第5話 日常の境界線①
久しぶりに光瑠と話してから数日が経った。もともとクラスの違う光瑠とはあの日以降話すタイミングはなく、異様に思えた光瑠の態度の理由もわからないままだった。
いや、もしかするとあれは陽作の勘違いか見間違いで、実際はなんということもないことなのかもしれない。実際、あの時以外で光瑠におかしいところはなかった。
重い段ボールを抱えて、指定された場所に運ぶ。2リットルのペットボトルのつまった段ボールは重い。一つ運ぶだけなら苦ではないが、それを何百と運ぶとなると、若く力のある陽作でも疲労が溜まってくる。
「ふぅ」
最後の一個を運び終え、作業着の袖で額の汗をぬぐう。授業のない週末、陽作は朝からこの物流倉庫でバイトをしていた。時計を見ると午後4時を示していた。いつもより仕事のペースが落ちている。考え事をしていたせいか。
「おーい、陽作坊! そっちが終わったんなら、こっちを手伝えや!」
「はい!」
バイト終わりまで残り1時間。さぼりなんてことをすれば、ここを紹介してくれた「師匠」に面目が立たない。
「早く来い! 仕事は待ってくれねぇぞ!」
「すぐ行きます!」
大きな声で返事をして、陽作はまだ新しい倉庫の床を蹴った。
*
「お疲れさん。ほい、おごってやるよ」
「ありがとうございます」
バイトが終わり、休憩室に入ると中には数人の男たちがソファやいすに座ってくつろいでいた。壁には作業員用のロッカーがずらりと並び、テレビは野球の中継が流れている。真っ白い印象の明るい部屋から漂ってくるのは、汗とたばこの香り。
「またこっそりたばこ吸ったでしょ。ジンさん」
「ほー、いったい何のことやら」
陽作は投げ渡されたスポーツドリンクを受け取りながら、それを渡してくれたジンに笑いかける。ジンは白髪まじりの顔をにやりとゆがませる。口から見えた歯は、ヤニで黄色くなっていた。
「胸ポケット。膨らんでますよ」
「おっと、いけねぇ」
ジンは胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、へへっと言いながらロッカーの中に放り込む。ついでにと、携帯灰皿も同じように投げ入れた。
「休憩室は禁煙ですよ。吸いたいなら喫煙所に行きましょうよ。せっかく新しい倉庫なんだから」
「倉庫が新しくなってから、いろいろ厳しくなっちまったよなぁ。前の倉庫はボロかった分吸い放題だったんだが」
「それも時代ってことでしょう」
それに多分、前の倉庫も吸い放題ではなかったはずだ。
陽作はもらったスポーツドリンクの蓋を開け、一気に喉に流し込む。労働で乾いた体に冷たい水分が駆け巡る。
「にしても陽作坊、何かあったか?」
「何かとは?」
「今日調子悪そうだったじゃねぇか。手ぇ、ちょこちょこ止まってたぞ。珍しい」
「すみません。考え事をしていて」
ほう、とジンの目がきらりと光る。
「お、恋、恋か! お前、この間彼女と別れたって言ってたよな! まさかもう新しい恋を見つけちまったのか! おいおい、手が早えな!」
「違いますよ! あと声が大きいです」
「なんだぁ、陽作坊、彼女さんと別れてたのか?」
「おらぁ、その話知らねぇぞ」
休憩室にいた作業員たちの視線が陽作に集中する。なんだ、なんだ。全部言えと、もれなく年齢が倍以上ある男たちに陽作はもみくちゃにされる。
「ジンさん!」
「おっと、つい口が滑っちまったな。たばこ吸ってたら、滑んなかったのになぁ」
陽作の抵抗もむなしく、押しの強い男たちに陽作は光瑠と別れた話をさせられた。
光瑠と一緒にいても何も感じられないということをぼかしたのは、せめてもの抵抗だ。
「――ま、若者にはよくあることだろ!」
陽作の話を聞いた男たちの結論は、おおむねそんなところだった。
「よくあるって……」
「俺だって、嫁さんと結婚する前は、いっぱい遊んだもんよ。そうだな、あれは確か20年前……」
「止めろ止めろ! この馬鹿、話し出すと止まんねぇぞ!」
作業員の一人がしみじみと語り出すのを見て、他の男たちがそちらにわらわらと動き出す。
嵐のような時間が過ぎ、ほっと一息ついたところで、ジンが隣に来た。
「実際、よくあることだろ。若者がくっついた、別れたなんてよ。陽作坊の周りでも、しょっちゅうじゃねぇのかい?」
「確かに、そうですけど」
情報通の祐介のおかげで、陽作は生徒たちの恋愛事情を知ってはいる。誰と誰が付き合った、別れた、やったらしい、なんてものは毎日情報が更新されるくらいだ。
「陽作坊なら、またいい女が見つかるさ。ここの仕事はきついからな、ボスが高校生のガキ連れてきたときは、ひと月持つのかと思ってたが、もう1年続いている。お前さんみたいな根性あるガキはそんなにいねぇよ」
「ありがとうございます」
ジンは茶目っ気こそあるが裏表のない性格だ。素直な誉め言葉に頭を下げる。
「町で悪さしてる馬鹿どもとは大違いだよ。入りがいいからって、何人かバイトできたことがあったが、1日2日で消えやがるやつらばっかりだった。あー、そういや、ああいう馬鹿ども最近減ったか?」
若者の失踪。行方不明事件。
光瑠のあのガラス玉のような目を思い出して、どきりとした。ジンはそんな様子に気付くことなく言葉を続ける。
「バイクぶん回す奴も減ったし、夜もちったぁ、静かになった。いいことだな!」
ジンはそう言って、がははと笑っていた。
*
バイト帰り、ATMに寄って記帳した通帳を夕日の差す公園で眺めていた。物流倉庫でのバイトは、土日と平日の夜に入れている。きつい分、収入はいい。
それでも口座に入っている金額は、決して満足いく額とは言えなかった。陽作はこのバイト代から、食費や学校の教材費、日用品にかかる費用をまかなっている。収支はプラス。しかし、高校卒業後、一人で生活することを考えるともう少し余裕がほしい。
意地を張っているのは、陽作自身わかっていた。けれど、陽作の自分自身への嫌悪感以上に、親に対する嫌悪感の方が強かった。
「ジンさんや師匠みたいな人が」
親だったらよかったのに。かろうじてその言葉は飲み込んだ。物流倉庫の先輩たちは粗雑だがみんな気のいい人たちだ。陽作自身に深入りしてくることはないから、話していて気が楽。
光瑠と別れたから、バイトの時間を増やせるだろうか。一瞬、そんなことを考えてまた自己嫌悪に陥る。
「そろそろ帰るか」
陽作がいるのはなんてことない普通の公園だ。シーソーやブランコ、砂場、名前のわからないドーム状の遊具があって、小さな子どもが走り回って遊べるスペースがある。
目新しいものはないし、遊具も古ぼけて塗装がはげかかっている。小学生低学年のころくらいまでよく遊んだこの場所が、陽作は不思議と気に入っていた。土日のバイト終わりや暇なときはよくこの場所に来て、ぼんやりと時間をつぶすことがあった。
公園を仕切る柵から腰を上げる。
ふと。
視界の端に、黒いものがよぎった。なんだろうかと、視線をそちらに向ける。
――夕日に照らされた長い黒髪。それが春の風に吹かれてきらきらと輝いている。
陽作はその少女に目を奪われていた。
入口にそっと立った彼女は、公園を眺めていた。幼さを残した顔は、夕日の下で頬をオレンジに染めている。
しかし、その唇はぎゅっと固く結ばれ、視線は冷たい氷のように鋭い。小柄でかわいらしい容姿と反するように、張り詰めた雰囲気を全身から発していた。
見覚えのない顔。そのはずだった。にもかかわらず、どこか懐かしいような、胸をかきむしりたくなるような思いを、陽作は感じていた。
ドクンと、心臓が一つ音を立てる。すでに散った桜の花びらがはらはらと落ちるように、陽作の胸の中に何かが落ちた。




