婚約者に「君は何もしていない」と言われたので、本当に何もしないことにしました
「君はいいよな。毎日ここでお茶を飲んでいるだけなんだから」
婚約者の口からそんな言葉が出たとき、エレノアは手にしていたカップを静かに置いた。
「⋯⋯私も、いろいろお手伝いしていますけれど」
「手伝いって、手紙を書いたり予定を確認したりすることだろ?そんなもの仕事とは言わないよ」
向かいに座る侯爵令息、ヴィクターは笑った。
エレノアは伯爵家の娘で、ヴィクターとは三年前から婚約している。
いずれ侯爵夫人になるのだからと、一年前から週の半分ほどはヴィクターの家の屋敷へ通うようになった。
屋敷では、以下のような作業を行っていた。
ヴィクターに届いた手紙を整理する。急ぎのものがあれば返事の下書きを作る。茶会や晩餐会への招待状を確認して予定を調整する。
祝い事があれば贈答品を選び、先方へ届けてもらう。
領地から届いた報告書に目を通し、重要なものを整理し、ヴィクターの机へ置く。
使用人から相談を受ければ、必要に応じて執事や家令へ伝える。
もちろん、侯爵家の正式な仕事ではない。
給金をもらっているわけでもない。
それでも将来この家に嫁ぐのだからと、エレノアはできる限りのことをしてきた。
ヴィクターが仕事に集中できるように。
少しでも彼の負担が減るように。
「でも、私が整理している書類もありますし、晩餐会などの日程も——」
「だから、そういう細々したことを仕事とは言わないんだって」
ヴィクターは面倒そうにため息をついた。
「俺は父上から領地経営を学んでいるんだ。商会との交渉もあるし、貴族同士の付き合いもある。君とは忙しさが違うよ」
「⋯⋯そうですか」
「そうだよ。君は恵まれてるんだ。俺と結婚すれば生活にも困らないんだから」
そこでヴィクターは、何かを思い出したように続けた。
「そういえば、最近知り合ったリリアーヌ嬢なんてすごいぞ」
「リリアーヌ様?」
「ああ。男爵家の娘なのに、自分で商会を立ち上げようとしているんだ。新しい化粧品を売るらしい。君も少し見習った方がいいんじゃないか?」
エレノアは黙った。
「彼女みたいな女性を自立しているって言うんだろうな。自分で考えて、自分で働いている。君は俺がいなかったら何もできないだろ?」
ヴィクターは笑っていた。
悪意など、少しもなさそうだった。
だからこそエレノアは理解した。
この人は本当に、自分が何もしていないと思っているのだ。
「⋯⋯分かりました」
「ん?」
「それでは、もうお手伝いするのはやめます」
ヴィクターはきょとんとしたあと、肩をすくめた。
「好きにすれば?」
「よろしいのですか?」
「別に構わないよ。そもそも頼んだ覚えもないし」
「そうですね」
確かにそうだった。
ヴィクターから頼まれたことなど、ほとんどない。
エレノアが勝手に気付き、勝手にやっていただけだ。
「では、そういたします」
翌日からエレノアはアルディス侯爵家へ行くのをやめた。
そして両親に、ヴィクターとの婚約を解消したいと伝えた。
驚かれはしたものの、三年間ヴィクターを支え続けてきた娘が初めて口にした願いだった。
父である伯爵は理由を聞いたあと、娘の意思を尊重してくれた。
一方、ヴィクターは婚約解消の申し出を受けても、さほど気にしていなかったらしい。
「少し頭を冷やせば戻ってくるだろう」
そう言っていたと、共通の知人から聞いた。
エレノアも最初の数日は、不安だった。
本当にこれでよかったのだろうか。
三年間の婚約を、こんなことで終わらせてしまって。
けれど、一週間が経った頃、エレノアは気付いた。
朝から晩まで、驚くほど時間がある。
返事を書かなければならない手紙もない。
ヴィクターの予定を確認する必要もない。
贈答品を選ぶために店を回る必要もない。
侯爵家の使用人から相談を受けることもない。
「⋯⋯私、こんなに時間を使っていたのね」
エレノアは、思わず笑ってしまった。
その時間で、以前から興味のあった刺繍を習い始めた。
母と観劇にも行った。
妹と街へ出かけ、新しくできた菓子店にも行った。
久しぶりに、自分のために一日を使った。
とても楽しかった。
一方その頃。
アルディス侯爵家では、小さな問題が起こり始めていた。
「ヴィクター様。明日の晩餐会ですが」
「晩餐会?」
「はい。ローデン伯爵家からご招待をいただいております」
「なんだそれは。聞いていないぞ」
「招待状は一月前に届いておりますが⋯⋯」
「どこにある?」
「ヴィクター様のお部屋へお届けしております」
机の上には、大量の手紙が積み上がっていた。
以前ならエレノアがすべて開封し、重要度ごとに分けていた。
「⋯⋯探してくれ」
「私どもが勝手に開封するわけにはまいりません」
仕方なくヴィクターが探すと、山の下から招待状が出てきた。
その翌日。
「ヴィクター様、バルモア子爵へのご結婚祝いはどうなさいますか?」
「結婚祝い?」
「来週ご結婚されます」
「聞いてないぞ!」
「二月前にご案内が届いております」
さらに翌日。
「ヴィクター様。明日は領地視察のご予定です」
「明日は商会長との会談だぞ?」
「ですが、領地の家令には明日いらっしゃると伝わっております」
「誰がそんな予定を組んだんだ!」
「以前から決まっていたものですが⋯⋯」
次々と問題が起きた。
招待状への返事が遅れ、祝い事を忘れ、予定が重なる。他にも領地からの報告書が埋もれたり、使用人から上がってきた相談が放置される、といった事が起きていた。
「なんで急にこんなことになったんだ!」
苛立つヴィクターに、老執事が静かに答えた。
「以前はエレノア様が確認されておりましたので」
「⋯⋯は?」
「招待状も、贈答品も、予定の調整もです。領地からの報告書も、重要なものだけをエレノア様が選んでヴィクター様へお渡ししておりました」
「そんな⋯⋯」
「使用人からの細かな相談にも、エレノア様が対応してくださいました」
ヴィクターは言葉を失った。
「だが、それは⋯⋯」
仕事ではない。
そう言おうとして、言えなかった。
なぜなら今、その『仕事ではないこと』に追われて、自分の仕事がまったく進んでいないからだ。
ヴィクターは思い出した。
朝、屋敷へ来たエレノアが笑顔で言っていた。
『今日の予定はこちらです』
『こちらの手紙だけ、今日中にお返事をお願いします』
『贈答品はこちらで手配しておきました』
『領地から急ぎの報告が来ています』
自分はそれを受け取り、『ありがとう』とすら、ほとんど言ったことがなかった。
やって当然だと思っていたから。
いや————やっていることにすら、気付いていなかった。
そこでヴィクターはリリアーヌを思い出した。
彼女なら。
自分で商会を立ち上げようとしているほど優秀な女性なら、エレノアがしていたことくらい簡単にできるだろう。
数日後、ヴィクターはリリアーヌを茶に誘った。
「それで、少し君に手伝ってほしいんだ」
「何をですか?」
「手紙を整理したり、予定を管理したり、贈答品を手配したり⋯⋯そういう細かいことだよ」
リリアーヌは不思議そうに首を傾げた。
「どうして私が?」
「え?」
「私、自分の商会の準備がありますので」
「いや、でも⋯⋯君なら簡単だろう?」
「できるかどうかではなく、どうして私が無償でヴィクター様のお仕事をしなければならないのですか?」
ヴィクターは何も言えなかった。
「それでは、失礼いたします」
リリアーヌは帰っていった。
それから一月後。
ヴィクターはリーズレット伯爵家を訪ねた。
「エレノア」
久しぶりに会った元婚約者は、以前より明るく見えた。
「お久しぶりです、ヴィクター様」
「⋯⋯戻ってきてくれないか」
「どこへです?」
「俺のところへだよ」
ヴィクターは拳を握った。
「君がいなくなって、初めて分かった。俺には君が必要だった」
「まあ⋯⋯」
「本当にすまなかった。君があれほど色々なことをしてくれていたなんて知らなかったんだ」
エレノアはしばらく彼を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「私、何もしていなかったのでしょう?」
「それは⋯⋯」
「毎日お茶を飲んでいるだけだとおっしゃいましたよね」
「悪かった。俺が間違っていた」
「そうですか」
「だから、もう一度――」
「ヴィクター様」
エレノアは穏やかに遮った。
「あなたに必要なのは、私ではありません」
「え?」
「あなたの雑務を代わりにしてくれる人です」
「違う!」
「では、私が何もしなくても、もう一度婚約したいと思いますか?」
ヴィクターは口を開いた。
けれど、答えは出てこなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「今までありがとうございました」
「エレノア⋯⋯」
「私、あなたがいなくても何もできないのだと思っていました」
かつてヴィクターに言われた言葉を思い出す。
君は俺がいなかったら何もできない。
あのときは、そうなのかもしれないと思ってしまった。
「でも、違ったみたいです」
エレノアは笑った。
「あなたがいない方が、いろいろなことができました」
ヴィクターが帰ったあと、エレノアは出かける準備をした。
今日は母と観劇へ行く予定だ。明日は妹と菓子店へ行く。
来週からは刺繍だけではなく、以前から興味のあった外国語も習うことにした。
自分のために使える時間は、思っていたよりずっと多い。
玄関へ向かう途中、侍女が尋ねた。
「お嬢様、今日はずいぶん楽しそうですね」
「そう?」
「はい」
エレノアは少し考えてから笑った。
「きっと、暇だからね」
何もしないというのは。
どうやら、とても忙しくて楽しいことらしい。
評価、ブックマーク、感想など励みになります。
モチベーションになりますので、よろしくお願いします。
また、作者Xにて更新通知を行っております。
新作の通知なども行いますので、ぜひフォローお願いします。
@MokaSufure




