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『透明な君と、彩度を失くした僕の青写真』  作者: 夜凪慶


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第3章 夏、青写真の露光:西日の懺悔室、泣き顔のピエロ

一ノ瀬栞の家は、閑静な住宅街の一角にあった。 古いけれど手入れの行き届いた一軒家。 しかし、その玄関先には、引っ越し業者の段ボールが積み上げられていた。


『転校』という言葉が、現実味を帯びて僕の眼球を刺す。


僕は門柱の影に立ち、荒い呼吸を整えた。 汗が目に入って痛い。 インターホンを押す指が震える。


何と言えばいい? 「思い出した」と告げるのか? 「僕が犯人だ」と謝るのか? それとも、「なぜ僕は笑っていたのか」と被害者に尋ねるつもりか?


どの言葉も傲慢ごうまんで、身勝手だ。 けれど、引き返す道はもう、炎に巻かれたあの日と同じく消失している。


覚悟を決めて、指先に力を込めようとした時。


ガチャリ、と玄関のドアが開いた。


「……あ」


出てきたのは、一ノ瀬栞だった。 白いワンピース姿。手には小さな如雨露じょうろを持っている。 彼女は門柱の影にいる僕に気づくと、如雨露を取り落とした。


ガシャン、とプラスチックが地面を叩く音が、静寂に響く。


「……篠宮、くん?」


彼女の声はかすれていた。 頬は痩せこけ、目の下にはくまがある。 牧村玲奈が言っていた通り、彼女は限界を迎えていた。


「どうして……ここに。玲奈に言われたんじゃ」 「言われたよ。二度と会うな、って」


僕は門柱から歩み出る。 西日が僕たちの影を長く、黒く伸ばしていた。


「でも、確認しなきゃいけないことがあった」


僕は一歩、また一歩と距離を詰める。 彼女は逃げようとはしなかった。ただ、怯えた小動物のように震えている。


「一ノ瀬さん。……ううん、栞ちゃん」


その呼び名を出した瞬間、彼女の肩が大きく跳ねた。


「僕は、思い出した。……僕の本当の名前は、春日湊だ」


彼女の瞳が見開かれる。 呼吸が早くなる。


「ハルトくん……なの?」


「ああ。君の絵を壊し、君の手を傷つけ、君の記憶を奪った……最低の幼馴染だ」


僕は頭を下げなかった。 謝罪よりも先に、伝えなければならないことがあったからだ。


「ごめん。僕はずっと忘れていた。自分を守るために、記憶を都合よく書き換えていたんだ」


「……ううん」


予想外の言葉だった。 彼女は首を横に振った。


「私も……気づかないふりをしてた」


「え?」


「文化祭のポスターを見た時、分かっちゃったの。篠宮くんがハルトくんだって。……でも、怖かった」


彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「だって、ハルトくんは……あの日、笑ってたから。私の大事な絵を燃やして、すごく楽しそうに笑ってたから……。篠宮くんが、本当はそんな怖い人だったらどうしようって」


彼女の恐怖はもっともだ。 僕だって怖い。自分がサイコパスだったのかもしれないという可能性が。


「教えてくれ」


僕は声を絞り出した。


「僕は、どうして笑っていたんだ? 僕には、その理由だけがどうしても思い出せないんだ」


「……」


栞は唇を噛み締め、視線を足元に落とした。 長い沈黙。 遠くで夕焼けのチャイムが鳴り響く。


「……泣いていたの」


彼女が、ポツリと言った。


「え?」


「ハルトくんは、笑ってたんじゃない。……泣きながら、無理やり笑おうとしてたの」


彼女が顔を上げ、僕を見つめる。 その瞳の奥に、5年前の記憶が鮮明に浮かび上がっているようだった。


「あの日、ハルトくんは言ったの。『引っ越すことになった』って。『もう絵は描けない』って」


記憶のフラッシュバック。 頭痛が走る。


そうだ。 あの日、両親の離婚が決まった。僕は母に引き取られ、遠くの街へ行くことになった。 父は僕の絵を嫌っていた。「男のくせに軟弱だ」と。絵道具は全て捨てろと命じられた。


『約束だよ、ハルトくん。ずっと一緒に描こうね』


栞との約束。 それが守れないと知った時、幼い僕はどうした?


「君は……泣いていた」


僕の口から、記憶が言葉となって溢れ出す。


「僕が引っ越すと聞いて、君は大泣きした。『嫌だ、行かないで』って。……君の泣き顔を見るのが、辛かった」


だから僕は、壊したんだ。


僕たちが繋がっていた証である「絵」が存在するから、別れが辛くなる。 希望があるから、絶望する。 なら、いっそ僕の手で全てを灰にしてしまえばいい。 僕を「酷い奴」だと思わせて、嫌われればいい。


「僕は……君に嫌われるために、絵を燃やしたんだ」


そして、笑った。 泣きじゃくる君の前で、精一杯の強がりで。 『こんな絵、なんの価値もないよ』と、ピエロのように顔を歪めて。


「……そうだよ」


栞が泣きながら頷く。


「ハルトくんは言ったの。『こんなゴミ、燃やしてせいせいする』って。……でも、その顔は、今にも死んでしまいそうで……」


彼女は一歩踏み出し、僕の胸にすがり付いた。 小さな拳が、僕のシャツを掴む。


「ごめんなさい……私、忘れてた。ハルトくんが、私を慰めようとしてくれてたこと。……自分の心を殺して、私を突き放そうとしてたこと」


彼女の体温が伝わる。 5年越しの真実。 僕は狂っていたわけでも、残酷だったわけでもない。 ただ、幼すぎて、不器用すぎて、自分と彼女を守る方法を間違えただけだったのだ。


「馬鹿だなぁ、僕は」


涙が、止まらなかった。 ずっと空いていた心の穴。そこに、熱くて痛い何かが満ちていく。


僕は彼女の背中に手を回し、おそるおそる抱きしめ返した。


「ごめん。……本当に、ごめん」


「ううん……戻ってきてくれて、ありがとう」


西日が僕たちを包み込む。 積み上げられた段ボールの山。 引っ越しは止められないかもしれない。 過去の傷跡も消えないかもしれない。


けれど、僕たちの間にあった「歪んだ恐怖」だけは、今この瞬間、夕陽の中に溶けて消えていった。


「……篠宮くん」


腕の中で、栞が顔を上げた。 涙に濡れた笑顔。


「私、まだ間に合うかな」


「え?」


「あの絵の続き。……まだ、青を描けるかな」


彼女の右手が、僕の胸元にあるポケット――スケッチブックが入っている場所――に触れる。


僕は大きく頷いた。


「描けるよ。……僕たちが、一緒に描くなら」


答えは出た。 逃げるのは終わりだ。 転校までの残りわずかな時間。 僕たちは、5年前に灰にした「青」を、もう一度この世界に取り戻さなければならない。


それが、僕たちの物語の、本当のエンディングを迎えるための条件だ。

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