最終章 夏、キャンバスの向こう側 :番犬の涙と、放課後の鍵
一ノ瀬家の前で、僕たちは夕闇に包まれていた。 空には一番星。 隣にいる栞の横顔は、涙の跡が乾き、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……これから、どうする?」
僕が尋ねると、栞は迷いなく答えた。
「描きたい。……あの続きを」
彼女の瞳に宿る光は、かつて図書室で見た「渇き」とは違う。 もっと力強く、確かな意志の光だった。
「私の記憶の中にある『未完の青』は、悲しい色で終わってる。……だから、篠宮くんと二人で、新しい『青』で上書きしたいの」
「分かった」
僕は頷く。 道具ならある。 場所も、心当たりがある。 最高の絵を描くための舞台は、やはりあそこしかない。
「ただ、問題が一つある」 「玲奈、だよね?」
栞が苦笑する。 そう、あのアマゾネスのごとき守護者だ。 彼女の許可なくして、僕たちが穏やかに絵を描くことなど不可能に近い。それに、美術室の鍵を管理しているのも彼女だ(なぜか先生より権限を持っている)。
「僕が話すよ。……逃げずに、全部」
「ううん」
栞は僕の手をぎゅっと握った。
「私も話す。……私が玲奈に甘えて、守られるだけじゃダメだから」
彼女の手の温もりが、僕に勇気をくれる。 僕たちはスマホを取り出し、あえて「学校の昇降口」に彼女を呼び出した。
夜の学校は、昼間とは別世界の顔を持つ。 静まり返った校舎。 警備員の巡回時間を避け、裏口の影で僕たちは彼女を待った。
ザッ、ザッ、ザッ。 正確なリズムで、足音が近づいてくる。
現れた牧村玲奈は、私服のTシャツにデニムというラフな格好だったが、その纏う空気は武装した兵士のように張り詰めていた。
「……よくもまあ、のこのこと」
彼女は僕を見ると、氷点下の視線を投げつけた。
「二度と会うなと言ったはずよ。私の日本語、難しかった?」 「玲奈、違うの」
栞が前に出る。
「私が呼んだの。篠宮くんに、会いたかったから」
「栞……」
玲奈の眉がピクリと動く。 彼女はため息をつき、呆れたように頭をかいた。
「あんたねえ。自分が何をされたか、思い出したんでしょ? こいつはあんたの右手を焼いて、心を壊した男よ。ストックホルム症候群もいい加減にして」
「違う」
僕が口を開く。
「僕は彼女を傷つけるつもりじゃなかった。……いや、傷つけるつもりだったけど、それは嫌われるためだったんだ」
「は?」
僕は、一ノ瀬家の前で栞に話した真実を、玲奈にも伝えた。 両親の離婚。 二度と会えなくなる絶望。 彼女に忘れられるくらいなら、憎まれて別れようとした、幼すぎたピエロの演技。
話し終えると、重苦しい沈黙が流れた。 蝉の声さえ遠慮するような静けさ。
玲奈は腕を組み、長いこと地面を睨みつけていたが、やがて顔を上げた。
「……バカなの?」
第一声は、心底呆れ果てた罵倒だった。
「あんたたち、揃いも揃って大バカ者よ。……そんな安いドラマみたいなすれ違いで、5年も棒に振ったわけ?」
「……返す言葉もない」 「栞も栞よ。そんな男の茶番に気づきもせず、勝手にトラウマになって」
玲奈の言葉は辛辣だ。 けれど、その声のトーンから、先ほどまでの殺意は消えていた。
彼女は僕に歩み寄ると、右手を差し出した。 握手か? と思って手を出そうとした瞬間。
「痛っ!」
デコピンだった。 それも、脳が揺れるほどのフルスイングの。
「いっ……!?」 「これは5年分の利子。……ったく、やってらんないわ」
玲奈は大きく息を吐き出すと、ポケットからジャラリと金属音をさせた。 美術室の鍵だ。
「転校まで、あと5日しかないわよ」 「え?」 「描くんでしょ? その顔見てれば分かるわ」
彼女は鍵を放り投げた。 僕は慌ててそれを空中でキャッチする。
「玲奈……いいの?」 「ダメって言ってもやるでしょ、どうせ。……それに」
玲奈は少しだけ視線を逸らし、月を見上げた。
「……私も、見たかったのよ。あんたが『ハルト』の話をする時、本当に幸せそうな顔をするから。……その絵が完成したら、どんな顔をするのか」
彼女の声が、ほんの少し震えているように聞こえた。 この5年間、誰よりも栞を心配し、守ってきたのは彼女だ。 その役目が今、終わろうとしている寂しさ。
「ありがとう、玲奈ちゃん!」
栞が玲奈に抱きつく。 玲奈は「暑苦しい」と文句を言いながらも、その背中を優しく叩いていた。
「篠宮。条件が一つあるわ」
玲奈が僕を睨む。
「最高傑作にしなさい。……もし栞が納得しない出来だったら、その時は私がこの手であんたを埋める」
「……善処するよ」 「善処じゃなくて約束!」
「約束だ」
僕は鍵を握りしめた。 冷たい金属の感触が、熱い決意へと変わる。
「行こう、美術室へ」
真夜中の美術室。 カーテンを閉め切り、照明をつける。 昼間の熱気が嘘のように、冷房の効いた室内は静謐な空気に満ちていた。
イーゼルには、あの文化祭の看板が立てかけられている。 『未完の青い扉』。
僕たちはジャージに着替え、その前に立った。
「ねえ、篠宮くん」 「ん?」 「私、もう筆を持っても手が震えないかな」
栞が自分の右手を見つめる。 火傷の痕。 トラウマの記憶。
僕は無言で、自分のパレットナイフを彼女に手渡した。 そして、自分の筆を持つ。
「震えたら、僕が支える。……5年前みたいに、僕が君の手になる」
「……うん」
彼女はナイフを握りしめた。 震えはない。 僕が隣にいることが、何よりの安定剤になっているようだった。
「さあ、始めよう。僕たちの『青』を取り戻すんだ」
僕が筆を動かす。 栞がナイフで絵具を乗せる。
5年間の空白を埋めるように。 止まっていた時計の針を進めるように。
真夜中の校舎に、筆が走る音と、二人の呼吸音だけが響く。 それは、世界で一番静かで、世界で一番熱い、共犯者たちの夜明け前だった。




