」
そう言って私に箸を差し出してくる。取りあえず受け取りはしたが、いまは何かを腹に詰め込むという気分ではないので、なかなか肝心の『らあめん』とやらに手が伸びない。
「いや、そうじゃなく……何でここでらあめん?」
「え?」
きょとんとした様子で私を見る母。それはこっちの顔面である。
「いやその、だから……何で急にこんなの作るのかなあと思って」
確かに昼食はまだだし時間的にもその頃合いなのだが、何かが微妙に違う気がする。
「お腹を空かせてると思ったのよ。ほら、お腹が空くと急に黙り込んじゃう人っているでしょう?」
母は宣う。
「さっきから魔理沙が一言も喋らないから、何か食べたいのかなと思って作ったんだけれど……いらなかったかしら? それともラーメンは嫌い?」
ようやく、母の考えの半分ほどが理解できたような気になった。
彼女の勘違いは何と言うか、壮絶な方向に場違いな飛躍を果たしていて、実の娘である私にもこの状況をどうしたものか判断できない。しかし目の前に置かれたどんぶりにはすでに立派な料理ができあがっており、いまさらこれを下げてくれなんてことは言えない。言えるはずがない。
立ちのぼる醤油味の熱気を顔中に浴びながら、考える。
ともかくは、母の先走りすぎた勘違いが集約されたこの麺料理を片付けてしまうことだ。目下、私がすべきことはそれに尽きる。
「いや……別に嫌いじゃない、と思う。うん、食べる」
左手の箸を右に持ち替え、
「い、いただきます」
麺を手繰って一息にすすり込む。
……うわ、何だこれ。めちゃくちゃうまい。
気がつくとどんぶりを両手に捧げ持ってスープを飲み干している自分がいた。あまり食欲はなかったはずなのだが、一口食べた途端にまるきり事情が変わってしまい、それからのことはよく覚えていない。ひたすらに箸を往復させ、がむしゃらに麺をすすっていたことをうすらぼんやりと覚えているのみで、私がどれくらいの時間そうしていたのかもいまひとつ判然としなかった。
「ごちそうさまでした」
空になったどんぶりを置き、手を合わせる。結論としては大満足だった。
「はい、お粗末さまでした。……どうだったかしら?」
「うん。おいしかった」
探るように尋ねる母に満面の笑みで答える。
「そう。よかった」
さっきから何も食べていないはずの母はそれでも満たされたような表情で口元を綻ばせた。その顔を見るに、突飛な彼女の発想はそれでも間違いではなかったのではないかという気がしてきた。
ゆっくりとした時間が流れる。目の前に立ちはだかる問題はひとまず置き去りにして、心を落ち着けられるような安らぎがここにはある。
「……お母さんはね」
食べ終わった食器を手早く片付けながら、母は言う。
「魔理沙が悲しそうにしていたり、つらそうにしている姿は見たくないの。あなたがお父さんと喧嘩をした時のこと……家を出て行った時のことを思い出してしまうから」
「…………」
私は、母の目にそう映っていたのか。
「……だからね、魔理沙にはできる限り笑っていてほしいの。笑ってる魔理沙の顔が、お母さん一番好きよ。大丈夫、お店のことは私とお父さんに任せて、あなたは自分のやりたいことをやりなさい」
ちゃぶ台に散ったスープを台拭きで上品に拭い、母は私を見て笑った。どこか強張った笑みだった。
だから、本当はうかつに笑ったなんて言葉を使ってはいけないのかもしれない。その表情の裏に隠された隠し切れない本心はけして笑ってなんていないのだから。
これは私の思い上がりなのかもしれないが、母はきっと私に出て行ってほしくないのだろう。母親とはそういうものなのだということは、私にも何となくわかる。
それなのに、母は無理をしてまで私に好きなことをしろと言う。そこにどれほどのつらさがあるのか、あるいは悲しみがあるのか、私には想像もつかない。しかしその想像もつかないことで、私は胸がいっぱいになる。
「でも、それじゃあ、それじゃあいつか、」
その先を続けようとして、言葉に詰まる。
いつか、何だというのか。
「……いつか、この店は潰れちゃうじゃないか」
考えたくはないが、親父と母がこの世の人ではなくなる日も、必ずやって来る。その時に霧雨の屋号を守る者がいなくては、文字通りこの店は潰れてしまう。そうならないためには、霧雨家の血が流れた人間に店の後を継がせるしかないのだ。
私は、私の責任を振り切ってまで自分のやりたいことに没頭していいのか。絶えず頭をもたげるその不安に向き合うことこそが、真に現実から目をそらさないということではないのか。
しかし母の答えは変わらなかった。
「子どもはそんなこと心配しなくていいのよ。あなたの人生はあなただけのものなんだから、与えられた責任を果たそうとか、誰かのためになろうとか、そういうことは考えなくていいの」
「でも……!」
「魔理沙。あなたはこの家にいてはいけない」
「!」
瞬間、顔に冷や水を浴びたかと思う。
「どういうことだよ、それ……」
母の顔がさっと曇る。
「……お母さんね、まだ魔理沙が小さかった頃、あなたがお店の道具で遊んでばかりいるのを見て、いつも心配だったの。私とお父さんはお店のことで忙しくて全然相手してあげられなかったし、お友達も、その頃はあまりいなかったものね」
「…………」
「でも、それからしばらくしてあなたが家を出て行った時には、確かにとても悲しかったけれど、それ以上にあなたが外の世界に触れることを嬉しいとも思っていたの」
ここにいるだけじゃわからないことが、この世界にはたくさんあるものね——と、母は言う。
「それはあなた自身が一番わかっていることだと思うわ。あなたはこの家にいた時よりずっと強くなった。大切なものを見つけられた。違うかしら?」
私の脳裏に、同じ時間を共有した仲間たちの顔が浮かぶ。
決してすべてが上手くいったわけではなかった。数え切れないほどの喧嘩をした。時には泥臭くぶつかり合って、その末に友情を確かめたこともあった。傷だらけの拳を打ち合わせて絆を深め、涙を流してその名を呼んだ。つらい思いもたくさんした。
しかしそれでも、自分を不幸なやつだと嘆いたことはなかった。誰かを悪者に仕立て上げて恨んだりしたことはなかった。彼女たちと過ごす時間はそのどれもが尊いもので、心の底から楽しいと思えたから。私は一人じゃないんだと、皆が教えてくれたから。
「違わない。全然……違わない」
母は目を細めて笑う。
「それがきっと、人として生きるってことなんだとお母さんは思うわ」
「人として……」
「そう。だからあなたはここに帰ってくることを考えなくていいの。もっともっとたくさんのことを見聞きして、自分の世界を広げなさい。その経験はいつか必ず、あなたを助ける力になってくれるから」
……本当に、この人は。
多少感覚がズレているところもあるが、母親としては出来過ぎだ。
「わかった。でも、いまはまだ答えを預からせてもらうよ。そろそろ親父が起きた頃だと思うから。そうだろ霊夢」
私は立ち上がると、居間の入り口でこっそりと私たちを窺っていた赤いリボンに声をかける。
「……うん。いまさっき」
そう答えた霊夢の声はどこか沈みがちで、目に宿る光もどこか弱々しい。
「何だ、まさか私のことを心配してくれてるのか?」
「な、ばっ、別にそんなんじゃないけど……! ただ……ううん、やっぱり私も一緒に」
「それはダメだぜ」
やっぱり心配なんじゃないか、と心の中で呟きつつ、私は霊夢を諭しにかかる。
「これは私たち親子の問題だからな、親父と話すのは私だけじゃなきゃいけないし、他の誰かに助けを求めちゃダメなんだ」
と、思う。
たとえ霊夢や霖之助が同伴してくれると言おうが、それがどれほどありがたいことであろうが、最後のケリは私がつけなければならないのだ。
「大丈夫だよ。私も喧嘩は好きじゃないんだ。極力丸く収めるようにはするからさ」
私は、かつて霖之助が私に対してそうしたように、霊夢をなだめる。
「……言ったからね」
ああ、言ったとも。
私は霊夢の脇をすり抜け、親父の待つ部屋に向かう。
自分の言葉が嘘になってしまう可能性を、胸の奥に抱えながら。
なぜ自分だけがこんな役回りを押しつけられるのかということに対して、私はいまでも折り合いをつけられていない。それはまったくの偶然で決定されてしまった自身の運命に対する反感であり、もしかしたらいま目の前で起きていることはすべて夢のなせる業なのではないかという希望である。後者は半分以上が幻想だが、前者に関してはどうにも諦めがつきそうにない。しかしそれでも私は前に進むことを決めてしまった身だ。心の中でこそもう一人の自分がぶちぶち文句を垂れているが、ひとまずは目の前に隔てられた襖の距離とその奥に待つ人物が示す現実に順応することだ。
廊下の冷たさは薄い靴下をたやすく食い破って足先を凍らせる。かつて私がつけた柱の傷はやけにはっきりと残っているし、この家にはいつだって畳の匂いが絶えない。しんと冷えた冬の空気をその匂いごと吸い込んで、私は拳を握る。
「親父。私だ。魔理沙だ。見舞いに来た」
声が震えたのは何も寒さばかりのせいではない。これで正解だったのか、自分の言ったことにまるで責任が持てないし、誰も答えを教えてはくれない。
十秒待っても返事はない。ここは辛抱だと思いつつ、私は緊張に引き伸ばされた時間が過ぎていくのを石ころよろしく待ち続ける。
三十秒は経ったと思うが自信はない。何せ手はじっとりと汗ばんでいるし、目なんて血走っているのではないかとさえ思う。正常でない精神で正常な時間が計れるとはとても思えない。
一分は過ぎたろうが音沙汰はない。いっそここで襖を開け放ってしまうのが正しい選択なのではないかと思うようになってきた。ここで親父の返事をうずうずと待ち受けるよりはそちらの方がずっと事態は前に進むだろうし、そもそもそのくらいの度胸で臨まなければここに来た意味なんて——
迷っている間に、襖の方から勝手に開いた。
あまりに唐突なできごとが目の前で展開され、危うく魂が消し飛んでしまうかと思う。驚きに見開いた私の目に映っているのは気持ち細めに開いた襖で、その間から覗く顔には見覚えがあった。
まず女性で、銀髪である。この時点で少なくとも親父でないことが判明する。
赤い十字架が描かれた青い帽子を被っている。
医者で生計を立てているくせにそのコケティッシュな美貌は少々けしからんなという感想を前に抱いたことがある。
「何だ、あんたか」
「何だとは失礼しちゃうわね。あなたがいつまでも入ってこないから気を利かせたっていうのに。何だか損した気分だわ」
不機嫌そうに浅く腕を組む永琳。本人にとっては何気ない仕草なのだろうが、受け取る側の私としてはやはり扇情的に映る。というかこの女医、もはや何をしても反則である。
「……何で睨むのよ」
「念のために聞くが、お前、医者の免許とか持ってるか?」
「……月の都で取ったものがあるけど、どうして?」
「いや、何でもない」
持ってるなら持ってるで、腑に落ちない部分があるのは事実である。ならこれ以上の追及は無意味だ、やめにしよう。
訝しげな永琳の視線を軽く無視して、私は話を続ける。
「ともかく。今日はお前と話をするために来たんじゃないんだ。私は——」
「あーはいはい、大体察しはつくわ。お父さんのお見舞いでしょう? おかげさまで病状は安定してるから、いまなら面会オールオーケーよ」
それはそれで非常に好都合ではあるのだが、なぜだろう、私はどうにもこの月人と馬が合わない。というより、私が一方的に苦手意識を持っているだけなのだが。
「そうか。じゃあ、」
「あ、ちょっと待って。ひとつだけ訊きたいことがあるんだけれど」
部屋に踏み入ろうとしたところで永琳の手に阻まれる。
「何だよ」
「あまり人様の家庭の事情に踏み入るのは趣味じゃないんだけれど、あなた、今お父さんと喧嘩してるらしいじゃない」
鼻先に近づけられた小声が言う。
「……お前には関係ないだろ」
「それが大アリなのよ」
女医は続ける。
「今のところお父さんの病状は安定しているけれど、それでもまだ体力は戻っていないわ。万が一にもここで喧嘩なんてされたら病体に響きまくりよ。だからあなたが舌戦上等でここに来たって言うなら、お父さんには会わせられないわね」
それは、彼女の医者という立場を考えれば至極当然の反応だった。確かに私が親父と喧嘩をすればそれは精神衛生的にかなりよろしくない結果をもたらすだろう。薬になるばかりが見舞い客ではない。時にそれが毒にもなることをこの経験豊富な名医は知っているのだ。
しかし、私には元より喧嘩をするつもりなどこれっぽちもなかった。
「そのことなら心配しなくていいぜ」
私の目的はむしろその逆だ。
「もう親父とぶつかり合おうなんて気持ちはないからな。今日は和解をするためにここに来たんだ」
和解。
軽々しく口にして見せたが、それが言うほど簡単ではないことを私は知っている。しかしそれをわかった上で言ってのけるのが私の意地であり、覚悟だ。
永琳にその覚悟が伝わったのか、彼女もそれ以上口うるさく言ってくることはなかった。
「そう、ならいいんだけれど。……いい? 何かあったらすぐに私を呼ぶのよ」
最低限それだけを言い置くと、永琳は廊下を歩いて母のいる居間へと消えていった。何も言わずとも親子二人きりにしてくれるあたり、彼女もなかなか気の利いたことをすると思う。
「……さて」
いよいよだ。私は開いた襖をくぐって畳の部屋に踏み入る。
鼻をつく薬の匂いが私の緊張をいや増す。布団に寝かされたその顔を極力見ないように、見てしまえば頭が真っ白になってしまうことを思いつつ、私は親父の側に正座する。
おそるおそる、心を決めて親父の顔に視線を向ける。
「……!」
思った。ここに寝かされているのは私の父親ではない。さもなくば私の目がおかしくなっているのだ。
そうでなければ説明がつかなかった。
確かに、顔に彫りこまれた厳しい表情は親父によく似ている。似ているが、しかしまったくの別物だ。こんなにもやつれて、まるで薄皮一枚を纏った骸骨のようになってしまった人間を、私は自分の父親と認めることができなかった。
驚きに次いで押し寄せてきたのはやり場のない怒りだった。
ふざけるな。そんな細い腕で道具が作れるのか。金づちが振れるのか。親父はこの家の大黒柱なんだぞ。あんたがそんなんじゃ、母さんを泣かせることになっちゃうじゃないか。そうなってもいいのか。起きろよ、早く起きろ。早く元気になって働け。
次々と現れては消える感情のひとかけらさえ言葉にはならず、握り締めた拳は膝の上で震えていた。
「……親父」
ようやく搾り出した声はひどくかすれていた。
何だよ、これ。
これが現実だっていうのか。
せっかく親父と仲直りができると思っていたのに、そんな間の抜けたことは言っていられないぞとどこかで誰かが笑っているのか。
永琳は嘘つきだ。何だよ安定した病状って。そんなことを言われれば誰だって期待する。親父の容態はせいぜいが風邪の延長線上にあるものだろうと、そんな甘い考えを巡らせてしまう。こんなにも衰弱してしまった親父を指して生きているとは言わない。かつて持っていた親父らしさをあらかた剥奪されたこの抜け殻は、生きているのではなく死んでいないだけだ。
「……親父!」
私は叫んだ。かすれる声で叫んだ。そうすることで親父を取り巻いているどうしようもない現実が少しでも吹き散らされるものだと、私は本気で思っていた。
親父の瞼がかすかに動く。それはあまりにもゆっくりとした速度で開き、やがて濁った瞳が私を捉えた。
「親父、わかるか。私だ。魔理沙だ」
先ほど襖の前で口にした言葉を、もう一度ここで繰り返す。ぼんやりと私を見つめるその目は、ともすれば光を感じることさえできていないのかもしれなかった。
「……ぁ」
乾いた唇が、ろくに届きもしない声で何かを言う。それでも言葉を紡ぐべく、親父の口は小刻みに震えている。
「…………誰だ、お前は」
ろくに届きもしない声は、ここでようやく意味のある言葉を成した。
誰だ、お前は。
そう言われるであろうことはなんとなく予想できていた。もちろん親父が記憶までもを失ってしまったとは思わない。その言葉は親父が私を忘れてしまったがゆえに発せられたものではなく、ただ私を拒絶するための常套句に過ぎないのだから。
お前のような親不孝者を娘に持った覚えはない。
きっとそう言いたいのだ、親父は。
「ふざけるなよ……わけのわかんないこと言うなよ……なあ親父!」
「俺は、お前など知らない……魔法の研究なんてものにうつつを抜かすようなやつは、俺の娘ではない……」
親父とは、誰の親父のことだ。
そんなふざけたことを、親父は平然と口にする。
「馬鹿言ってんなよ! 私は親父の娘としてここに来たんだ。どうせろくに起き上がれもしないんだろ。だったらいつまでもつまんない意地張ってないで、黙って私に看病されろよ!」
勢いあまって飛び出した本音が、薬くさい部屋に響く。枕元に置かれた洗面器の水がかすかに波打っている。馬鹿みたいに透き通ったその水面にはいかなるものも映らない。
親父の目の色がかすかに変わった気がしたが、しかしそれさえも私の希望的観測に過ぎなかった。
「……帰れ。ここはお前が来ていい場所ではない」
にべもない返事とはまさにこのことだった。
このままでは和解なんて夢のまた夢だ。それどころか今の私には親父を看病することさえままならない。そんなやつに一体何ができるというのか。
まさかここまで手酷く拒絶されるとは思ってもみなかった。多少言い争いにはなっても、それでも最後には何とかなるだろうという、漠然とした自信が自分の中にあった。根拠のない自信がどれだけ危険かなんてことは少し考えればわかるはずだというのに——だというのに、結局はこのザマだ。全然なっちゃいないじゃないか。霧雨魔理沙はどこまで行っても大ばかやろうの物笑いだ。
それでも、正真正銘の大ばかやろうになりたくないのなら、帰れと言われてここですんなりと踵を返すわけにはいかなかった。
「帰れ……? どういう意味だよ、それ。わたしの帰る家はいつだってここだ。これ以上どこに帰れって言うんだよ!」
私が言い終わると同時に、親父は震える身体を無理矢理起こし、手元の洗面器を掴んだ。
「ならば、言い方を変える。……ここから出て行け。二度と俺の前に姿を見せるな」
そう言って、親父は洗面器に注がれた水を私の顔にぶちまけた。
冷たい水が冷たい水であることに、何の容赦もなかった。
その真っ白な冷たさに思考をかき消され、一瞬にして前が見えなくなり、水を浴びた部位が次の瞬間には凍りついてしまったかと思う。何で私は水なんて浴びているんだ、もう冬だって言うのに。大体、親父の身体のどこに洗面器を持ち上げられるような力が残っていたんだ——必要以上に冷やされた頭にそんな暢気な思考が帰って来る。
ずっと昔に、雨に降られて家に帰ってきた時のことを思い出した。
あらあらびしょ濡れじゃない、ほら服を脱いで、お風呂沸いてるから——確か母はそんなことを言っていたように思う。濡れ鼠になった私に母は格別優しくて、これならもう一回くらい雨に降られてもいいかなと、そんなことを考えたものだった。嫌いだった雨が、少しだけ優しいものに思えた。
額に張りついた髪から雫が一滴、したたり落ちる。その向こうで私を見つめているのは、表情一つ変えることのない親父だ。その視線は私が今までに浴びたどんな水よりも、ともすれば氷よりもずっと冷たいものだった。
畳に水たまりが広がっている。私の髪から落ちた水が小さな波紋を作っては、元の水面に戻っていく。そうやって丸く収まる結末を私は望み続けていたというのに、私はただの水にさえ先を越されてしまったのだ。
もう何をしても駄目なんだと思った。
その場限りの激情に身を任せて、自分が何でもできる人間になったような錯覚にとらわれて、そんな虚構の自信に乗せられたまま転がり込んだこの場所で私を待ち受けていたのは、今まですっぽかし続けていたツケに倍額の利子を乗せた督促状だった。
調子づいた小娘に最上の絶望を与えるために、それは私が家を飛び出した瞬間から用意されていたのだ。
「…………わかった」
ようやくそれだけを言って、私は立ち上がった。身体中が震えている。近いうちに私は風邪を引くだろう。そうして寝込んで、もしかしたらそのままずっと起き上がらないかもしれない。
一度は向き合った親父に背を向け、濡れた手で襖を開けて、いつからそこにいたのか、立ち尽くす永琳の横をすり抜けて私は家の外を目指した。
最初から諦めていたなら、もしかすれば水はかぶらなくてもよかったかもしれない。そんなことを考えて、とぼとぼと廊下を進む。
頬を伝う雫は、なぜだか妙に温かかった。




