第一話 愛の手紙は、編み図だった
「んもう! 仕方ないわね!」
テオドラ・ヴァルファは、食堂の長テーブルに巨大な紙を広げながら、そう叫んだ。
紙の大きさはほぼ彼女の身長に匹敵する。縦横に走る無数の記号――×、○、↑、∧、そして謎の数字の羅列。
これが、夫からの最初の手紙だった。
手紙、と呼ぶにはあまりに無理があったが、テオドラはそう解釈することにした。
「……ええと」
紙の隅に、確かに夫の筆跡で一文だけ添えてある。
『君に送る。キリアン』
それだけだ。
愛してる、も、元気でいてくれ、も、食事はちゃんと取れているか、もない。
あるのは、縦五十センチ、横八十センチの、みっちりと書き込まれた――
「編み図……よね? これ、どう見ても編み図よね?」
テオドラは首を傾けた。傾けた。もう一度傾けた。
「鎖編みから始まって……細編み……長編み……あ、引き抜き編みもある。かなり複雑だけど、これ、ショールかしら? それともブランケット?」
腰に手を当て、唸る。
◆◇◆
テオドラ・ヴァルファ――旧姓テオドラ・メルクヴィスト。二十二歳。
実家では「手芸とパズルしか能がない娘」として、長年にわたり冷遇されてきた。
冷遇、という言葉では生ぬるいかもしれない。
たとえば、十四歳の冬。テオドラが半年かけて刺繍した壁掛けタペストリーがある。
朝早く起きて、夜遅くまで。姉の社交界デビューのドレスを仕立てる合間を縫って、
こっそり続けた趣味の作品だった。
完成した日、母が一言こう言った。
「あら、これをお義母様への贈り物に使えるわね。テオドラ、あなたが作ったとは
言わなくていいわよ。お姉様の名前で差し上げましょう」
テオドラは「んもう!」と言えなかった。
笑って「はい」と言った。
十六歳の秋には、姉のドレスの繊細なレース飾りを夜通し三日かけて仕立てた。
指が痛くて、目が霞んで、それでも丁寧に、丁寧に仕上げた。
姉は完成したドレスを着て舞踏会に行き、大絶賛を受けた。
帰宅した姉が言ったのは、「レースが少し歪んでたわよ。もっと上手くなってから
触って頂戴」の一言だった。
テオドラは「んもう!」と言えなかった。
笑って「次はもっと上手くします」と言った。
そうして二十二歳になった。
ようやく回ってきた縁談は「姉の替え玉」としての出席だった。
相手は英雄将軍キリアン・ヴァルファ。北方戦線で神話的な勝利を収め続ける男。
姉が「あんな辺境の戦争屋なんて御免だわ」と当日逃げ出したため、テオドラが
代わりに式場に立たされ、気づいたら結婚していた。
翌朝、夫は出征した。
「君が誰であれ、妻が留守を守ってくれると心強い」
それが夫の残した言葉で、テオドラは「んもう、失礼ね!」と思ったが、
その背中がひどく寂しそうだったので、黙って見送った。
そして二週間後。届いたのが、この編み図である。
◆◇◆
テオドラは紙の前に椅子を引いて座り直し、自室から道具箱を取ってきた。
中には毛糸、棒針、かぎ針、そして分厚いノート。
「……まあ、なんであれ編み図は編み図よ。解読してみましょう」
記号を一つ一つ確認していく。
×は細編み。○は鎖編み。↑は長編み。∧は引き抜き編み。
「あら、この記号は見たことないわね。独自表記かしら?」
紙の右下に、小さく凡例が書いてある。
〔■=固定点 ◆=移動点 ※鎖六目は必ず左回りで〕
「へえ、左回り限定なんだ。珍しいわね。理由があるのかしら」
ノートにメモしながら、テオドラは読み解きを続けた。
編み図は、中央に大きな固まりがあり、そこから三方向に枝が伸びている構造だった。
固定点(■)が要所を押さえ、移動点(◆)が複雑に絡み合う。
「……なんか、立体的な構造物ができそうね。普通のショールじゃないかも。
帽子? それとも立体的なバッグ?」
彼女は考え込んだ。
「でも、ここの引き抜き編みが変なのよね。普通ここは長編みにするはずなのに、
あえて引き抜きにしてある。糸の流れが逆になるけど……あ、そうか」
ぽん、と手を打つ。
「わざと圧縮するのね。伸ばすより固める。強度を出したいってこと」
ノートに書き込む。
→引き抜き編み=要所の固定・圧縮・強度強化。
ここを破られると全体が崩れる構造。
満足げに頷いて、テオドラは返信を書き始めた。
◆◇◆
【テオドラからキリアンへ・第一信】
キリアン様
お手紙ありがとうございます。編み図、拝見しました。なかなか複雑な構造
ですが、解読できましたよ!
一点だけアドバイスがあります。中央の固定点(■)ですが、周囲に移動点
(◆)を六点置くより、五点にして間隔を広げた方が安定します。六点だと
真ん中が詰まりすぎて、外から圧力をかけた時に内側から崩れやすいんです。
五点配置で、南側(紙の下方向)を少し厚めにするといいと思います。
それから、鎖六目の左回り指定、理由はわかりましたが、右回りと交互にした
方が捻じれへの耐性が上がりますよ。左だけだと一方向から引っ張られた時に
弱いです。
あと、この編み図で何を作る予定ですか? 完成したらぜひ見せてくださいね。
テオドラ・ヴァルファより
◆◇◆
この手紙が戦地に届く三日前。
軍の検閲室――薄暗い小部屋で、一人の将校が蝋燭の光の下、ペンを持ったまま
固まっていた。
検閲官 ハルト・ゼーリング少佐、三十四歳。
北方方面軍の書簡検閲を担当して六年。軍事機密の漏洩を防ぐため、全将兵の
私信を読み、不審な記述があれば抹消する、地味だが重要な役職だ。
彼が今手にしているのは、英雄将軍ヴァルファから本国の妻への手紙である。
ゼーリングは何度も読み返した。
何度読んでも、意味がわからなかった。
将軍の手紙には、愛の言葉もなければ近況報告もない。
あるのは――「鉄壁防衛陣形・北方第七改定版」と題された最高機密の陣形図だった。
「……将軍」
ゼーリングは蝋燭の炎を見つめながら、呟いた。
「なぜ、奥方に陣形図を?」
論理的な可能性は三つ。
一 将軍が間違えて送った(あり得る)
二 将軍の妻が実は凄腕の軍事参謀である(あり得ない)
三 暗号化の意図があるが将軍が誰にも言わなかった(大いにあり得る)
ゼーリングはこの手紙をどう処理すべきか二日間悩み、結局「まあ、編み図に
見えるし、奥方が何かに気づくとも思えないし」と判断して、そのまま通すことに
した。
これが彼の生涯最大の誤算であることを、この時点では知る由もない。
◆◇◆
そして届いた返信。
テオドラからの手紙を読んだ瞬間、ゼーリングは蝋燭を倒しかけた。
「……固定点を五点にして南側を厚めに?」
手が震えた。
「……鎖編みの左右交互で捻じれ耐性?」
立ち上がった。
椅子を引いて、机に向かって、軍の機密書類を取り出した。
「北方防衛陣形・参謀本部改善案 第七版」。
見比べた。
(一致……している)
参謀本部が三週間議論した改善案と、ほぼ完全に合致していた。
(南側強化案は「兵力的に無理」として却下された案だが……いや、待て。
この手紙には具体的な兵数への言及が一切ない。「少し厚めに」としか
書いていない。兵站も補給も考慮せず、純粋に「構造として弱い」と
指摘しただけだ……)
ゼーリングは机に額をつけた。
(この女性……何者だ? 魔女か? それとも、天才か?
いや……ただの、編み物好きか……!?)
論理と混乱が脳の中でぐるぐると回る。
軍人としての戦慄がある。この編み図の指摘通りに陣を動かせば、
本当に防衛線が強化される。一介の家庭婦人が、それを「編み目の改善」として
指摘してきた。
(もし……もしこの指摘が全部正しかったら。この女性は、
図面を渡すだけで戦争を終わらせられるのか?)
立ち上がれなかった。
五分後、ゼーリングは手紙の右下余白に小さく書き込んだ。
〔検閲官注:本書簡に不審な点はありません。
追記:将軍閣下、次回からは陣形図を「愛の手紙」として
送るのはおやめください。胃が痛いです〕
そして手紙を将軍に届けた。
◆◇◆
戦地の天幕。
手紙を読んだキリアン・ヴァルファ将軍は、三十二歳にして初めて、
自分が妻に一目惚れしていたのだと自覚した。
「……南側を厚く」
副官が覗き込む。
「将軍? 返事は?」
「送る」
「内容は?」
キリアンは少し考えた。
「知恵の輪の解き方を送る」
副官の顔が歪んだ。
「……将軍、奥様への手紙で、ですか?」
「ああ。最近、攻城戦で詰まっている」
副官は何も言わなかった。
ただ胃の辺りを、そっと押さえた。
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次話予告:
届いた次の手紙は「知恵の輪の模式図」一枚。
テオドラは「戦地で知恵の輪!? んもう、仕方ないわね!」と、
外輪と内輪の構造から解法を書き送る。
それが敵の要塞攻略法として採用され、キリアンは無傷で城を落とす。
検閲官ゼーリング、ついに胃薬を常備し始める。
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