最終章 夏、キャンバスの向こう側:青写真の露光、世界は彩度を取り戻す
時計の針が、午前四時を回った。 窓の外が白み始め、夜の群青と朝の薄紅が混ざり合う「魔法の時間」が訪れる。
美術室には、オイルの匂いと、心地よい疲労感が漂っていた。
「……できた」
一ノ瀬栞が、ふぅ、と長く息を吐き出して筆を置いた。 その横顔は、徹夜明けだというのに、内側から発光しているように清々(すがすが)しかった。
僕たちの目の前には、一枚の絵がある。
以前描いた『閉ざされた扉』の絵。 その上から、僕たちは新しい色を重ねた。
扉は大きく開け放たれている。 その向こう側に広がるのは、あの廃墟から見た海でも、過去の記憶にある海でもない。 僕たちが今、この瞬間に作り出した「新しい青」の世界だ。
セルリアンブルーの透明感。 ウルトラマリンの深み。 そこに、夜明けの光を表すレモンイエローを微かに混ぜる。
それは、悲しみも後悔も全て飲み込んで、それでも明るく輝く「始まりの色」だった。
「……綺麗」
栞が呟く。
「5年前の絵より、ずっと」
「ああ。……一人じゃ描けなかった」
僕は自分の手を見つめる。 指先には、青い絵具がこびりついている。 それはもう、僕を縛る汚れではなく、勲章のように誇らしく思えた。
「ねえ、篠宮くん」
栞が絵から視線を外し、僕に向き直った。 逆光の中で、彼女の輪郭が朝日に溶け込んでいる。
「私、透明だったの」
「え?」
「自分が誰なのか、何をしたいのか分からなくて。……ハルトくんの記憶だけが私を繋ぎ止めていて、それ以外は空っぽだった」
彼女はそっと、僕の頬に手を伸ばす。 冷たくて、優しい掌。
「でも、今は色が分かる。……篠宮くんが、私に色をくれたから」
「……逆だよ」
僕は彼女の手を包み込むように握り返した。
「彩度を失くしていたのは僕の方だ。君がいたから、僕はまた世界を見ることができたんだ」
言葉にすると、少し気恥ずかしい。 けれど、これは飾らない真実だ。
「これ、タイトルはどうする?」
栞が絵を指差す。 僕は少し考えて、以前から温めていた言葉を口にした。
「『青写真』」
「青写真?」
「ああ。未来の設計図だ。……これは過去の清算じゃなくて、これからの僕たちが進むための地図だから」
栞は目を丸くし、それから花が綻ぶように笑った。
「素敵。……うん、それがいい」
朝日が完全に昇る。 光の粒子が教室を満たし、完成した『青写真』を祝福するように照らし出した。 その輝きは、もはや「未完」ではなかった。
数日後。 駅のホームには、乾いた夏の風が吹き抜けていた。
発車のベルが鳴る。 別れの時は、あっけなく訪れた。
「じゃあ、行くね」
一ノ瀬栞は、白いワンピースの裾を翻し、僕たちに向かって微笑んだ。 その笑顔に、陰りはない。
「元気でね、栞! 毎日連絡しなさいよ! 変な男が寄ってきたら即ブロックね!」
牧村玲奈が、涙ぐむのを必死に堪えながら叫ぶ。 さすがの番犬も、今日ばかりはただの寂しがり屋の親友だ。
「うん、分かってる。玲奈もね」 「おい一ノ瀬さん! 向こうでも元気でな! 俺たちの『アンティーク・カフェ』は大成功だったって自慢していいぞ!」
相沢陽介が大きく手を振る。 彼なりの精一杯のエールだ。
そして、僕。
「……篠宮くん」
栞の視線が、僕に止まる。 言葉はいらなかった。 僕は鞄から、一冊の新しいスケッチブックを取り出した。
あの黒く塗りつぶされたものではない。 真っ白な、新品のスケッチブックだ。
「これ」
手渡す。 栞はそれを受け取り、表紙を撫でた。
「……描くね。向こうの景色」 「ああ。僕も描くよ。こっちの景色を」
「そして、いつか」
「見せ合おう。……お互いの『青』を」
約束。 5年前のような、破られるための約束ではない。 未来へ続く、確かな誓い。
プシュー、とドアが閉まる音がした。 ガラス越しに、栞が何かを言ったのが見えた。
音は聞こえない。 けれど、僕にははっきりと分かった。
『またね、ハルトくん』
電車が動き出す。 滑り落ちていく車体。 窓の向こうで、彼女が小さくなるまで手を振り続けていた。
僕は電車が見えなくなるまで、その場を動かなかった。 不思議と、涙は出なかった。
胸にあるのは喪失感ではない。 遠く離れていても、同じ空の下で、同じ色を追い求めているという信頼感だけだった。
「……行っちまったな」
陽介が、鼻をすする音を誤魔化すように言った。 玲奈は背を向け、ハンカチで乱暴に目元を拭っている。
「帰ろうぜ、湊。……夏休みは、まだ残ってる」 「ああ」
僕は空を見上げた。 突き抜けるような夏空。 その青さは、僕たちが描いたあの絵と、どこまでも繋がっている気がした。
エピローグ:秋、キャンバスの向こう側
二学期。 美術室には、新しい風が吹いていた。
「篠宮先輩! ここの色使い、どうすればいいですか?」
新入部員の声に、僕は筆を止めて振り返る。 図書委員と兼任で、僕は美術部にも顔を出すようになっていた。
「そこは、もう少し白を混ぜて……空気遠近法を意識して」
アドバイスを送り、再び自分のキャンバスに向かう。 描きかけの風景画。 この街の、ありふれた交差点の絵だ。
けれど、そこにある色は、以前の僕には描けなかった色彩に満ちている。 アスファルトの照り返し。 街路樹の緑。 信号機の赤。
世界は、こんなにも彩度が高かったのだ。
ポケットの中で、スマホが震える。 メッセージの着信音。 画面を開くと、一枚の写真が届いていた。
海辺の街の、夕暮れの写真。 添えられたメッセージは短い。
『今日の青色は、少しオレンジが混ざってました。そっちはどう?』
僕は思わず口元を緩めた。 すぐに返信を打つ。 僕が今描いている絵の写真を添付して。
『こっちは、秋晴れの青だ。……いつか、この空の下で会おう』
送信完了。 画面の向こうの彼女と、今の僕。 離れていても、僕たちのキャンバスは繋がっている。
あの日の『青写真』を、現実のものにするために。
僕はスマホを置き、再び筆を握った。 迷いのない手つきで、キャンバスに一筋の「光」を描き加える。
そこにはもう、透明な絶望も、塗りつぶされた過去もない。 あるのは、限りなく広がる、僕たちの未来の色だけだった。
全編完




