表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『透明な君と、彩度を失くした僕の青写真』  作者: 夜凪慶


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/17

第3章 夏、青写真の露光 :蝉時雨のホワイトノイズ、アスファルトの陽炎

夏休みが始まった。 それは僕にとって、解放ではなく、無限に続く執行猶予の始まりだった。


カーテンを閉め切った自室。 エアコンの駆動音だけが、ブーンと低くうなっている。 設定温度は24度。肌寒いくらいなのに、身体の奥底に巣食う熱だけが引かない。


机の引き出しは、あの日以来一度も開けていない。 その中に眠る「黒く塗りつぶされたスケッチブック」の存在が、鉛のように部屋の空気を歪めていた。


『ハルト』 『ミナト』 『僕が壊した』


思考がループする。 僕は一ノ瀬栞の過去を暴こうとしていたが、本当に暴かれるべき罪人は僕自身だったのだ。 彼女の記憶にある「笑って絵を壊す少年」。 それが僕なら、牧村玲奈が言う通り、僕は彼女にとって劇薬でしかない。


「……一生、ここから出たくない」


布団に包まり、天井を見上げる。 スマホの電源は切っていた。 外部との接触を絶ち、情報を遮断する。 それが、僕にできる唯一の贖罪しょくざいであり、逃避だった。


ピンポーン。


不意に、インターホンが鳴った。 無視する。 両親は仕事で不在だ。セールスか宅配便だろう。


ピンポーン、ピンポーン。 執拗しつように鳴り響く。 やがて、ドンドンとドアを叩く音が混じり始めた。


「おい湊! いるのは分かってんだぞ! エアコンの室外機が回ってんだからな!」


相沢陽介の声だ。 相変わらず、無駄に観察眼が鋭い。


僕はため息をつき、のろのろと起き上がった。 このまま無視し続ければ、彼は窓ガラスを割ってでも侵入してきそうだ。


玄関の鍵を開ける。 熱波と共に、汗だくの陽介が転がり込んできた。


「……何の用だ」 「何の用だ、じゃねえよ! お前、終業式もサボりやがって。生きてるか確認しに来たんだよ」


陽介は靴を脱ぎ捨てると、勝手知ったる他人の家のようにリビングへ上がり込み、冷蔵庫から麦茶を取り出した。


「生きちゃいるよ。……死んだ方がマシな気分だけどな」 「はいはい、うつモード乙。ほら、これ」


陽介は持っていた大きな包みを、僕の方へ突き出した。 ブルーシートで雑に梱包された、長方形の板状のもの。


嫌な予感がした。


「……何だ、それ」 「文化祭の看板だよ。捨てろって言われたけど、無理だった」


梱包が解かれる。 そこには、あの『青い扉の絵』があった。 薄暗い玄関の中で、その青色だけが不気味なほど鮮やかに発光しているように見えた。


「……捨てろと言ったはずだ」 「傑作なんだよ、これ。美術準備室に隠しといたんだけど、先生に見つかって『持ち帰れ』って言われてさ」


陽介は真顔になって、僕を見据えた。


「なあ、湊。お前と牧村、そして一ノ瀬さんの間に何があったか、俺は知らねえよ」 「なら――」 「でもな、これ描いた時のお前、すげえ良い顔してたぜ」


言葉が詰まる。


「苦しそうだったけど、楽しそうでもあった。……俺は、お前がまた絵を描いてくれて嬉しかったんだよ」


陽介の言葉は、単純で、だからこそ重かった。 彼は僕が絵をやめた理由を知らない。 それでも、幼馴染として、僕が「何か」を取り戻しかけていたことを感じ取っていたのだ。


「……余計なお世話だ」 「そう言うなって。で、本題だ」


陽介は麦茶を一気に飲み干すと、声を潜めた。


「一ノ瀬さんのことだ」


心臓が跳ねる。 聞きたくない。聞いてはいけない。


「……興味ない」 「嘘つけ。あの日以来、一ノ瀬さん学校来てねえぞ。補習も、部活の当番も全部休んでる」


陽介の表情が曇る。


「牧村に聞いたんだ。『栞は体調不良で療養中だ』って一点張りで、会わせてくれない。……でも、噂じゃ『転校』の手続きをしてるって話だ」


「転校……?」


「ああ。夏休み明けには、元の田舎に帰るんじゃないかって」


頭を殴られたような衝撃だった。 元の場所。 それはつまり、あのトラウマの根源である場所へ戻るということか? 精神が不安定な今の彼女が、そんな場所に戻って耐えられるのか?


「牧村の奴、必死すぎて怖いくらいだ。『栞を守るためなら何でもする』って感じだよ。……なあ湊、お前マジで心当たりねえのか?」


陽介が僕の肩を掴む。


「お前が動かないと、このまま二度と会えなくなるぞ」


「……僕には、資格がない」


僕は陽介の手を振り払った。


「彼女を壊したのは、多分……僕なんだ」


「は?」


「だから、牧村さんが正しい。僕が関われば、彼女はもっと傷つく。……転校するなら、それが一番いいんだ」


それは本心であり、諦めだった。 僕が近づけば、彼女の手首の傷がうずく。 彼女の記憶の蓋が開き、黒いクレヨンで塗りつぶされた絶望が溢れ出す。


陽介はしばらく僕を睨みつけていたが、やがて大きく舌打ちをした。


「……薄情な野郎だな、お前は」


彼は看板を壁に立てかけ、出口へと向かう。


「俺は諦めねえからな。一ノ瀬さんがこのまま消えるなんて、納得いかねえ。……その絵、置いとくぞ。邪魔ならお前が自分で捨てろ」


バタン、と乱暴にドアが閉まる音。 再び、静寂が戻ってきた。


残されたのは、僕と、青い絵だけ。


『自分デ、捨テロ』


陽介の言葉がリフレインする。


僕はふらりと看板に近づいた。 指先で、絵の中の扉に触れる。 一ノ瀬栞が「光を足して」と言った場所。 彼女と僕が、唯一繋がった場所。


「……捨てられるわけ、ないだろ」


膝から崩れ落ちる。 フローリングの冷たさが、頬に伝わる。


蝉時雨せみしぐれが聞こえる。 ジジジジジ、と耳障りなノイズが、窓の外の世界の暑さを伝えてくる。


転校。 彼女がいなくなる。 僕の過去の答えを持ったまま。 僕の罪の証拠を持ったまま。


逃げたい。忘れたい。 でも、この絵の「青」が、僕を放してくれない。


僕は立ち上がり、引き出しの鍵を開けた。 黒く塗りつぶされたスケッチブックを取り出す。


向き合わなければならない。 5年前、僕が何をしたのか。 なぜ「ハルト」と呼ばれたのか。 そして、なぜ彼女の記憶と僕の記憶が、こうも残酷に噛み合ってしまったのか。


僕はスケッチブックとスマホを鞄に放り込んだ。 部屋を出る。 熱気が、ムワッと全身にまとわりつく。


行くべき場所は一つだ。 全ての始まりであり、終わりの場所。


あの海辺の廃墟へ。 そこで記憶を辿り直す。 たとえそこに、どんな地獄が待っていたとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ