第1章 灰色の春、静寂の図書室:喧騒の周波数、あるいは番犬の憂鬱
翌日。 教室の窓から見える空は、憎らしいほどに晴れ渡っていた。
僕の憂鬱などお構いなしに、世界は平常運転を続けている。 昨日の図書室での出来事は、まるで白昼夢だったのではないかと疑いたくなるほどだ。
「おい湊、聞いてんのかよ」
耳元で騒がしい声がした。 視線を教科書から上げると、相沢陽介が机に身を乗り出している。 彼の手には、購買で争奪戦の末に勝ち取ったであろう焼きそばパンが握られていた。
「聞いてない。焼きそばの匂いがうるさい」 「匂いがうるさいってなんだよ。情緒も何もねえな」
陽介は豪快にパンにかぶりつく。 彼の単純明快な生き方は、時々眩しく、時々無性に羨ましくなる。
「それより聞いたか? 2組の一ノ瀬さんの話」 「……一ノ瀬?」
心臓が、とくんと跳ねる。 僕はあくまで平静を装って聞き返した。
「そう、一ノ瀬栞。また男子からの告白を断ったらしいぜ。しかも『今は探しているものがあるので』って謎の理由で」
陽介は面白おかしく噂話をする。 校内でも有名な美少女である彼女には、常にこうした噂が付き纏う。 「高嶺の花」や「深窓の令嬢」といったレッテル。
だが、昨日の彼女が見せた、あの切迫した表情。 あれは、そんな綺麗な言葉で飾れるようなものではなかった。
「ふーん。相変わらず情報通だな」 「まあな。お前も興味あんだろ? あ、そうだ。昼休み、中庭行こうぜ。天気がいいから女子も多いし」
陽介の強引な誘いを断る気力もなく、僕はため息交じりに立ち上がった。
中庭は、生徒たちの活気で満ち溢れていた。 ベンチに座って談笑するグループ、芝生で寝転がる運動部の連中。 色彩の洪水に、僕は少しだけ目を細める。
「お、いたいた。噂をすればなんとやら、だ」
陽介が小声で囁き、顎をしゃくった。
視線の先。 大きな欅の木の下にあるベンチに、二人の女子生徒が座っていた。
一人は、一ノ瀬栞。 文庫本を膝に広げ、周囲の喧騒から身を守るように俯いている。
そしてその隣には、彼女を守るように鋭い視線を周囲に配る少女がいた。 少しウェーブのかかった派手な髪に、短めのスカート。 一見するとギャル風だが、その瞳には理知的な光が宿っている。
牧村玲奈。 一ノ瀬栞の幼馴染であり、親友。 そして何より――。
「うげ、牧村かよ……。あいつ、俺のこと目の敵にしてんだよな」
陽介が露骨に嫌そうな顔をする。
「お前が軽薄そうに見えるからだろ」 「ひでえ言い草! ちょっと挨拶してくるわ」
止める間もなく、陽介は特攻隊長のように二人へ近づいていった。 仕方なく、僕もその後ろについていく。
「よう、一ノ瀬さん、牧村さん。いい天気だねえ」
陽介が声をかけると、牧村玲奈がゆっくりと顔を上げた。 その瞬間、中庭の気温が二度ほど下がった気がした。
「……何、相沢。あんたの軽薄な声が聞こえると、せっかくの昼休みが台無しなんだけど」
「挨拶くらいさせてくれよ。あ、これ購買の新作パンなんだけどさ、よかったら」 「いらない。餌付けなら他でやって」
取り付く島もないとはこのことだ。 牧村玲奈は、一ノ瀬栞に近づく「有象無象の男子」を徹底的に排除することで有名だった。 まさに、忠実な番犬だ。
栞は、そんな親友の様子に苦笑しながらも、ふとこちらに視線を向けた。
ガラス玉のような瞳が、僕を捉える。 昨日の夕暮れ時、図書室で交差した視線。
「あ……」
彼女の唇が小さく動いた。 牧村玲奈がそれに気づき、怪訝そうに眉を寄せる。
「何、栞。もしかして、この冴えないのと知り合い?」
「冴えない」と指さされたのは、もちろん僕だ。 否定する言葉も見つからないので、僕は黙って立ち尽くす。
「……ううん、知り合いっていうか」
栞は少し迷うように視線を彷徨わせてから、静かに言った。
「昨日、図書室で。……親切にしてくれたの」
「へえ?」
玲奈の視線が、値踏みするように僕を射抜く。 敵意まではいかないが、警戒心は解かれていない。
「篠宮、です。図書委員の」 「ふーん。篠宮くん、ね。私は牧村。こっちは見ての通り、人付き合いが苦手な栞」
玲奈は腕を組み、挑発的に笑った。
「変な下心で近づいたら、私が噛みつくから。そのつもりで」
「……善処します」
僕が答えると、横で陽介が「お前、なんでそんな冷静なんだよ」と呆れた声を上げた。
会話はそれで途切れた。 チャイムが鳴り、昼休みが終わる。
僕たちがその場を離れようとした時、背後から微かな声が届いた。
「あの、篠宮くん」
振り返ると、栞が真っ直ぐに僕を見ていた。 風が彼女の髪を揺らし、木漏れ日がその表情に影を落とす。
「昨日の本、のことなんですけど……」
周囲の生徒たちの話し声が、遠のいていく錯覚。 彼女は意を決したように、言葉を紡いだ。
「もしよかったら、放課後、少しだけ話を聞いてもらえませんか?」
「えっ」
驚きの声を上げたのは、僕ではなく玲奈だった。 「ちょっと栞、どういう風の吹き回し!?」という抗議の声が聞こえる。
僕は一瞬だけ沈黙し、それから小さく頷いた。
「……カウンターにいますから」
それだけ伝えて、僕は歩き出す。 陽介が興奮気味に肩を叩いてくるが、その感触すらどこか現実味がなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あの画集『未完の青』。 彼女が探している「場所」。
かつて絵を描いていた僕には、心当たりがあったのだ。 それを伝えるべきか、まだ迷っていたけれど。
モノクロームだった日常の歯車が、ギシリと音を立てて回り始めた。 予感は確信へと変わりつつある。
僕は、彼女の「青」に関わることになるのだと。




