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『透明な君と、彩度を失くした僕の青写真』  作者: 夜凪慶


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第2章 梅雨、滲む境界線:雨音のノイズと、番犬の警告

翌日も、空は厚い雲に覆われていた。 昨日のペンキの一件以来、僕の右頬には見えない熱が残っている気がする。


「よお、英雄。背中の具合はどうだ?」


休み時間。 相沢陽介がニヤニヤしながら缶コーヒーを差し出してきた。


「……誰が英雄だ」 「一ノ瀬さんを身を挺して守った騎士様だろ? クラス中の噂だぜ。『あの篠宮が動いた』ってな」


陽介の言葉は大袈裟だが、確かに周囲の視線が痛い。 「図書委員の地味な奴」という僕のポジションが、昨日のアクシデントで微妙に揺らいでいる。


「うるさい。ただの事故処理だ」 「はいはい。照れ屋さんめ」


陽介は肩をすくめると、他の男子グループの輪に戻っていった。


僕は缶コーヒーのプルタブを開ける。 苦い液体を喉に流し込んでも、胸の奥によどんだモヤモヤは晴れなかった。


『あの人の顔にも、色がついてた』 『バカみたいに笑って……』


一ノ瀬栞の言葉が、呪いのようにリフレインする。


僕は絵を描いて笑ったことなんてない。 そのはずなのに、なぜ彼女の記憶と僕の事実は、こうも噛み合わないのか。


逃げるように教室を出た。 喧騒けんそうから離れたい一心で、渡り廊下の奥にある自販機コーナーへと向かう。


そこは人気が少なく、雨音がひときわ大きく響く場所だった。


ベンチに座り、ため息をつく。 その時だった。


「……逃亡?」


冷ややかな声が、雨音を切り裂いた。 ビクリとして顔を上げる。


そこには、腕を組んで柱に寄りかかる牧村玲奈の姿があった。


「牧村、さん」 「昨日の今日で、よく平然としてられるわね」


彼女はゆっくりと歩み寄り、僕の目の前で立ち止まった。 その瞳は、いつもの挑発的な色は消え、代わりに研ぎ澄まされた刃物のような光を宿していた。


「単刀直入に聞くわ」


彼女の声のトーンが落ちる。


「あんた、栞に何をした?」


「……何をしたって、事故で庇っただけだ」 「違う。その前の話。……ペンキがついた顔を見て、あの子がおかしくなった時のことよ」


牧村玲奈は鋭い。 昨日のあの一瞬の錯乱を、彼女は見逃していなかったのだ。


「栞はね、壊れかけてるの」


彼女は静かに告げた。 その言葉は、予想外に重く響いた。


「壊れかけてる?」


「あの子の記憶喪失は、ただ忘れてるだけじゃない。辛すぎる過去から心を守るために、脳が記憶をシャットアウトしてる……解離性の健忘よ」


解離性健忘。 その医学用語が、無機質な自販機の駆動音に混ざる。


「あの子が何を探しているのか、私は詳しくは知らない。でも、それが彼女にとってパンドラの箱だってことくらいは分かる」


玲奈が一歩、僕に近づく。


「最近、あの子は楽しそうにしてる。あんたと関わるようになってから、確かに表情が明るくなった。……でもね、同時に不安定にもなってる」


昨日の「夢」の話が脳裏をよぎる。 完成した絵が、黒く塗りつぶされる夢。


「篠宮湊。あんた、何を知ってるの?」


玲奈の視線が僕を射抜く。


「あの廃墟での反応。昨日のペンキへの反応。……あんた、もしかして『当事者』なの?」


喉が渇く。 彼女の推測は、的を射ているようでいて、核心から微妙にズレている。 僕自身ですら、自分が「当事者」なのかどうかが分からないのだから。


「……僕にも、分からないんだ」


僕は正直に答えた。 嘘をついても、この鋭い番犬には見透かされる気がしたからだ。


「彼女が探している絵について、心当たりはある。でも、彼女が語る画家の像と、僕の記憶は一致しない。……まるで、僕じゃない誰かの話をしてるみたいなんだ」


「……は?」


玲奈が怪訝けげんそうに眉を寄せる。


「どういうこと? あんたが描いたんじゃないの?」


「描いたのは僕だ。でも、僕は笑ってなんていなかった。……だから、僕も確かめたいんだ。このズレが何なのか」


一瞬の沈黙。 雨脚が強まり、屋根を叩く音が激しくなる。


玲奈は深く息を吐き出すと、組んでいた腕を解いた。


「……呆れた。あんたも大概、面倒くさい男ね」


彼女はポケットからスマホを取り出し、画面を見つめる。


「いいわ。とりあえず、あんたが悪意を持って栞を騙してるわけじゃないってことは信じてあげる」


「それはどうも」 「でも、条件がある」


彼女はスマホをポケットに戻し、僕を指差した。


「これ以上、栞を不安定にさせないで。もしあの子が決定的に壊れるようなことがあったら……その時は、私が全力であんたを潰す」


「……了解した」


「あと、もう一つ」


玲奈の表情が、少しだけ和らぐ。 それは初めて見せる、年相応の少女の顔だった。


「文化祭の準備、ちゃんとやりなさいよ。私の『アンティーク・カフェ』計画、失敗させたら承知しないから」


言うだけ言って、彼女はきびすを返した。 カツカツとローファーの音を響かせ、教室の方へと去っていく。


残された僕は、冷え切った缶コーヒーを握りしめたまま、その背中を見送った。


牧村玲奈。 彼女はただの口うるさい親友ではない。 栞の「過去」と「現在」の境界線に立ち、必死に彼女を繋ぎ止めているくさびなのだ。


ふと、自販機のガラスに映る自分の顔を見る。


『当事者』。 彼女はそう言った。


もし、栞の記憶が正しくて、僕の記憶が間違っているとしたら? 僕が「笑って絵を描いていた」時期が、本当にあったとしたら?


忘却しているのは、栞だけではないのかもしれない。


灰色の脳裏に、微かな亀裂が走る音がした。 梅雨の湿気が、その傷口をじわりと広げていくようだった。

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