シフト表
冷蔵庫の扉に、母のシフト表が貼ってある。
マグネットで留められたA4の紙。スーパーの名前が印刷されたフォーマットに、裕子の几帳面な字でシフトが書き込まれている。赤は午前、青は午後、黒は休み。八月のカレンダーは赤と青で埋め尽くされていて、お盆のあたりだけ黒が三日続いている。
葵がそのシフト表をまじまじと見つめるようになったのは、あの夜——廊下を裸で往復した翌日からだった。
以前は素通りしていた紙切れだ。自分には関係のない情報だと思っていた。母がいつ出勤していつ帰るかなんて、食事の時間にだけ影響する事柄で、それ以上の意味はなかったはずだ。
今は、違う。
赤い字で「9-13」と書かれた火曜日。葵は日付を確認した。明日だ。
父は出勤。母は午前シフトで九時に家を出て、十三時に帰宅する。
弟の陸は——サッカー部の練習が八時から。帰宅は早くて十七時。
つまり。
九時十五分から十二時四十五分まで——約三時間半。
家に、葵ひとり。
その計算が頭の中で自動的に走ったことに、葵自身が驚いた。まるで電車の乗り換えを調べるみたいに、家族のスケジュールを組み合わせて「空白の時間」を割り出している。いつからこんな思考回路ができたのか。昨日の深夜、廊下を十六歩往復しただけで。
翌朝。
キッチンで朝食の支度をする裕子の後ろ姿を見ながら、葵はトーストをかじっていた。
「今日は午前でしょ?」
「そうよ。一時には帰るから、お昼は冷蔵庫の残り物で適当にやってね」
「うん」
父が出勤する。「行ってくる」「行ってらっしゃい」。玄関のドアが閉まる。
陸が階段を駆け下りてくる。サッカーバッグを肩にかけて、冷蔵庫からペットボトルの水を二本つかむ。
「姉ちゃん、今日なんかする?」
「別に。家にいる」
「暇人」
「うるさい。行ってらっしゃい」
陸が出ていく。残りは、葵と裕子の二人。
九時五分。裕子がエプロンを外し、鏡で髪を確認する。
「葵ちゃん、二時に歯医者の予約入れてあるからね。忘れないでよ」
「——は?」
「冷蔵庫のシフト表に書いといたでしょ」
葵はシフト表を見た。確かに赤ペンで「葵歯医者14時」と書いてある。母のスケジュールだけだと思っていた紙に、自分のスケジュールまで管理されていた。十八になっても歯医者の予約を母に入れられる人生。
「行ってきます」
玄関のドアが閉まる。
鍵の回る音。裕子のサンダルの足音が遠ざかっていく。門を出る音。道路に出る音。角を曲がって——聞こえなくなった。
家の中が、静まり返る。
冷蔵庫のモーター音。壁時計の秒針。窓の外の蝉しぐれ。生活音が消えたあとに残る、家の「地の音」だけが耳に届く。
九時十五分。
葵は立ち上がった。
キッチンからリビングに移動する。カーテンから朝日が射し込んでいる。テレビは消えている。ソファに父の読みかけの新聞が畳んで置いてある。
パジャマの裾をつかんだ。
深呼吸する。何をしようとしているのかは、わかっている。昨夜の延長だ。廊下の十六歩では足りなかったものの、続き。
パジャマを脱いだ。Tシャツを頭から抜く。ショートパンツを下ろす。下着を外す。
自室ではなく——リビングで。
裸になった身体に、カーテン越しの朝日が当たった。
昨夜の廊下とは、全てが違った。暗闇ではなく光の中。フローリングではなくカーペットの上。月明かりではなく朝の太陽。そして何より——立っている場所が、家族の共有空間だった。
ソファの前に立っている。裸で。父がさっきまで座っていたソファの前に。母が昨夜テレビを見ていた場所に。弟が大の字で寝転がっていた床の上に。
家族の気配が染みついた空間で、裸の自分がいる。その不一致が、肌をざわつかせた。
影が床に落ちている。カーテン越しの光が、身体の輪郭をぼんやりと床に投影している。肩の線。腰の曲線。
胸のふくらみが影にもはっきりと映っていて、自分の身体がこういうシルエットをしていたのかと、他人事のように眺めた。影の中の腰のくびれから臀部にかけての曲線が、思っていたよりもずっとはっきりしている。
自分の影を見て、裸であることを改めて確認する。
テレビのリモコンを取った。
別につけるつもりはなかった。ただ——裸のまま、日常の動作をしてみたかった。リモコンを手に取る。置く。そんな些細な動作が、裸でやるだけで別のテクスチャを持つ。
ソファに座った。
革張りのソファが、直接肌に触れる。服を着ているときは気にしたこともなかった表面の感触——少しひんやりして、でもすぐに体温で温まる革の質感が、太ももの裏から背中にかけてぴったりと貼りつく。
臀部が革の冷たさを全面で受け止める。服を着ていれば布一枚が緩衝材になるのに、裸だと座面の継ぎ目のステッチまで肌で感じる。立ち上がるとき、汗で張りついた臀部の皮膚がぺたりと音を立てて、思わず振り返ってソファを確認した。跡が——残っていないことを確かめて、息をつく。
「こんなことで、こんなにドキドキする理由がわからない」
独り言が出た。声にすると少し落ち着いた。自分がやっていることの滑稽さが際立つ。一人の家で裸になっているだけだ。犯罪でも何でもない。誰にも迷惑をかけていない。窓の外から見えているわけでもない。
なのに、心拍数が平常の倍くらいある。
キッチンに移動した。麦茶を入れようと思った。裸のまま。
冷蔵庫を開ける。冷気が、裸の身体の前面を直撃した。
鳥肌が一瞬で全身に広がった。腕、腹、胸、太もも。
腕の産毛が一斉に逆立つ。普段は寝ている細い毛が、冷気に反応して直立する。腹の表面にも同じ反応が走って、臍の周囲の薄いうぶ毛が全部立ち上がっているのが、見なくてもわかった。胸の表面が冷気で引き締まり、皮膚がきゅっと収縮する感覚。
冷蔵庫の冷気は容赦がない。服を着ていれば何でもないことが、裸だと全身で受け止めることになる。
麦茶のボトルを取り出す。グラスに注ぐ。飲む。冷たい液体が喉を通っていくのを、裸の身体がいつもより鮮明に感じ取っている。
グラスを持つ手が濡れていた。結露だ。冷たいグラスの表面に水滴がつく。手が滑って、グラスが傾いた。麦茶が腹にかかった。冷たい。反射的に飛び退く。が——拭くものがない。服を着ていない。
タオルを取りに行けばいいのだが、裸の腹を麦茶が伝い落ちていく速度のほうが早い。臍から下へ、太ももまで一筋の茶色い線。キッチンペーパーを掴んで拭いた。服を着ていれば布が吸ってくれるものを、裸だと自分の身体が容器になる。こぼした液体の行き先が全部、自分だった。




