第26話 手のひらの上の幸福論②
『2年B組向井陽作、2年B組向井陽作。放課後に美術室まで来るように。繰り返す。2年B組向井陽作。放課後に美術室まで来るように。以上』
「……今の放送、ミコセン?」
「だよ、な」
しゃがれた低い声だった。陽作は祐介と顔を見合わせる。
「陽作、なんかミコセン怒らせるようなことした?」
「いや……」
首を振りかけて、止まる。
師匠の道場にいた御子柴。師匠が言っていた。御子柴はもともと高名な魔法使いの従者であったと。
「心当たり、あるかも」
「まじかよ。何やらかしたん?」
「やらかしたわけじゃないけど」
昼休みにわざわざ放送するくらいだ。しかも放課後に来いということは、長い話になるのかもしれない。
「とりあえず行ってみるよ」
「おー、死ぬなよ、陽作」
「祐介は御子柴先生をなんだと思ってるんだよ」
「聞きたい?」
「言わなくていい」
「ちぇっ」
食べ終わった弁当箱の風呂敷を包みながら、祐介が唇をとがらせた。
*
放課後、陽作は美術室を訪れていた。下校の挨拶のあと、すぐに来たから周囲に他の生徒の姿はない。
「失礼します」
「入れ」
ノックすると、すぐに返事があった。扉を開けると、電気のついていない薄暗い教室で一人、美術の授業のときと同じように黒板の前で絵をかいていた。御子柴は絵筆で教室の机を指さした。
そこには一枚の画用紙と、りんごが置かれていた。
「描け」
有無を言わせぬ調子で言う。模写をしろということだろうか。入口で戸惑う陽作を、御子柴は蛇のような目でにらみつける。
「早くしろ」
「わ、わかりました」
怖い。机に座り、鉛筆を手に取る。そしていつかの授業のように、模写を始めた。
「――できました」
「見せろ」
時間にして30分ほど。陽作は鉛筆を置いた。御子柴は机の上から画用紙を取り、ぎろぎろと陽作の描いた絵をにらみつけるように観察する。
「絵には、その人間の本質が現れる」
唐突に、御子柴は語り出した。
「雑な人間は雑な絵を描く、丁寧な人間は丁寧な絵を描くなどという話ではない。人間の表情から感情を読み取るのと同じだ。難しいことではない」
難しいことだと思う。
少なくとも陽作はそう思うし、御子柴と同じことを言っている人を見たことがない。
「なら、俺はつまらない人間ってことですか」
美術の授業で、陽作は御子柴からずっとそう言い続けられてきた。御子柴の言っていることが正しいのなら、そういうことなのだろう。
ふん、と御子柴は鼻を鳴らす。
「そうだ。お前の絵はつまらんし、お前もつまらん。欠けた人間の絵など、見る価値はない」
「欠けた人間……」
「だが」
御子柴は口の端をつり上げた。
「面白い絵を描くようになった。欠けた中身が埋まれば、こうも変わるものか」
そう言って、御子柴は陽作に絵を差し出す。
「〈断罪者〉から聞いた。お前は魔法使いの娘の従者になったそうだな」
「え、あの人本当にみんなから、その名前で呼ばれているんですか?」
「……あの莫迦者から聞いた」
言い直した。
「はい。俺はあきらの従者になりました」
「あきら……か」
御子柴は顔をしかめる。
「知っているんですか?」
「いや、知らん」
「俺を呼んだのは、俺が従者になったからですか?」
御子柴は浅くうなずく。
「そうだ。とはいえ、私はあの世界からすでに身を引いている。根掘り葉掘り聞くつもりはない。聞くのは一つだけだ」
御子柴は絵筆を置く。その仕草はとても丁寧で、優しかった。
「お前は一人の男として、その女のことを大切に思っているか?」
奇妙な言い回しだと思った。「従者と魔法使い」ではなく、「男と女」と御子柴は言った。
答えは、考えるまでもない。
「大切に思っています。彼女のそばにいて、そばで守ると約束しました」
「そうか」
「え」
陽作は絶句した。
いつも険しい顔しかしていない御子柴が、柔らかに微笑んでいた。芸術家然とした雰囲気が消え、孤独に孫を見守るようなさびしく、穏やかな顔に見えた。
変化は一瞬だった。御子柴はまたすぐに険しい顔になる。
「ならば従者として、その魔法使いを助けてやれ。……私にはできなかったことだからな」
「それは」
「語るつもりはない。話は以上だ。帰れ」
御子柴はそれっきり絵筆をとり、絵をまた描きだしてしまった。キャンバスの絵は、この前と同じ『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家をモチーフにしたものだ。
絵は陽作の目にはほとんど完成しているように見えた。
その絵を見て、陽作は思い出すことがあった。
「そうだ。一つ質問が」
「なんだ」
「以前、先生は上沼光瑠の絵を見て『分かった』とだけ言っていましたよね。あれは一体どういう意味だったんですか?」
御子柴が絵を見て、人の本質を見抜くというのなら。
欠けた人間である陽作の絵が「つまらない」のなら、「わかった」とだけ言われる光瑠はどんな人間なのだろうか。
光瑠の名前を聞いて、御子柴の筆が止まる。
「はぁ」
深い、重々しいため息を、御子柴はついた。
「知らんほうがいい」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。この世には、知らない方がいいことがたくさんある。それに」
御子柴は優し気な顔をした魔女の老婆に一筆入れる。
微笑むようだった老婆の笑みが、嗜虐的な笑みに変わった。
むごい顔で子どもたちを手招きする、老婆の絵。
「どうせすぐわかるだろう」




