第1章 灰色の春、静寂の図書室:侵入者と、夕暮れの逆光
「誰だ」
僕の声は、自分で思うよりも低く響いた。 咄嗟に一ノ瀬さんの前に立ち、彼女を背中で庇う。
廃墟の陰影。 崩れかけたコンクリートの柱の裏から、ジャリ、と砂利を踏む音がした。
現れたのは、不審者でも幽霊でもない。 もっと厄介で、もっと現実的な「脅威」だった。
「……やっぱり。あんたか」
スマホを構えたまま、その人物は忌々(いまいま)しげに舌打ちをした。 派手なウェーブのかかった髪。 睨みつけるような鋭い視線。
「玲奈……ちゃん?」
背後で、一ノ瀬さんが素っ頓狂な声を上げた。
牧村玲奈。 一ノ瀬栞の守護者にして、僕を目の敵にする番犬だ。 彼女はスマホを下ろすと、ズカズカとこちらへ歩み寄ってくる。
「『図書館で勉強』なんて嘘、私が気づかないとでも思った? 栞のGPS情報、共有してるの忘れたわけ?」
「あ……」
一ノ瀬さんがバツの悪そうな顔をする。 過保護だとは思っていたが、GPSまで共有しているとは。この番犬、セキュリティ意識が高すぎる。
牧村玲奈は僕の目の前で立ち止まると、値踏みするように廃墟を見渡し、そして僕を指差した。
「で? 連れ込んで何するつもりだったのよ。こんな人気のない廃墟に」
「人聞きが悪いな。ただの散歩だ」 「散歩で廃墟に来る高校生がいるか。あんた、見た目によらずマニアックな趣味してんのね」
彼女の言葉には棘があるが、その瞳の奥には純粋な安堵の色も見えた。 本当に心配して、ここまで追いかけてきたのだろう。
「ごめんね、玲奈。私が無理を言って、連れてきてもらったの」
一ノ瀬さんが僕の横から顔を出し、申し訳なさそうに言う。
「篠宮くんは悪くないの。……どうしても、ここに来たくて」
「栞が?」
牧村玲奈の表情が曇る。 彼女はちらりと僕を見てから、大きくため息をついた。
「……はぁ。まあ、いいわ。栞が無事なら」
彼女はポケットからハンカチを取り出し、埃っぽいベンチ(かつて作業員が使っていたのだろう)を拭うと、強引に一ノ瀬さんを座らせた。
「でも、これ以上は長居無用。日が暮れる前に帰るよ」 「うん……そうだね」
一ノ瀬さんは素直に頷いた。 だが、その視線はまだ、目の前の海と空の境界線に釘付けになっていた。
その時だった。
「っ……!」
一ノ瀬さんが、不意にこめかみを押さえて呻いた。 持っていた白いカーディガンが、地面に滑り落ちる。
「一ノ瀬さん!?」 「栞!?」
僕と牧村玲奈の声が重なる。 一ノ瀬さんは苦しげに呼吸を荒げ、青ざめた顔で虚空を見つめていた。
「……思い出した、の?」
僕が問いかけると、彼女は弱々しく首を振った。 けれど、その瞳は焦点が定まらず、今ここにはない「何か」を見ているようだった。
「……青い、絵具」
彼女の唇が震える。
「匂いがするの。油絵具の匂いと……誰かの、背中」
「背中?」
「泣いてる……その人は、泣きながら、海を塗ってる……」
ドクリ、と僕の心臓が嫌な音を立てた。
泣きながら、海を塗る。 それは僕の記憶にはない光景だ。 僕はあの絵を描いた時、泣いてなどいなかった。ただ、世界への絶望と諦めを塗り固めていただけだ。
だとしたら、彼女が見ている記憶は、僕のことではないのか? それとも、僕自身が忘れている感情なのか?
「おい、しっかりしてよ! 栞!」
牧村玲奈が彼女の背中をさする。 数秒後、一ノ瀬さんはふっと力を抜き、我に返ったように瞬きをした。
「……あ、れ? 私……」
「立ちくらみだよ。きっと疲れが出たんだ」
僕は咄嗟にそう断定した。 これ以上、牧村玲奈の前で「核心」に触れるのは危険だと判断したからだ。
「……そう、かも。ごめんね、二人とも」
一ノ瀬さんは気丈に笑おうとしたが、その表情は先ほどまでの明るさを失っていた。
「帰ろう。送っていく」
僕は落ちていたカーディガンを拾い上げ、埃を払って彼女に渡した。
牧村玲奈は、僕と一ノ瀬さんを交互に見比べ、何かを言いたげに口を開き――そして、閉じた。 彼女の鋭い勘が、何かの違和感を嗅ぎ取ったのかもしれない。
帰りのバスの車内は、行きとは打って変わって重苦しい沈黙に包まれていた。
一ノ瀬さんは牧村玲奈の肩にもたれて眠っている。 牧村玲奈は窓の外を睨みつけ、僕は一番前の席で、スマホの黒い画面を見つめていた。
『未完の青』。 そして、彼女が口にした「泣きながら海を塗る誰か」。
パズルのピースが噛み合ったようで、決定的な何かがズレている。 その違和感が、僕の胸に刺さった小骨のように取れない。
バスが駅前に到着する。 夕闇が街を覆い始めていた。
「……篠宮」
別れ際、一ノ瀬さんを支えながら、牧村玲奈が低い声で僕を呼んだ。
「あんたが何を知ってるのか、あるいは何も知らないのか。今は聞かないでおく」
彼女の視線は、これまでになく真剣だった。
「でも、栞を傷つけるような真似をしたら、許さないから。……あの子が『何』を抱えているか、あんたには想像もつかないでしょうけど」
言い捨てて、彼女はタクシー乗り場へと歩いていった。 遠ざかる二人の背中。
僕は一人、駅前の雑踏に取り残された。
想像もつかない、か。 確かにそうかもしれない。
けれど、僕もまた、彼女たちが想像もつかないような「青」を抱えている。
僕は自分の右手を強く握りしめた。 爪が掌に食い込む痛みが、唯一の現実だった。
ポケットの中のスマホが震える。 相沢陽介からのメッセージだ。
『カラオケどうだった? まさか一ノ瀬さんと密会とかしてないよな?(笑)』
僕は画面をタップし、短い返信を打った。
『ただの散歩だ。……長い、散歩だったけどな』
送信ボタンを押すと同時に、駅前の街灯が一斉に灯る。 人工的な光が、僕の影を濃く、長く地面に焼き付けた。
第1章・完




