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「君のためを思って」と命令してくる婚約者への我慢をやめた日

作者: あいあメル
掲載日:2026/06/25

「ふう、やっと半分か」


 月の光と蝋燭の灯りを頼りに、私、レティシア・ギルドバードは広々とした自室で一人、フィリップ様のための二枚目のレポートを書いていた。


 婚約者であるフィリップ・クレスト伯爵令息様の言葉がふっと思い出される。


「ちゃんと、別人が書いたと思われるようにだ」


 大丈夫。ちゃんと筆跡は変えた。


 ふと手が止まる。

 本当にこんなことを続けていいのだろうか。


 私は頭を振った。


「レティシア、君のためを思って言うね。婚約者の時間を最大限にするのが、君のすべきことだよ」


 (フィリップ様を、婚約者を疑っちゃダメじゃない)

 

 私はそこにあったハンカチをそっと握りしめた。布地はボロボロで、何度もほつれを直した跡があるハンカチ。


 幼い時に大切な人からプレゼントされた私の宝物。


 見るだけで、幼い時に聞いた声がよみがえり、元気が出る。


 (いけない、このままでは夜が明けてしまう)

 

 私はレポートの続きに取り掛かった。


♦︎


 結局、フィリップ様の分のレポートができたのは、太陽が昇り始めた頃だった。

 

 眠い目をこすりながら、貴族学院に登校すると、中庭にフィリップ様がいた。友達であると仰っていた男爵令嬢とフィリップ様は楽しそうに笑っている。


「フィリップ様」

「……なんだ、レティシアか。なんの用だい?」


 声をかけると、心なしか不満げなフィリップ様。


「レポートができたので、お渡しに来ました」

「助かったよ。流石レティシア!」


 フィリップ様は満面の笑みを浮かべた。その笑顔に私はホッとする。


 渡すと、すぐさまフィリップ様は言った。


「じゃあね。まだ少しミランダと話すことがあるんだ。……それとも、まだ用があるのかい?」

「……いえ、ありません。では」

「ああ、そうだ。君のために言うけど、ミランダを少し見習った方がいい。ミランダは君と違って人当たりがいいからね。」

「……分かりました」


 私は一礼をすると、歩き出した。


「なんなの、あれ?」

「あれじゃ、召使いじゃないか」

 

 周囲の囁き声なんて、聞こえないふりをする。


 昔、私は人の嘘や、間違いにすぐ気づく子供だった。


 けれど大人たちは、そんな私にいつも注意をした。

 

「あなたはもっと言葉を選びなさい」

「賢い女は嫌われるわよ」

「そんなに理屈っぽいと、可愛げがないぞ」


 フィリップ様だけが違った。

 

 ある時、いつものように可愛げがないと怒られた私は、一人庭園で泣いていた。フィリップ様はそんな私を見つけて、ハンカチを差し出してくれた。


 そして、フィリップ様は何があったのか、黙って聞いてくれた。

 他の子供が嘘をついて仲間外れを作ろうとしていたこと、それを指摘して泣かせてしまったこと。それを見た大人たちに、一人怒られたこと。とっても悲しかったこと。


「君は悪くない。僕は君の言ってることが正しいと思うよ」


 フィリップ様はそう言ってニッコリと笑った。


 「そうやって、思っていることを素直に言えるの、とっても素敵だと思うな」


 その日、私はフィリップ様に恋をした。


 世界でたった一人の、私のことをちゃんと見てくれて、認めてくれる人。


 伯爵家の嫡男であるフィリップ様は、侯爵家の一人娘である私の相手としては、本来なら少し家格が下だった。


 それでも幼い私は、両親に無理を言って婚約を認めてもらった。

 

 かけがえのない彼に嫌われたくない。だから、彼の言うことに私はつい頷いてしまう。


「レティシア、絵画鑑賞なんてやめた方がいいよ」


 とある午後、学院の中庭で、フィリップ様は当然のようにそう言った。


「そんな無駄なことに時間を使うくらいなら、もっと有意義なことをした方がいい。君のためを思って言うんだ」


「……絵を見ることは、無駄でしょうか」


「無駄だよ。少なくとも、婚約者である俺の役には立たない」


 絵を見ることは私の数少ない趣味だった。画家の想いを感じ取り、そこに込められた歴史を知ることは私の喜びだった。


 本当はやめたくない。けど、私のことをよく見ているフィリップ様がおっしゃるのだ。


 「わかりました。これからはやめます」


 そう答えると、フィリップ様は満足そうに笑った。


 絵画鑑賞を一緒にしていた友人とは、段々疎遠になっていった。


 フィリップ様が私にやめろと言ったのは、それだけではなかった。


「どんな相手だろうと、ダンスを誘われたら断れ」


 ある時、一緒に参加した夜会で他の方とダンスを踊ったら、裏庭に呼び出された。


「そもそも、他の男と喋るんじゃない。浮気と勘違いされたら君の評判が落ちる。君のためを思って言っているんだ」

「……分かりました」


 裏庭から戻った私は、壁ぎわでじっとしていた。

 フィリップ様は他の令嬢と踊っているのを、黙って見ながら。


「一曲ダンスをお願いしてもいいでしょうか?」


 気がつくと私よりも身分が上のアルバート公爵令息が目の前にいた。

 私は失礼だと分かって、黙って首を横に振った。


「そうですか。残念です」


 断られたのに、こちらを気遣うようにニッコリと笑い、アルバート公爵令息は去っていった。その後、他の令息たちにも誘われたが、私は全て黙って断った。


 貴族の縁を繋ぐのも社交界に出る大切な意味。けど、それよりフィリップ様の言葉の方が重たい。間違っていない。きっと、きっとそう。


「政治には口を出すな」

「ミランダと仲良くしろ。お茶会でもしろ」

「家の者に相談するな」


 私は全て「はい」と答えた。その度に、私の中の何かが削れていった気がした。


 でも、私のことをちゃんと見てくれる彼が言うのだ。


 間違っているのは私なのだ。


 心が擦り切れそうになるたびに、大事に持っていたボロボロのハンカチを、私は握りしめた。


 ある日のことだった。


 私の家の庭園で開かれた二人きりのお茶会で、そのハンカチをフィリップ様に見られた。


「なあ、そのハンカチ、どこで拾ったんだ?」

「昔、いただいたものです。拾ったものではありません」

「ふーん、なんでそんなボロボロになるまで使っているんだ?」

「思い出の品で、いつも元気をもらっているのです。それに、まだ使えますし」


 私はハンカチを胸に当て、ぎゅっと握りしめた。

 フィリップ様はそれを見て、顔を顰めた。


「なあ、君のためを思って言うんだけど」


 聞きたくない。けど、フィリップ様は続けた。


「そんなボロボロのハンカチは、俺の婚約者として相応しくない。もっとちゃんとしたものを、婚約者なら身につけろ」

「でも……」

「でもじゃない!」


 ティーカップが置かれている机をバンと叩くと、フィリップ様は立ち上がった。そして私の方に歩くと、ハンカチを奪い去った。


「お願いです、返してください!」


 フィリップ様は、ニッコリと笑った。


「ああ、足が滑った」


 それが彼の答えだった。泥だらけになるまで何度も私のハンカチを彼は踏みつけた。


「これで、もう使えないな。さっさと捨てろ。汚いハンカチに触れたせいで、気分が悪くなった。もう帰る」


 そう言うと、フィリップ様はそのまま帰っていった。

 

 私はその後ろ姿を見送ると、そっと踏みつけられたハンカチを拾おうと屈んだ。


 気がつくと、涙が地面にこぼれ落ちていった。


 その夜、侍女に止められながらも自分で必死に泥を落とそうとした。


 何度も、何度も洗った。


 けれども、汚れは落ちなかった。


 私は水につけすぎてボロボロになった指を見た。


 その指からこぼれ落ちていったものは、もう取り戻せないと私は気がついた。


♦︎


 それから数週間が経った。私は友人たちと、学院の庭園でお茶を飲んでいた。


「そろそろかな」


 そんな呟きが漏れた頃だった。


「レティシア! なんでお前、言う通りにしないんだ!」


 額に青筋を浮かべたフィリップ様が、傍に一人の令嬢、ミランダ嬢を連れて私の方にやってきた。


「おい、レティシア。話がある、こっちに来い」

「嫌です。話があるならここでどうぞ」

「……これから話すことを聞かれて困るのはお前だぞ!」

「そうですか。全然構わないので、どうぞ」


 自分の命令に「はい」と言わなかった私に、フィリップ様は少し動揺した様だった。


「じゃあ言わせてもらうがな、お前のせいでレポートが不合格、追試になったぞ! どうしてくれるんだ!」

「あら、それは実力不足が原因では?」


 そう言うと、フィリップ様はワナワナと震え出した。


「いいか、お前のレポートの不正を告発してやってもいいんだぞ」


 小さな声でフィリップ様が私に囁く。

 私は思わず笑ってしまった。


「何がおかしい!」

「レポートの件は、すでに学院に報告済みです。今まで私がやっていたことを伝えました。私にも罰が降るでしょうが、覚悟の上です。今後、調査委員会が結成され、徹底的に調査されるでしょう」

「なっ」


 焦った表情をするフィリップ様。ちらりと、ミランダ嬢の方を向いたのが分かった。


「今までのレポートは全て確認される様です。ちなみに、フィリップ様に私が渡したのが二枚であることも報告済みです」


 私が続けると、ミランダ嬢が青い顔をした。

 フィリップ様が提出する必要があるレポートは一枚。

 けれど私が渡していたレポートは二枚。

 では、もう一枚はどこへ行ったのか。


 (ビンゴ。どうやら私のレポートを渡していたようね)


「そう言うことですので、追試になるでしょう。頑張ってくださいまし」

「この野郎……!」


 そう言ってフィリップ様が拳を握りしめ、手を挙げた時だった。


「フィリップ!」


 後ろから声がした。

 そこには、フィリップ様の父親である、クレスト伯爵がいた。


「あら、クレスト伯爵様、お待ちしておりました」

「レティシア嬢に、『フィリップとミランダ嬢についてお話があります』と呼ばれてきてみたら……! フィリップ、お前は何をしているんだ!」

「父上、違うのです! この女が悪いのです!」

「何が悪いんだ! 言ってみろ!」


 そう言ってクレスト伯爵がフィリップ様を睨みつける。


「ああ、そうそう。婚約は破棄させていただきますわ」


 フィリップと、クレスト伯爵がギョッとした表情で私の方を見る。


 私は用意していた記録用水晶玉を取り出すと流した。


 そこにはお茶会をする私と、ミランダ嬢、そして彼女の取り巻きたちが映っていた。


「な、これはなんの映像だ!」

「これは……!」


 不思議そうな顔で映像を見るフィリップとクレスト伯、顔を青くするミランダ嬢。


「レティシア様、そういえばこの間フィリップ様と二人で香水を買いに行きました。今日付けているのは、その時に選んでもらった香りなのですわ」

「へえ、フィリップと二人ですか」


 楽しそうに語るミランダ嬢と死んだ目でそれを聞く私がそこには映っていた。


「あ、レティシア様とは最近一緒に出かけてないとフィリップから聞きましたわ。すみません、自慢みたいになってしまって(笑)」

「いえいえ、幼馴染同士仲が良いみたいで何よりです」


 映像の中の私が「少し失礼」と言って席を立つと、ミランダ嬢とその取り巻きたちがヒソヒソと話し出す。


「もう愛されていないというのに、あの女、本当にイラつく。彼の寵愛を受けているのは私なのよ。あの余裕が消える時が楽しみだわ」

「彼とはどこまで進んだのですか?」

「ええ、昨日も彼は私の部屋に来たわ」

「まあ。それで愛されたのですか?」

「もちろんよ」


 その先の言葉は、未婚の令嬢が人前で口にするには、あまりに下品なものだった。


 しばらく聞くと、私は映像を止めた。


「フィリップ、どういうことだ! お前、婚約者がいるのに他の令嬢と関係を持ったのか!」

「ち、違うのです!父上!」

「あら、何が違うのですか?」


 私が突っ込むと、ミランダ嬢は顔を青くしたまま黙り込み、フィリップ様は言葉に詰まった。それが答えだった。


 私はフィリップ様の方を向き、胸元からボロボロのハンカチを取り出した。


「これ、見覚えあります?」

「なんだその汚いハンカチは?」


 フィリップ様はまじまじと靴跡がついたハンカチを見つめた。


 私はため息をついた。


 私にとっては大切なものでも、この人にとってはそうではなかった。分かっていたことだったが、それでもショックだった。


「幼い時に、あなたにもらったのです」


 そういうと、フィリップ様は少し考えた後、ハッとした表情を浮かべた。


「今までは、あの時のあなたに勇気づけられていました。でも、もう不要なのでお返しします」


 そう言って、私はフィリップ様の胸ポケットにそのハンカチを入れた。


「レ、レティシア」


 震える声で、フィリップ様が何か言おうとする。


 謝罪だろうか。それとも後悔だろうか。どちらも、もう遅い。


 私はニッコリと微笑んだ。


「あなたのためを思っていいますが、もう何も言わない方がいいですわよ」


♦︎


 そこからすぐに学院中が、今回の騒動を知った。


 フィリップ様は、ここ数日学院を休んでいる。

 彼の後継者資格の剥奪が、家族会議で決まったそうだ。


 そんなクレスト伯家と我が侯爵家は、賠償金の話し合いの最中だ。


 私はというと、公爵家主催の夜会に来ていた。


 気分が晴れるかと思ってきてみた夜会。


 誰もダンスに誘ってくれず、話かけもされない。


 婚約破棄の直後の令嬢に声をかけるのは、誰にとっても難しいのだろう。


 そうだとわかっていても、辛かった。


 (ああ、婚約破棄しても一人でいるのは変わらないのね。むしろ、婚約破棄される様な女としてみられて、腫れ物扱いされてしまうのね)


 私は会場にいるのが居た堪れなくなって、バルコニーで夜風に吹かれることにした。

 

 月が綺麗だった。


 (私は間違っていたのかしら? やはり、フィリップ様が正しくて、言う通りにしておけばよかったのかしら)


「失礼」

 

 アルバート公爵令息がそこにはいた。

 手元を見ると、白い光沢のあるハンカチを私の方に差し出していた。


「涙が」


 頬を触ってみると、濡れていた。


 「すみません」

 

 ハンカチを受け取り、拭う。

 なぜだろう、嗚咽が止まらない。


 どれくらいそうしていただろうか。


 アルバート公爵令息様は、ずっと私を隠すように立ってくれていた。

 

 (やっと気持ちが落ち着いた)


 アルバート公爵令息様の方を見て、ハンカチを返そうとすると、苦笑いされた。


 「差し上げます」

 

 みると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。


 (確かに、こんな有様じゃね)

 

 私は自嘲げに笑うと、ハンカチを折りたたみ、胸元にしまった。

 前を向くと、アルバート公爵令息様が真剣な表情をしていた。


「あの夜は残念でした。あなたと踊りたかった」

「覚えてくださっていたのですか……?」

「はい」


 そう言ってアルバート公爵令息様は、ニッコリと笑った。


「今夜は、一曲踊ってくださりますか?」


 そして、アルバート公爵令息様が私に向かって手を差し伸べた。


 私は勇気を振り絞って言った。


「一曲、ぜひ」


 音楽が始まった。


 私はアルバート公爵令息様に向かって手を伸ばし、一歩踏み出した。


たくさんの作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございました。


最後まで読んでいただけたこと、とても嬉しいです。


少しでも心に残るものがあったり、何かを感じていただけたなら、

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