第3章 夏、青写真の露光:陽炎の検問、焦げ付いた記憶
バスを降りた瞬間、暴力的な熱気が全身を殴りつけた。
アスファルトが焼ける匂い。 鼓膜を劈く蝉時雨。 視界の端で揺らめく陽炎が、現実感を希薄にさせる。
僕は汗だくになりながら、獣道を登っていた。 一度来た道だ。足取りは迷わない。 けれど、5月には心地よい隠れ家だったこの道も、今は湿度と虫の羽音に満ちた不快な密林でしかない。
息が切れる。 喉が渇く。 それでも足を止めなかったのは、背中の鞄に入ったスケッチブックが、熱を帯びて僕を急かしている気がしたからだ。
十数分後。 視界が開け、コンクリートの残骸が姿を現した。
旧配水場跡地。 夏の日差しを遮るものはなく、廃墟は白く乾ききっていた。 あの時、一ノ瀬栞が見ていた「鮮烈な青」も、今の僕には目を焼くほど眩しいだけの光の暴力だ。
「……はぁ、はぁ」
僕は崩れかけた壁の日陰に滑り込み、肩で息をした。 ペットボトルの水を煽る。 ぬるい液体が喉を通っていく。
落ち着け。 ここに来て、何をするつもりだ。
僕は震える手で鞄からスケッチブックを取り出した。 黒く塗りつぶされた最後のページを開く。
この場所で、僕は描いたはずだ。 5年前。小学生の夏。 『境界の青』というタイトルの絵を。
目を閉じる。 波の音と、蝉の声。 意識を過去へと潜らせる。
『ねえ、ハルトくん』
幻聴が聞こえる。 鈴を転がしたような少女の声。
『すごいね、魔法使いみたい』 『僕の絵は魔法なんかじゃない。……ただの、逃げ場所だよ』
そうだ。僕は話していた。 誰かと。 ここで、二人きりで。
『約束して。いつか、私にもその描き方を教えてくれるって』 『いいよ。約束だ』
指切りげんまん。 細く、白い指。
そして――。
『――嘘つき』
声が変わる。 可愛らしい少女の声が、悲鳴と絶望に染まる。
『どうして壊すの!? やめて、お願い、やめてぇ!!』
赤。 青い海が、赤い炎に飲まれていく。 熱い。熱い。 焦げ臭い匂い。油絵具が燃える、独特の異臭。
「う、ぁ……っ!」
激しい頭痛に襲われ、僕はスケッチブックを取り落とした。 地面に落ちた黒いページが、太陽の光を吸い込んで揺らめく。
火だ。 僕は絵を塗りつぶしただけじゃない。 燃やしたんだ。 そして、その炎が彼女を――。
「……やっぱり、思い出しちゃった?」
冷徹な声が、熱気を切り裂いた。
弾かれたように顔を上げる。 逆光の中、日傘を差した人影が立っていた。
牧村玲奈。 彼女は幽霊のように音もなく現れ、僕を見下ろしていた。 その表情は、軽蔑と、諦めと、そして微かな哀れみに満ちている。
「牧村、さん……」 「来るとしたらここだと思った。あの看板を捨てられないような優柔不断なあんたのことだもの」
彼女は日傘をたたみ、廃墟の瓦礫に腰を下ろした。 汗一つかいていない涼しげな様子が、かえって異様さを際立たせている。
「……教えてくれ」
僕は乾いた唇を動かした。 もう、誤魔化す余裕なんてない。
「一ノ瀬さんの腕の傷。……あれは、火傷痕か?」 「そうよ」
玲奈は短く肯定した。
「5年前の夏。ある廃墟で火事があった。ボヤ騒ぎで済んだけど、そこにいた少女は右手に火傷を負い、そのショックで心因性の健忘を起こした」
彼女の視線が、僕の足元のスケッチブックに落ちる。
「現場には、油絵具とキャンバスの燃えカスが残っていたそうよ」
「……僕が、やったのか」
「警察の記録では『子供の火遊び』として処理されてる。犯人は特定されなかった。……でも、栞の深層心理には刻まれてる」
玲奈が立ち上がり、僕に歩み寄る。
「笑いながら絵を燃やす少年。『ハルト』という名前。……それが、あんたね?」
「ハルトなんて名前じゃない! 僕は篠宮湊だ!」
「本当に?」
玲奈の一言が、僕の叫びを封じた。
「あんた、親が離婚してるでしょ」
心臓が止まるかと思った。 なぜ、それを。
「陽介から聞いたわ。あんたが小学生の頃に名字が変わってるって」
そうだ。 篠宮は、母方の姓だ。 父の姓は――。
『春翔』。 いや、違う。それは名前じゃない。 父の姓は『春日』だ。
春日湊。 カスガ、ミナト。
当時のあだ名は――?
『ハルくん』 『ハルトくん』
記憶の蓋が、無理やりこじ開けられる。 そうだ。僕はあの子にそう呼ばれていた。 『春日のミナトくん』が混ざって、『ハルトくん』。 子供特有の、曖昧な呼び名。
「……ああ」
膝から力が抜ける。 地面に手をつく。 熱いはずのアスファルトが、氷のように冷たく感じた。
僕だ。 僕がハルトだ。 僕が、彼女の右手を焼き、記憶を奪い、心を壊した張本人だ。
「思い出したみたいね」
玲奈が僕の目の前でしゃがみ込む。
「栞はね、あんたのことが大好きだったのよ。……そして、あんたに裏切られたことで、全てを失った」
彼女の手が伸びてくる。 僕の頬を打つのかと思った。 けれど、彼女は僕の胸ぐらを掴み、静かに、けれど強く引き寄せた。
「だから言ったでしょ。あんたは劇薬だって」
至近距離。 彼女の瞳が、怒りを超えた悲痛な色で揺れている。
「栞は転校する。来週にはここを離れるわ」 「……」 「もう二度と会わないで。これがあんたにできる、唯一の償いよ」
彼女は僕を突き放すと、立ち上がった。 日傘を広げ、背を向ける。
「スケッチブック、燃やしてしまいなさい。今度こそ、跡形もなく」
彼女の足音が遠ざかる。 僕は呼び止めることも、反論することもできなかった。
蝉時雨が、嘲笑うように降り注ぐ。 太陽が、僕の罪を白日の下に炙り出す。
僕は震える手で、スケッチブックを拾い上げた。 黒く塗りつぶされたページ。 その下には、かつて僕たちが共有した「青」が眠っている。 そして、それを燃やした「赤」の記憶も。
なぜ、僕は絵を燃やしたんだ? あんなに大切だった絵を。 あんなに大切だった、あの子との約束を。 なぜ、笑いながら?
一番肝心な「動機」だけが、ぽっかりと抜け落ちている。
「……償い、か」
僕はふらりと立ち上がった。 視界が暗転しかけるほどの眩暈。
転校まで、あと一週間。 逃げるのか。 それとも、地獄の底まで潜って、最後のピースを探しに行くのか。
僕の足は、家とは逆方向――つまり、一ノ瀬栞の家がある方角へと、重たい一歩を踏み出していた。




