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『透明な君と、彩度を失くした僕の青写真』  作者: 夜凪慶


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第2章 梅雨、滲む境界線:空白のキャンバス、窒息する指先

放課後の美術室は、独特の静けさに満ちていた。


本来なら美術部員がいるはずだが、今日は大会前の搬入とかで不在らしい。 牧村玲奈が美術教師に掛け合い、特別に鍵を借りてきたのだ。 「集中して仕上げなさい」という無言の圧力と共に。


僕はイーゼルに立てかけられた、巨大なベニヤ板の前に立っていた。


下地剤ジェッソで真っ白に塗られたその板は、まるで世界の一部を切り取った巨大な穴のようだった。


「……描けるの?」


背後から、遠慮がちな声がする。 一ノ瀬栞だ。 彼女は近くの椅子に座り、僕の背中を見つめている。


「描くしかありませんよ。牧村さんに殺されたくなければ」


軽口で返すが、僕の右手は鉛筆を握ったまま硬直していた。


描く。 その行為が、かつてどれほど僕をむしばんだか。 線一本引くたびに、自分の魂が削り取られていくような感覚。


「テーマは『アンティーク・カフェ』。レトロな喫茶店の扉と、そこから漏れる暖かい光……」


頭の中では構成ができている。 技術もある。手は動かし方を覚えている。 なのに、最初の一線を引こうとすると、指先が鉛のように重くなる。


吐き気がした。 油絵具の匂いが、過去の挫折の記憶を呼び覚ます。


(笑って描いていた、だって?)


ふざけるな。 絵を描くことは、僕にとって呪い以外の何物でもなかった。


「……篠宮くん」


沈黙に耐えかねたのか、一ノ瀬さんが立ち上がった。 彼女は僕の隣に並び、白い板を見上げる。


「無理は、しないでね。辛そうなら、私が玲奈に言うから」


「……平気です」


彼女の優しさが、今は逆に痛い。 僕は奥歯を噛み締め、衝動的に鉛筆を走らせた。


カリッ、という硬質な音。 白い板に、薄い灰色の線が引かれる。


一度線を引き始めれば、あとは惰性だった。 扉の輪郭、窓の配置、看板の文字。 まるで機械になったかのように、僕は淡々と下書きを進めていく。


「すごい……」


一ノ瀬さんが感嘆の息を漏らす。


「何も見ないで、迷わず描けるんだね」


「ただの手癖です」


嘘ではない。 そこに感情はない。 ただ、「それっぽく見える絵」を生産しているだけだ。


下書きを終え、パレットに絵具を出す。 筆に油を含ませ、色を混ぜ合わせる。


茶色バーントアンバーウルトラマリンを混ぜ、深い影の色を作る。 それを扉の影の部分に置いていく。


作業が進むにつれ、周囲の音が消えていった。 雨音も、一ノ瀬さんの呼吸音も遠のき、視野がキャンバスの枠内だけに収束していく。


もっと深く。もっと暗く。 光を描くためには、影が必要だ。 僕の内面にあるよどみを全て叩きつけるように、筆を動かす。


「――違う」


不意に、自分の口から言葉が漏れた。


筆が止まる。 目の前にあるのは、技術的には完璧な「レトロな扉」の絵だ。 だが、それは冷たく、拒絶的で、見る者を不安にさせる絵だった。


これではカフェの看板にはならない。 客を招き入れる絵ではなく、閉じ込める絵だ。


「……やっぱり、ダメだ」


僕は筆を置き、額に浮いた汗をぬぐった。 息が切れている。


「篠宮くん?」


「見ての通りです。僕が描くと、どうしても暗くなる。……これじゃあ、客足が遠のく」


自嘲気味に笑う。 やはり、僕はもう絵筆を持つべき人間ではないのだ。


一ノ瀬さんは、完成しかけの絵をじっと見つめていた。 そして、意外なことを言った。


「私は、好きだよ」


「え?」


「確かに少し寂しい感じはするけど……でも、この扉の向こうに何があるのか、覗いてみたくなる」


彼女は絵の中の、古びた扉の取っ手に触れるような仕草をした。


「ねえ、篠宮くん。ここに『光』を足せないかな?」


「光?」


「うん。この扉の隙間から、何かが漏れ出しているような。……例えば、あの海みたいな『青』とか」


カフェの扉から、海の青。 現実にはあり得ない組み合わせだ。 だが、彼女の提案は、びついた僕の思考回路に強烈な火花を散らせた。


暗い室内に差し込む、一筋の青い光。 それは『未完の青』の構図にも似ている。


「……やってみます」


衝動が、再び指先を突き動かす。 今度は「手癖」ではない。 彼女が見たいと言った景色を、この板の上に現出させたいという欲求。


パレットの上で、青を作る。 セルリアンブルーに白を混ぜ、少しだけ緑を加える。 あの廃墟で見た、空と海の境界の色。


息を止める。 筆先に神経を集中させ、扉の隙間にその色を乗せる。


スッ、と。 暗い画面の中に、鮮烈な青が走った。


その瞬間、絵が息を吹き返した。 重苦しかった扉が、まるで異世界への入り口かのように神秘的な光を帯びる。


「あ……」


一ノ瀬さんの瞳が揺れた。


「これ……」


彼女は両手で口元を覆い、後ずさる。 その反応は、明らかに「良い絵だから」という理由だけではなかった。


「……知ってる。この光景」


彼女の声が震える。


「あの人も、こうやって描いてた。暗い色の上に、最後に光を乗せて……魔法みたいに、世界を変えてた」


まただ。 また、彼女は「あの人」を見ている。


僕が今、必死の思いで絞り出した表現を、彼女は記憶の中の誰かと重ねている。


悔しさと、奇妙な安堵。 そして、拭いきれない嫉妬。


「一ノ瀬さん」


僕は筆を握りしめたまま、彼女に向き直った。


「その『あの人』っていうのは、本当に……」


言いかけた言葉は、チャイムの音によって遮られた。 完全下校時刻を告げるメロディ。


美術室の扉がガラリと開き、牧村玲奈が顔を出した。


「ちょっと、いつまでやってるの。もう先生が見回りに来るわよ」


現実に引き戻される。 僕は慌てて筆を洗油の瓶に突っ込んだ。


「……とりあえず、今日はここまでです」


未完成の看板。 けれど、そこに描かれた「青い光」だけが、薄暗い美術室の中で異様な存在感を放っていた。


「へえ、意外とやるじゃない」


牧村玲奈が絵を見て、少しだけ目を見開いた。


「ま、合格点はあげてもいいわね」


彼女なりの最上級の賛辞だ。 だが、僕の心は晴れなかった。


帰り道。 雨は小降りになっていたが、僕の右手には、筆の感触と、一ノ瀬さんの視線の熱が、刺青のように刻まれて消えなかった。


僕は今日、確かに描いた。 けれど、それは僕自身の絵だったのか、それとも彼女の記憶をなぞっただけの贋作がんさくだったのか。


答えはまだ、霧の中にある。

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