第四話 彼女は、針を置かなかった
知らせが届いたのは、秋の終わりだった。
「ヴァルファ将軍、北方の激戦で行方不明。生存の確認が取れず、
戦死扱いとなる見込み」
テオドラは、その報せを受け取った時、台所に立っていた。
お湯を沸かしていた。
「……そう」
お湯が沸いた。
「……そう」
カップにお茶を注いだ。
飲まずに、食堂に持っていった。
テーブルの上には、途中まで編んだセーターがあった。
キリアンへのセーター。
先月から始めた、彼のための一着。サイズは彼の軍服から割り出した。
帰ってきた時に渡そうと思っていた。
テオドラはお茶のカップを置いて、椅子に座って、セーターを拾い上げた。
「……んもう」
声が、少し掠れた。
「仕方ないわね」
針を動かし始めた。
◆◇◆
一週間後、実家の両親が訪ねてきた。
それだけなら、まだよかった。
問題は、両親の後ろに見知らぬ中年男性が立っていたことだ。
「テオドラ、再婚の話がある」
母は開口一番、そう言った。玄関先ではなく、すでに食堂まで上がり込んでいる。
「こちらはガルツ男爵。財産もあり、地位もある。あなたにはもったいないくらいの
お相手よ」
テオドラは食堂で、セーターを編んでいた。
編みながら、言った。
「いいえ」
「テオドラ」
「夫のセーターを、まだ編み終えていないので」
「将軍は戦死扱いよ! あなたはまだ若い。ヴァルファ家への義理もない。
元はといえばお姉様の代わりだったんだから、もうここにいる義務はないわ」
「……義務の話ではありません」
テオドラは手を止めなかった。
長編みを三目。細編みを二目。引き抜き編みで留める。
「夫が帰ってきた時に渡すものがあります。それが終わるまで、私はここにいます」
「帰ってこなかったら?」
「その時は」針が、一瞬止まった。「考えます」
ガルツ男爵が咳払いをした。
「テオドラさん、気持ちはわかりますよ。しかし、現実的にお考えなさい。
若い女性が一人でいては、何かと不都合もある。私なら、きちんと守って——」
「あの」テオドラは顔を上げた。
穏やかな顔だった。
ただ、目が少しも笑っていなかった。
「男爵、突然のご訪問に驚いています。しかし私はまだ人の妻です。
どうかお引き取りください」
「テオドラ!」母の声が鋭くなった。「いい加減になさい! あなたはいつも
そうやって……手芸とパズルにばかり逃げ込んで、現実を見ない。
お姉様が替わりに縁談に出てくださらなければ、あなたなんて一生——」
「お姉様が替わりに?」
テオドラの針が、止まった。
「……それは逆ですよ、お母様」
静かな声だった。
「私が替わりに出たんです。あの式場に」
母が言い淀んだ。
「……それは、まあ、経緯はともかく——」
「経緯はともかく」テオドラは繰り返した。「私はキリアン・ヴァルファの妻です。
帰ってくるまで、ここにいます。——どうかお引き取りください」
父が「テオドラ、いい加減——」と口を開いた。
その瞬間。
玄関の扉が、激しく叩かれた。
◆◇◆
「テオドラ・ヴァルファ様! 北方方面軍のゼーリングと申します!
折り入って、お渡ししたいものが……」
玄関に駆けつけたテオドラが扉を開けると、埃まみれの軍服を着た男が立っていた。
三十代半ば、目の下に隈、しかし目だけは真剣な色をしている。
右手に封筒を持っていた。
「……あなたは」
「書簡検閲担当、ゼーリング少佐です。あなたの夫の手紙を、検閲していた者です」
後ろから母の声が飛んできた。
「テオドラ! 今は取り込み中よ!」
ゼーリングは背後の両親と、見知らぬ男爵を見た。
状況を瞬時に把握した。
軍人として、選択した。
「失礼」
彼は一歩前に出た。
「ハルト・ゼーリング少佐。北方方面軍所属。只今、将軍令夫人への
緊急伝達の任務中です」
背筋を伸ばし、胸を張り、軍人の顔で言った。
「軍務の妨害は、法に触れます。お引き取りを」
母が言葉に詰まった。
ガルツ男爵も、軍の制服に気圧されて後退した。
父が「し、しかし……」と言いかけ、ゼーリングの鋭い目に遭って黙った。
三分後、両親とガルツ男爵は玄関から出ていった。
テオドラは、ゼーリングを見た。
「……ありがとうございます」
「任務です」ゼーリングは言った。ただ、口元が少し緩んでいた。「それより、
これをお渡ししなければ」
封筒を差し出した。
「将軍の手紙です。届いていない手紙です」
「……届いていない?」
「将軍は、出征の翌日から、毎回二通の手紙を書いていました」
テオドラの手が、止まった。
「一通は、あなたに届いた手紙です。編み図。知恵の輪。タングラム」
「……はい」
「もう一通は」ゼーリングはそっと封筒を押し出した。「毎回、送るのを迷って、
結局送らなかった手紙です。私が保管していました」
静寂。
「……なぜ、今」
「将軍が」ゼーリングの声が、かすかに揺れた。「帰ってこないかもしれないなら、
あなたが読むべきだと思ったからです」
テオドラは封筒を受け取った。
手が、わずかに震えていた。
◆◇◆
封筒の中には、何通もの手紙が入っていた。
毎回の手紙に対応した「もう一通」。
テオドラは食堂のテーブルに座って、一通目を開いた。
テオドラへ
君が誰であれ、妻だと思って手紙を書く。
本当は、これを送るつもりだった。だが気づいたら陣形図を封筒に入れていた。
なぜそうなったのか、自分でもわからない。
君のことを、何も知らない。顔も、声も、何が好きかも、何が嫌いかも。
それでも、見送ってくれた君の後ろ姿が、ずっと頭から離れない。
戦場は寒い。
それだけが書きたかったことだ。あと、元気でいてくれ。
キリアン
テオドラは、次の手紙を開いた。
テオドラへ
君の返信が届いた。
「固定点を五点にして南側を厚めに」という言葉を、三十回読んだ。
それが陣形への指摘だと気づいた時、笑いそうになった。そして、怖くなった。
俺は戦争しか知らない。言葉で何かを伝えるのが、壊滅的に苦手だ。
君はパズルが好きだと聞いた。ならば俺が送れるものは、図面しかない。
君が真剣に解いてくれているとわかった。それだけで、十分だと思っている。
……嘘だ。十分ではない。もっと伝えたいことがある。だが書けない。
いつか、帰ったら。
キリアン
テオドラは、ゆっくりと全部の手紙を読んだ。
読み終えた頃には、窓の外が暗くなっていた。
「……んもう」
誰もいない食堂で、彼女は呟いた。
声が、少し震えていた。
「仕方ない人ね」
セーターを手に取った。
針を、動かし始めた。
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次話予告:
翌朝。玄関が、激しく叩かれる。
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