誓いの剣
遥か遠い何処かに存在する、或る王国の物語。
何処の国にも『英雄』と呼ばれる人物は居るもので、その国にも人々の心に希望を刻んだ人物が居た。
フォーレーン王国軍近衛騎士隊長、其の名はリフ=トラスフォード。
女性の身でありながら王国屈指の騎士として、名を轟かせた人物だったという。
剣の腕は勿論のこと、聡明で美しく、常に民の身を重んじる彼女に、人々は共感した。
そして民衆が『英雄』を求める時というのは、決まって――何かに苦しめられている。
この国も例外ではなく、作物の不作、一部の貴族達の強硬な姿勢と王宮の衰退、それによる治安の悪化に混乱していたのである。小さな内乱がぽつぽつと、王国を蝕み始めていた。
王都からやや離れた平原地帯に、ヒューズという小さな村が在った。
かつては蕩々と川が流れ、木々が生い茂り、穀物や野菜、果物が豊かに実る地域であったのだが、内乱の余波を受けて既に壊滅寸前だった。
身寄りを失った子供達は、寄り添うようにして主を失った孤児院にひっそりと暮らしていた。孤児院の創設者である院長は内乱を止めようと単身出向き、見せしめのようにして殺されたという。
残されたのは年端もいかぬ子供達。
それでも彼等は、雑草のように逞しく生き延びていた。身勝手な大人達に振り回され蔑まれ、顔に唾を吐きかけられながら、それでも生きていた。
そんなある日――『事件』は、起こった。
その日、リフはヒューズ村へ、貧しい人々の為にと物資を携え、馬を走らせていた。
鬱蒼とした森が滑るようにスクロールしていく。
と、彼女はある異変に気付いた。
木々の向こうに僅かに見える村が、いやに明るい。そしてリフの不安を煽るように、焦げたような臭いが鼻を差す。
「……まさか、村が!?」
山賊が下りて来たのか、貴族の略奪か。否、どうであっても構いはしない。
「何てことを……!」
彼女は愛馬に鞭打って、ひたすら村へと急いだ。早く。早く。はやく。
手遅れになる前に――!!!
眼前から背後に流れていく風景が速度を上げ、彼女を急かす。
森を抜け、視界が不意にひらけた。
――目の前の光景は、彼女の不安を裏切ることはなかった。
そう。
村に、火が上がっていたのだ。
馬を降り、一振りの剣を手に、彼女は揺らめく建物へと飛び出していた。
建物という建物は皆焼き払われ、荒らされた形跡が痛々しい。転がる人々の亡骸をひとつひとつ確認しながら彼女は駆けた。ひとつでも多くの命を守る、その為に。
目の前に倒れていた少年を、ばっと抱え起こす。あちこちに刺し傷と打撲を負い、ひゅう、と喉から声にならない音が漏れる。肌にはもう、赤みがなかった。
――あの子と……同じくらいかしら。
見たところ、十歳前後の少年だった。
何とはなしに同じ年頃の息子を思い出し、次に彼の義足を見て、リフは事情を悟った。
「逃げ遅れたのね……?」
しかしその彼女の問いに少年は、苦しそうに、首を微かに横へ動かす。
途切れ途切れに、しかし何かを伝えようとリフにしがみつく少年。掴まれた袖に、力は感じられなかった。
「……きし、さま……!みん、な……が……こふっ」
そのちいさな口から赤い液体が吐き出される。
余りにも居た堪れなかった。こんなにも幼い少年が、抵抗することすらも許されずに、その短い生涯を閉じるというのだろうか。
「『みんな』?」
聞きとがめる女騎士。幼い顔に浮かんだのは、安堵の表情。彼は視線で村の最奥の小さな建物を示す。
その方角にある建物を、リフはよく知っていた。
――今や子供達だけが残されている、あの孤児院だ。
彼女自身、援助物資を届けに度々その建物を訪れている。身寄りのない子供達を我が子のように愛した、今は亡き院長とも懇意にしていた。
「……な、まさか……君は――他の子供達を逃がす為に!?」
リフの驚愕の眼差しにほんの僅かに微笑んで、彼は――やけにはっきりと、こう告げた。
『ミンナヲタスケテ』――。
それが。
彼の――最期の言葉だった。
ふっ、と腕に感じる重みが軽くなったように感じた瞬間、彼は――遠い何処かへ旅立ったのだろうか。
リフはそっと彼の亡骸を横たえ、孤児院を目指し全速力で駆けた。
彼の死から、その意味を奪わない為に。
走って。走って。走って。――その先に。
騎士が目にしたものは、
焼け焦げて煤だらけの廃墟と、ひょろりと背の高い鈍色の鎧姿だった。
そして、背の向こうに。
飛び込んできた光景に、リフは眼を疑った。
年の頃は、十にも満たないだろう――リフの末の息子とさして年齢も変わらない子供が、剣を左手に握り締め、その鎧と対峙していたのである。
乱雑に短く切られた髪はしかし銀を梳いたようなしなやかさで、埃に塗れた肌も白磁のようにきめ細やかだ。あどけない顔立ちには似合わず、瞳を彩る紫紺には強い意思の光が灯る。
その紫電の輝きを目の当たりにして、彼女は直感した。
――この輝きこそ、王国の未来に希望を灯す光だと。
「……け、ガキが調子に乗りやがってッ」
吐き捨てるように、鈍色の鎧が槍をひょいと掴む。その槍の柄には王国の紋章があしらわれていた。『騎士』として国が認めた――証が。
「帰れ!ここは――僕達の家だッッ!!!」
ぎっ、と大きな紫水晶の双玉が鎧の男を睨め付けた。
「な、……ガキの癖に、何て目をしやがる……?」
呟いてほんの一瞬怯んだ鈍色に、剣光が閃く。とても年端のいかぬ子供のそれではない。
「僕が守ってみせる!
――院長先生の代わりに!皆を……ッッ!!」
ああ。
何と純粋な瞳をするのだろう。この幼き剣士は。
鎧の男は微かに切れた肩の血を手で拭い、顔を怒りに紅潮させて激昂を露わにした。
「ンの、クソガキ……!
ならその先生の所に連れてって遣るッ!」
ぶんと槍が振るわれる。幼き命へ向けて、放たれる……!
……この子は、失えない――!!
がっっ!!!!
「…………え……?」
ちいさく呻くのは、あどけない声。
「退がっていなさい――」
凛とした声が、塵舞う建物跡に響く。
見出した幼き『希望』の前に彼女は立ち塞がり、手にした剣で槍の一撃を弾く!
「…………誰!?」
背後からの気配と声が、警戒の色を帯びているのは仕方ないのだろう。
自分もこの男も――きっとこの幼い瞳には、変わらないのだ。
「――あなた。他の子供達は無事なの?」
振り向かずに声だけを飛ばす。
「……逃がした、けど――」
不安に揺れたその言葉にリフは、
「ここは私に任せて、行きなさい!」
剣を構え直し、彼女は目の前の『騎士』の攻撃をことごとく剣で受け止める。
「ぐぁッッ!てめ、女の癖にやるじゃ――
って……まさかアンタ………!?」
はっとして槍を握る、無骨な手が止まった。
と、遠くから男の声が何やら喚くのが聞こえる。がちゃがちゃと重い音が近付いて――
同じ鈍色の鎧が、ひとつふたつと視界に入る。
「で、でも……」
「約束するわ。ここは必ず食い止める。
――フォーレーン王国軍、近衛騎士隊長……リフ=トラスフォードの名に誓って!」
戸惑う声を遮って、リフは手にした麗刀を掲げる。
陽光を反射して眩く輝く刀身の流線。王国の紋章と刻まれた名前。
「トラスフォードだとぉ!?くそ、何でこんな外れの村に……!」
男の顔が苦渋に歪んだ。
「早く行きなさい!!
『家族』を守るのでしょう!?あなたの力で――」
リフの言葉が、そこに朗々と響き渡る。
――どちらが真の『騎士』か――問う迄もなきことだ。
その誇り高き誓いを受け、ちいさな剣士はこくり、と頷くとばっと身を翻す。
そして駆けた。
守るべき者達の名を胸に抱いて。可能性を見据えて。
幼き紫電の風は、砂埃舞う中をただひたすらに駆け抜けていった――
その日。
ヒューズという村は、大陸地図からも歴史からもその姿を消した。
後世に遺されている記述から読み取れるのは、ただひとつ。
その村が、フォーレーン救国の英雄、クラリス=トラスフォードの故郷だということだけである。