隠棲商人森近
黒々とした記憶の波から、手元の写真へと意識を戻す。
一心に金づちを振るう親父の背中、山と積み上げられた店の道具。セピア色の母は前掛け姿で笑い、写真の向こう側から私を見つめている。アルバムに閉じ込められた霧雨家の歴史はそのどれもが穏やかな光に包まれているようで、私はいつまでもページを捲っていたい気分だった。生きるということはままならなさの連続で、それは私の過去一つ取ってみてもはっきりとわかることだが、しかしながらここにある写真はそんなつらさや悲しみをすべて包み込んで私を癒してくれるように思えた。
だからこそ私は、まだ半分ほどしか見ていないアルバムを閉じた。間違っても思い出の切れ端が飛び出したりしないように勢いよく音高く、古ぼけた表紙を二つ折りに叩きつけた。アルバムを覆っていた埃がぱっと舞い上がり、店のあちこちへ散っていく。
「…………けほ」
軽く咳き込む。わずかな沈黙が辺りに満ちる。
「すまない。気を悪くしてしまったかな、魔理沙」
霖之助は私が写真を見て気分を害したと思ったのだろう、申し訳なさそうな口ぶりで謝罪してきた。心なしかその様は慌てているようにも見える。
「ああいや。怒ってるとかじゃないんだ」
ざらつく表紙をそっとなでると、灰色に溜まった時間が指先を汚した。そんな私の手——親父のそれとは似ても似つかない小さな白い手を、ランプの光が炙っている。
「懐かしい——とはちょっと違うのかもしれないけどさ、何だか温かい気分になれた気がするよ。ありがとうな、香霖」
それは、まったくもって私の素直な気持ちだった。アルバムの写真が私に思い起こさせたものは幸せな記憶ばかりでもなかったが、それでも見ることができてよかったとは思う。
「そうか……それならよかった」
霖之助は安心した様子でほっと息をついた。その姿を視界の端に捉えながら、私はアルバムを片付けにかかる。
この写真は、無尽蔵の幸福感を私にもたらしてくれる。
だからこそ、封じ込めるのだ。
思い出に浸っていれば心地よいのだろうが、それは甘い皮に包まれた猛毒だ。のめり込むほどにその毒素は私の意志を蝕んでいく。わかりきったことだ。自らを修羅の道に叩き込んだそのときから、甘えなんてものはかなぐり捨てて然るべきなのだ。
「僕がやるよ」
机越しに霖之助が両手を差し出してきた。重い紙の箱をその腕に預け、私は座り込んだ。店の奥に消えていく霖之助の背中を見送る。
人影の絶えた香霖堂は、いつもの倍以上に広く感じられた。無人の店を訪れたことは何度もあったが、あの写真とともに過去を振り返った後では、私の中にも特別感慨深いものがあった。
思い出されるのは、私が初めて香霖堂を訪れたときのことだ。いまよりずっと道具の数が少なくて、清潔で——何より天井が高かったことを覚えている。
包帯にくるまれた不恰好な右手を、私は見つめる。
家を飛び出したあの日、無我夢中で店の扉を叩いた感触は、いまでもこの手に残っている気がする。どこをどう辿ってここに来たのかなんて全然覚えていないのに、それでも記憶の輪郭だけははっきりと脳裏に焼きついていて——
突如聞こえた足音によって私の意識は唐突に引き戻された。霖之助だった。
アルバムを仕舞い終え、いそいそと戻ってきた霖之助はやはりと言うべきか埃まみれだった。汚いなあ、と思いつつその動向を見守っていると、彼は体にひっついた埃を払おうともしないばかりかそのまま自分の机に向かって書き物を始めてしまった。ここからでは何を書いているのか読み取れないが、一心に筆を走らせるその没頭ぶりだけはありありと伝わってくる。
「お、おい。香霖」
霖之助は私の言葉に耳を貸す様子もなく、ひたすらに手を動かしながら手元の紙を睨みつけている。
最近になってようやく幻想郷にも出回り始めた紙は、書物を愛する一部の知識人を大いに魅了した。霖之助もそんな創作の魅力に取り憑かれた一人なのだろうか。脈絡のない彼の行動は才気を持て余した作家のようにも見て取れる。しかしそこにいかなる理由があるにせよ、一人ほったらかしにされた身としてはこの手持ち無沙汰な孤独感をどうしたらいいのかさえわからなかった。声をかけてみようか、いやそんなことをすれば霖之助の集中を阻害してしまうじゃないか。手を出しかけては見えない壁に弾かれるようにして引っ込めるという動作を繰り返しているうちに、やがて彼は筆を握ったときと同じぐらいの前触れのなさでくるりとこちらに振り返った。
「ふう」
大きく息をついた後、霖之助は憑き物の落ちたような晴れやかさで私に微笑みを向けた。
「……いやーすまないね。どうしても書き残しておきたいものがあったから」
そしてこの台詞だ。一人でガリガリと物を書いて勝手にスッキリしているのだから世話のない話である。いまの数分だけで私は森近霖之助という道具屋がますますわからなくなってしまった。
「……それはまあ、いいんだが。何を書いてたんだお前は」
「日記だよ」
「日記?」
私の知識によれば日記とはあんな衝動的な書き方をするものではないと思うのだが、こいつはどうして備忘録をつけるだけのことにそこまで瞬間的なエネルギー消費をするのだろうか。覚えたことは書き留めておかなければすぐに忘れてしまうクチなのか。痴呆症か。
という意味の言葉を最大限に簡略化させて霖之助にぶつけてみると、
「いや、何ていうか……あるじゃないか、そういうのが」
曖昧さだけを固めてこしらえたような言葉が返ってきた。普段から数式で導き出せるようなことしか言わない霖之助にしては、随分と歯切れが悪い。
「あるじゃないかって、何が」
「うーん……こういう日記もそうだし、物を書くなら大抵の場合であると思うんだが、いわゆる『神が降りる瞬間』というのを経験したことはないかな、魔理沙」
「……あー」
その経験なら私にも覚えがある。物語を紙に起こしたことはないにせよ、魔法に関する研究書を書き続けていればそういう理屈では説明できない現象を体感することは少なからずあるからだ。まとまりのある文章を書きつくっていると、唐突に筆の勢いが増すあの現象。なるほど、さっきの霖之助には神が降りていたのか。
「で、何を書いてたんだ、お前は」
「いや、内容はそこまで大したことでもないんだ。ただ……魔理沙がほんの少しでも過去に向き合ってくれたということを殴り書きしただけさ」
「……そんなこと書いてどうするんだよ」
私には、霖之助がその程度のことをどうしてあそこまで必死になって日記に書きつけたのか理解できなかった。
霖之助は眼鏡のツルを指でくいと押し上げて、
「一週間前の君なら、たとえ僕がアルバムを渡したとしても絶対に見なかっただろう。そう考えれば、君も進歩したなと思ってね」
「…………」
それは……そうなのかもしれない。
親父と喧嘩別れした過去を記憶の隅に封じ込めて、話題に上ることさえ頑なに避けていた頃の私なら、たとえ霖之助がアルバムを差し出してきてもあれこれと理由をつけて触らなかっただろうし、そもそも霖之助がアルバムの存在を私に知らせることさえしなかったはずだ。彼がアルバムを持って来たときに言っていた『機会』とは、つまりそういうことなのだろう。
霖之助はずっと待ち続けていたのだ。私が自分の馬鹿に気づくその時まで。
「……なあ、香霖」
「ん?」
「私が初めてここに来た時のこと、覚えてるか?」
その確認は、思えば必要のないことだったのかもしれない。私にとっても霖之助にとっても、あの日の出来事は生涯消えることのない記憶のはずなのだから。
「……ずぶ濡れだったね、あの時の君は」
霖之助は遠い目で窓の外を見つめた。彼はその瞳に一体何を映し、何を感じているのか。それを知りえるのは当の本人だけであり、言ってしまえば他人である私にできることなんてものは、どこまで突き詰めてもただの憶測止まりだった。
「身体中をガタガタ震わせて、唇まで真っ青で……初めは何があったのかと思ったよ。それでもただごとじゃないってことぐらいは僕にもわかったからね、店に入れたけれど」
下手をすれば、動揺していたのは君よりも僕の方だったのかも知れないね——と、霖之助は言う。
この話もさっきのアルバムと同じで、いまだから言えることなのだろう。長い間、私と霖之助の中だけに封印されていたこと、いつかは紐解かなければならなかったこと。親父のもとに帰るのなら、それはやはり決着をつけておかなければならないことだ。思い出話としてであれ、懺悔としてであれ。
「とにかく忙しかったね。濡れた君の体を拭いて、とりあえずの着替えを用意して、お湯を沸かして。一人のお客さんにあそこまで手を焼かされたのは、いま思い出してもあれが最初で最後だったと思うよ」
そうだ。
霖之助は、雨と泥にまみれた傷だらけの私を、何も言わずに手当てしてくれた。身体中が氷のように冷たくて、歯を食いしばっていなければ泣き出してしまいそうなほどに痛くて、それでも私が壊れてしまわなかったのは、ひとえに彼の差し伸べる手があったからなのだ。
すべてが冷え切ってしまった世界の中で、霖之助の優しさだけが何にもまして暖かかった。
だからこそ、私にはこの場ではっきりさせておきたいことがあった。
「香霖は、」
勢い口にした言葉が喉に詰まる。
「ん?」
こちらを向いた霖之助の瞳に視線を合わせて、今度こそはと切り出す。
「香霖は、家出してきた私に何も聞かなかった、よな。どうしてなんだ? 前触れもなくいきなり私が転がり込んできたんだから、いろいろ変に思ったんじゃないのか」
尻すぼみになりながらも、何とか言いたいことを言い切った。
それは、私がずっと不思議に思っていたことだった。
確かに、私があの場において家出に関することをあれこれ聞き出されたくなかったのは事実だ。話したくなかったし、できれば触れないでほしかった。でもそれはあくまで私の感情であって、ことがことである以上優先されるべきものではない。霖之助からすれば、店の扉を開けた先で傷だらけの私が寒そうに震えていたのだ。これはただならぬことがあったに違いない、聞き出さなければと、真っ先にそう思うはずなのだ。しかし実際には、霖之助は私の事情を一切聞こうとせず、私が自分の口から何があったのかを話せるようになるまで待っていてくれた。なぜ彼がそこまでしてくれたのか、私は彼自身にその真意を説明してほしかった。
霖之助は終始押し黙ったまま私の話に耳を傾けていたが、やがて聞き終わると、何だそんなことかと言わんばかりの呆れ顔をした。
「それはもちろん。さっきも言ったけど、初めは何があったのかと思ったよ。でもね、お客さんの事情は必要以上に詮索しないのが僕の商売人としての流儀だからさ」
「商売人としての、流儀……」
よもや霖之助の口からそんな言葉が飛び出すとは思わなかった。
「お前にもあるんだな、そういうの」
「君もなかなか失礼なことを言うね。……でも、この流儀だけは譲れないんだ。意地と言ってもいい。店に来るお客さんは確かに少ないけれど、だからと言って売る側の性根が腐ってしまったら終わりだと思っているからね」
「へえ……」
なかなかどうして、霖之助にもプロフェッショナルとしての自覚があるのだ。普段は商売人というより気まぐれな書生のような生活を送っているものの、やはり根っこの部分では彼も道具屋としての矜持をしっかりと持っているのだった。
「でも、あの時の私は客だったのか?」
言い終わってから、無粋な質問だと気づいた。しかし霖之助は気を悪くした様子もなく、
「お客さんだよ。店の扉をくぐれば、善人も悪人もみんなお客さんだ。そこに優劣はない。貴賎もない。それに……この流儀は僕が君の親父さんから初めて教わったものだからね」
「親父から……?」
唐突に飛び出した親父という言葉に、私の心は浮き足立った。
「そうだよ。僕が親父さんのところに弟子入りした時、まだ半人前だった頃の話さ。親父さんはあまり口数が多くなかったけれど、それでも大切なことはちゃんと教えてくれたんだ。だからあの時の君はまぎれもなく僕のお客さんだったし、あれこれ事情を詮索することもなかった」
何て皮肉だろう、と思った。
私を追い出した親父の教えに従って、霖之助は私を助けたのだ。あれほどつらかった家出も、親父との確執も、結局は小さな囲いの中で私が暴れまわった末に起きた取るに足らないできごとだったのである。それほどに私の視野は狭く、その上何も見えていなかった。その事実に気づいてみると、もはや虚無感を通り越して可笑しさまでもが込み上げてきた。
霖之助に助けられたあの日から、私は必死で魔法の研究に打ち込んだ。もう戻れない道だと決め込んで、狂ったように研鑽を重ねた。
ひたすらに目標を追い続けるその姿勢が、家族を裏切ったことへの罪滅ぼしになると信じて。
しかしその努力さえも、思えばひ弱な悪足掻きだったのだろう。何の意味もなさない自己満足だったのだろう。自罰的な枷を自身にはめることで、私は後ろ暗い過去を見ないようにしていたのだ。
私の罪滅ぼしは、拾ったキノコを煮詰める程度のものだったというのに。
何をやってもそれは井の中のできごとなのだ。そう考えると、不思議と清々しい気分になった。やれるだけのことはやってやろうじゃないか。素直にそう思えた。
「やっぱり霧雨家の娘なんだな、私も」
「?」
その時、窓から一筋の光が射し込んだ。香霖堂を照らす朝日に、私は大きな希望を見た。
「……夜が明けてしまったね。魔理沙、君は寝ておいたほうがいい」
「ああ、そうするよ」
遅すぎる睡魔の到来は、考え方によってはむしろベストなタイミングと言えた。
窓の外では、幻想郷を満たしていた底なしの闇が急速に駆逐されつつある。




