第2章 梅雨、滲む境界線 :紫陽花の憂鬱と、六月の不協和音
節が、腐り落ちるような匂いを放ち始めた。
六月。 窓ガラスを叩く雨粒が、教室と外の世界との境界線を曖昧に溶かしていく。 湿度は不快指数を跳ね上げ、僕たちの思考を鈍らせるには十分すぎるほど重たい。
「……あー、カビ生えそう」
気だるげな声と共に、相沢陽介が僕の前の席にどかりと座り込んだ。 湿気で膨らんだ髪を鬱陶しそうにかき上げている。
「お前のその明るい脳内にも、カビが生える余地があったとはな」 「失礼な奴だな。俺だって繊細な時期なんだよ。……で、聞いたか? 例の話」
陽介が声を潜める。 窓の外では、紫陽花が雨に打たれて重そうに首を垂れていた。
「文化祭の実行委員の話なら、パスだ。僕は図書委員の仕事だけで手一杯だから」
先手を打って断る。 秋に開催される文化祭。その準備期間が、期末テスト明けから本格的に始まる。 クラスの誰かが貧乏くじ(実行委員)を引かなければならない時期だ。
「甘いな、湊。お前が逃げようとしても、運命の女神ってのは残酷なんだぜ」 「……なんだ、その不吉な言い方は」
「今回の文化祭、クラス単位じゃなくて『有志連合』での出し物が推奨されてるらしい。で、うちのクラスと、隣の2組が合同でカフェをやることになった」
2組。 その単語が出た瞬間、僕のページをめくる手が止まる。
「……2組って」 「そう。一ノ瀬さんと、あの牧村がいるクラスだ」
陽介はニヤリと笑った。
「で、だ。俺とお前、あっちのクラスの代表とで、今日放課後に顔合わせがある」 「待て。僕は立候補した覚えはないぞ」 「俺が推薦しといた。『篠宮は手先が器用だから内装担当に向いてる』ってな」
この男を殴る法的正当性が欲しい。 僕が睨みつけると、陽介は悪びれもせずに手を合わせるポーズをとった。
「頼むよ。俺一人じゃ牧村の相手は荷が重いんだ。あいつ、俺のこと目の敵にしてるし」 「自業自得だろ」 「それに、お前だって一ノ瀬さんと話す口実ができるだろ? あの海の日以来、なんかよそよそしいし」
痛いところを突かれた。
あの日。 廃墟での「記憶の齟齬」を確認して以来、一ノ瀬栞とは図書室で顔を合わせても、事務的な会話しかしていない。 避けているわけではないが、踏み込むきっかけを失っていたのだ。
「……分かった。行けばいいんだろ」
ため息と共に承諾する。 雨脚が強くなり、校庭の景色を白く塗りつぶしていった。
放課後の特別会議室。 雨音だけが支配するその空間に、奇妙な四人組が顔を揃えていた。
「……なんで、あんたたちがいるわけ」
開口一番、不機嫌を隠そうともせずに言ったのは牧村玲奈だった。 腕を組み、教室の隅で結界を張るように座っている。
その隣には、一ノ瀬栞。 彼女は僕と陽介を見ると、少し驚いたように目を丸くし、それから控えめに会釈をした。
「偶然だね、篠宮くん」 「……らしいですね。相沢に無理やり連れてこられました」
僕が答えると、彼女は困ったように微笑んだ。 その表情には、以前のような透明な壁は感じられない。けれど、どこか一枚、薄い膜越しのようにも見えた。
「はいはい、仲良く喧嘩しない! これからの数ヶ月、共に汗を流す同志なんだからさ!」
陽介が空気を読まない明るさで進行を始める。
「決定事項としては、1組と2組合同で『アンティーク・カフェ』をやる。場所は空き教室。で、俺たちがその内装とコンセプト決めのリーダーってわけ」
「内装……」
牧村玲奈が鼻を鳴らす。
「男子にセンスなんて期待してないけど。力仕事要員としてなら認めてあげる」 「厳しいなあ。ま、デザインとかは女子の意見を尊重するよ。な、湊」
陽介が話を振ってくる。 僕は手元の資料に目を落としたまま、淡々と答えた。
「ああ。僕は言われた通りにペンキを塗るなり、板を切るなりするだけだ」 「あら、篠宮くん」
不意に、玲奈が身を乗り出してきた。 その瞳が、探るような光を帯びている。
「あんた、絵が得意なんでしょ? 栞から聞いたわよ」
心臓が跳ねる。 隣を見ると、一ノ瀬さんが慌てて手を振っていた。
「ち、違うの! 図書室で、画集に詳しかったから、きっと詳しいのかなって……」
彼女は、僕が「絵をやめた」ことまでは話していないようだった。 あくまで、絵画に造詣が深い、というニュアンスか。
「……得意じゃないです。昔、少し齧った程度で」 「ふーん。まあいいわ。とりあえず、メインの看板用の大きな絵が必要なの。それ、あんたの担当ね」
玲奈が一方的に決定事項を下す。
「いや、それは」 「文句ある? 栞は衣装係、私は全体の統括。相沢は……まあ、雑用。適材適所でしょ」
反論の余地を与えない口調。 彼女は知っているのかもしれない。僕が「描くこと」に対して臆病になっていることを知った上で、試しているような節がある。
「……分かりました。描くかどうかは別として、構成は考えます」
逃げ道を残した回答でお茶を濁す。 窓の外では雷鳴が遠くで轟き、蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。
会議が終わり、解散の流れになる。 陽介と玲奈が資材置き場の確認に行くと言い出し(というより、陽介が玲奈を無理やり誘い出し)、教室には僕と一ノ瀬さんの二人が残された。
放課後の校舎独特の静けさ。 雨音が、二人を閉じ込める檻のように響く。
「……ごめんなさい」
沈黙を破ったのは、一ノ瀬さんだった。 彼女は自分の机の縁を指でなぞりながら、俯いている。
「玲奈、私が篠宮くんの話をしたから……変に期待させちゃって」
「気にしなくていいですよ。牧村さんの性格は理解してきましたから」 「……あと、その」
彼女は言葉を濁し、一度大きく息を吸った。 そして、顔を上げる。
ガラス玉のような瞳が、雨に濡れたような潤いを帯びて僕を映した。
「あの日から、夢を見るんです」
「夢?」
「はい。……海の、夢。誰かが泣いていて、私はそれを見ているの。でも、やっぱり顔は見えなくて」
彼女の声は震えていた。
「その人が描いている絵が、完成していく夢なんです。青い空と、海と。……でも、完成した瞬間に、その絵が真っ黒に塗りつぶされちゃうの」
黒く、塗りつぶされる。
僕の右手が、無意識にピクリと反応した。 それは僕が絵筆を折った日、最後にキャンバスへ叩きつけた衝動と同じだったからだ。
「……怖い夢ですね」
「怖くはないの。ただ、すごく……悲しくて、寂しい」
一ノ瀬さんは胸元をぎゅっと握りしめた。
「篠宮くん。……私、もっと知りたい。自分の記憶のことも、あの場所のことも。だから、文化祭の準備、一緒にできて嬉しいです」
彼女の言葉は、純粋な信頼に満ちていた。 それが今の僕には、ひどく重く、そして眩しい。
彼女が探している「記憶の中の画家」が僕ではない可能性。 あるいは、僕自身が封印している過去が、彼女の記憶と共鳴してしまっている可能性。
どちらにせよ、この雨が上がる頃には、何かが決定的に変わってしまう予感がした。
「……僕もです」
嘘ではない。 けれど、本心すべてでもない。
僕は窓ガラスに映る自分の顔を見た。 そこには、幽霊のように色のない少年が、曖昧な表情で立ち尽くしているだけだった。
「じゃあ、また明日。図書室で」
一ノ瀬さんは微かに微笑み、教室を出ていった。
一人残された教室。 黒板には『合同カフェ計画』という文字が、無機質なチョークの白で書かれている。
僕はそれを消す気にもなれず、ただ強く降り続く雨を眺め続けた。 僕たちの青写真は、まだ湿気ったまま、形を成せずにいる。




