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『透明な君と、彩度を失くした僕の青写真』  作者: 夜凪慶


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第2章 梅雨、滲む境界線:刷毛とシンナー、偽りのキャンバス

シンナーとペンキの混ざり合った刺激臭が、湿った教室の空気を侵食していた。


放課後の空き教室。 机は全て廊下に出され、床にはブルーシートが敷き詰められている。 僕たちの「アンティーク・カフェ」作戦本部は、さながら工事現場の様相を呈していた。


「おい相沢! そのベニヤ板、もっと右! バランス悪いわよ」


牧村玲奈の鋭い指示が飛ぶ。 彼女は腕まくりをしたジャージ姿で、現場監督のように仁王立ちしていた。


「へいへい、仰せの通りに。……っと、こんなもんか?」


陽介は軽口を叩きながらも、巨大なベニヤ板を軽々と持ち上げる。 普段のおちゃらけた態度とは裏腹に、こういう時の彼は無駄に頼りになる。 シャツの袖から覗く二の腕に筋肉が浮き出ているのを、牧村玲奈がちらりと見て、鼻を鳴らした。


「……ふん。無駄な筋肉かと思ってたけど、使い道くらいはあるみたいね」 「褒め言葉として受け取っとくわ。牧村ちゃんも、意外と指示が的確で助かるぜ」 「ちゃん付けすんな、殺すぞ」


殺伐としているようで、案外息が合っている。 あの二人は「動」の相性がいいのかもしれない。


僕はそんな二人を横目に、部屋の隅で黙々と作業を続けていた。


僕の担当は、カフェの内装に使う壁パネルの塗装だ。 手元には業務用の白いペンキと、調色用のいくつかの顔料。


(ただの作業だ。絵画じゃない)


心の中で呪文のように繰り返す。 これは表現ではない。 壁を保護し、色をつけるだけの単純労働。


そう割り切ろうとしているのに、僕の手は勝手に動いてしまう。


白に、微量の黒を混ぜて彩度を落とす。 そこにほんの少しの青と緑を加え、古びた洋館のような、深みのある「青緑」を作る。


比率を計算しているわけではない。 感覚が、勝手に「正解」を選び取ってしまうのだ。


「……綺麗な色」


不意に、背後から声がした。


ビクリと肩が震える。 振り返ると、一ノ瀬栞がしゃがみこんで、僕の手元のバケツを覗き込んでいた。


彼女もまた、スカートの下にジャージを履き、髪をポニーテールにまとめている。 その無防備なうなじに、ドキリとする。


「ただのペンキですよ。乾けばもっとくすんだ色になる」 「ううん、分かるの。これ、すごく……落ち着く色」


栞はバケツの中の液体を見つめたまま、夢見るように言った。


「深海みたい。それとも、夜明け前の空かな」


彼女の感性は、時々鋭すぎて心臓に悪い。 僕は逃げるように視線を逸らし、大きな刷毛はけを手に取った。


「塗りますよ。跳ねるから下がってて」 「私にも、手伝わせて」 「……汚れますよ」 「平気。私、こう見えて図工は好きだったの」


彼女は遠慮がちに、小さめのローラーを手に取った。 断る理由もない。 僕はため息をつき、パネルの端を指差した。


「じゃあ、この下の方をお願いします。ムラになってもいいから、一定のリズムで」


作業が始まる。


シュッ、シュッ、と刷毛が板を擦る音。 ローラーが回転する湿った音。 窓の外の雨音と混ざり合い、奇妙なアンサンブルを奏でる。


僕は無心で手を動かした。 手首のスナップ、塗料の粘度、板への食いつき。 身体が覚えている「塗る」という行為の快楽が、封印したはずの蓋を押し開けようとしてくる。


ふと、視線を感じて横を見る。


栞の手が止まっていた。


彼女は自分のローラーではなく、僕の手元を凝視している。 その瞳孔が、わずかに開いているように見えた。


「……篠宮くんの塗り方」 「え?」 「すごく、綺麗。……迷いがないのね」


彼女の声は、どこか遠い場所から響いているようだった。


「見てると、胸がざわざわするの。この手つき、この音。……どこかで」


彼女がふらりと身体を傾ける。 顔色が悪い。シンナーの匂いにあてられたのかもしれない。


「一ノ瀬さん、少し休憩しましょう。換気も悪いし」


僕が刷毛を置こうとした、その時だった。


「――危ない!」


陽介の声が響く。


見上げると、立てかけてあった別のベニヤ板が、バランスを崩してこちらへ倒れてくるところだった。


「っ!」


思考するより先に、身体が動いた。 僕は一ノ瀬さんの肩を抱き寄せ、自分の身体を盾にするようにして床に転がる。


ガシャン! と派手な音がして、ベニヤ板が床を叩いた。


土煙と、舞い上がるペンキの飛沫しぶき


「……っ、てて」


背中に鈍い衝撃を感じながら、僕は目を開けた。


腕の中には、一ノ瀬栞がいる。 彼女は驚いたように目を見開き、僕を見上げていた。


至近距離。 互いの呼吸がかかるほどの距離だ。


「大丈夫ですか?」 「あ、うん……ごめんなさい、篠宮くん、背中……」 「平気です。板が当たっただけだから」


身体を起こそうとして、気づく。


僕の頬に、冷たい感触があった。 一ノ瀬さんの指先だ。


彼女の指には、先ほど飛び散った青緑色のペンキが付着している。 それが僕の頬に触れ、一筋の線を引いていた。


「……あ」


一ノ瀬さんは、自分の指と、僕の頬についたペンキを交互に見た。 その瞬間、彼女の瞳に戦慄せんりつにも似た色が走る。


「……色」


「え?」


「あの人の顔にも、色がついてた」


彼女は僕を見ているようで、僕を見ていなかった。


「笑ってたの。頬に絵具をつけて、バカみたいに笑って……『最高傑作だ』って」


彼女の記憶の蓋が、物理的なショックでまた一つ開いたのか。 だが、その内容は僕の記憶とは決定的に矛盾している。


僕は絵を描いて笑ったことなどない。 いつだって苦しくて、自分を削るような作業だったはずだ。


「おい! 大丈夫か!?」


陽介と牧村玲奈が駆け寄ってくる足音で、魔法が解けるように一ノ瀬さんは我に返った。


「……あ、ご、ごめんなさい! 私……」


彼女は慌てて僕から離れる。 その顔は真っ赤に染まっていた。


「ったく、相沢! 固定が甘いのよ!」 「わりぃ! マジでごめん!」


騒がしい日常が戻ってくる。 けれど、僕の頬に残った冷たいペンキの感触だけが、消えずに残っていた。


「篠宮、顔拭けよ。汚れてるぞ」 「……ああ」


牧村玲奈に渡されたウェットティッシュで、頬を拭う。 白い不織布ふしょくふに、青緑色の染みが広がる。


それはまるで、僕たちの嘘と秘密が混ざり合った色のように、不気味に鮮やかだった。

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