第2章 梅雨、滲む境界線:塗りつぶされた青、梅雨明けのサイレン
「……これ、どういうこと」
牧村玲奈の声が、踊り場の空気を凍らせた。 彼女の視線は、僕ではなく、壁のポスターに向けられている。 色褪せた紙面に記された『篠宮 湊』の文字。
「5年前の金賞……。あんた、ただの『絵が上手い素人』じゃなかったの?」
「……昔の話だ。小学生の頃の、まぐれ当たりだよ」
僕は掠れた声で答えた。 喉が張り付く。この場を切り抜けたい一心で、防衛本能が嘘を吐かせる。
「まぐれで全国金賞が取れるわけないでしょ!」
玲奈が声を荒らげる。 その剣幕に、一ノ瀬さんが僕の腕にしがみついたまま怯えたように身を縮めた。
「玲奈、やめて……篠宮くんを責めないで……」 「栞、あんたが一番分かってない! こいつは危険因子なのよ!」
玲奈は一ノ瀬さんの腕を強引に引き剥がし、自分の背中に隠した。 まるで汚染物質から守るような手つき。
「5年前……栞が記憶を失くして、転校してきた時期と重なる」
玲奈の瞳が、探偵のように鋭く僕を解剖する。
「『ハルト』と『ミナト』。……もしあんたが、栞の過去に関わる人間だとしたら。私はあんたを絶対に許さない」
「……どうしてだ」
僕の中で、抑え込んでいた何かが切れた。
「どうしてそこまで僕を敵視する? もし僕が彼女の幼馴染だとして、それが何だと言うんだ。記憶を取り戻すことが、そんなに悪いことなのか?」
「悪いことよ!」
玲奈の叫びが、階段ホールに反響した。
「栞がなんで記憶を封印したと思ってるの? 思い出したくないからよ! 思い出したら、あの子の心が壊れてしまうからよ!」
彼女は一ノ瀬さんを抱きしめる腕に力を込めた。
「あの子の手を見てみなさいよ!」
言われて、僕は一ノ瀬さんの手を見る。 白く、綺麗な指。 だが、玲奈が無理やりめくり上げた右手の袖口、手首のあたりに――古い、火傷のような傷跡が微かに見えた。
「……っ」
「あの子はね、絵を描くことを奪われたの。……あんたみたいな『天才』の影で、傷つけられて!」
「玲奈、だめ……言わないで……!」
一ノ瀬さんが悲鳴のような声を上げ、その場に崩れ落ちた。 過呼吸。 ヒュー、ヒューと喉が鳴り、彼女の顔から血の気が失せていく。
「栞!」
駆け寄ろうとした僕を、玲奈が視線だけで静止した。
「来ないで」
絶対零度の拒絶。
「あんたがいると、栞がおかしくなる。……消えて」
その言葉は、どんな罵倒よりも深く僕の胸を抉った。 僕は立ち尽くすことしかできなかった。 玲奈が震える一ノ瀬さんを背負い、階段を降りていくのを、ただ指をくわえて見送るしかなかった。
遠くから、後夜祭の始まりを告げるブラスバンドの音が聞こえてくる。 明るく、能天気なファンファーレ。 それが僕たちの「断絶」を祝う葬送曲のように響いた。
文化祭の片付けが終わったのは、日が暮れてからだった。
教室に戻ると、あの看板だけがポツンと残されていた。 机や椅子は元の位置に戻され、装飾も剥がされている。 祭りの後の残骸。
「……湊」
相沢陽介が、ゴミ袋を片手に近づいてきた。 いつもなら軽口を叩く彼が、今は深刻な顔をしている。
「一ノ瀬さん、早退したってな。牧村がすげえ形相で連れて帰ったぞ」 「……ああ」 「お前ら、また何かあったのか?」
陽介は看板を見上げる。 『幻想的な青い扉』。 数時間前まで、多くの生徒がここで笑顔の写真を撮っていた。
「……これ、どうする? 美術室に返すか? それとも廃棄?」 「捨ててくれ」
即答だった。
「は? もったいねえだろ。傑作なのに」 「いいから捨ててくれ! ……頼むよ、相沢」
僕の声が震えていたのか、陽介は少し驚いた顔をして、それから「分かった」と短く頷いた。
「俺が預かる。……お前はもう帰れ。顔色、幽霊みたいだぞ」
陽介の優しさに甘え、僕は鞄を掴んで教室を出た。 背後で、ベニヤ板が運ばれる鈍い音が聞こえた気がした。
昇降口を出ると、空気が変わっていた。 一ヶ月近く続いた湿気が消え、生暖かい風が吹いている。
見上げると、厚かった雲が切れ、星が見えていた。
梅雨明けだ。
スマホが震える。 ニュースアプリの通知。『関東甲信越地方、梅雨明けしたと見られる』。
季節が変わる。 あんなに鬱陶しかった雨が終わったのに、僕の心は砂漠のように乾いて冷え切っていた。
『消えて』
玲奈の言葉がリフレインする。 一ノ瀬栞の右手にあった傷跡。 そして、僕の過去の受賞歴。
全ての点と点が、最悪の形で繋がろうとしている。 僕は家に帰り着くと、机の引き出しの奥深く――鍵のかかった一番下の段を開けた。
そこには、スケッチブックが一冊だけ眠っている。 5年前、僕が最後に使っていたもの。
震える手で、表紙を開く。
1ページ目。鉛筆のデッサン。 2ページ目。水彩の練習。 ページをめくるたびに、かつての「僕」の熱量が立ち上ってくる。
そして、最後のページ。
そこには、何も描かれていなかった。 いや、違う。 かつて描かれていた絵が、黒いクレヨンで、暴力的に塗りつぶされていた。
その黒の隙間から、わずかに覗く色。 鮮烈な、海のような「青」。
『――僕が壊したんだ』
脳裏に、封印していた記憶の欠片が突き刺さる。 泣き叫ぶ少女の声。 炎の匂い。 そして、笑いながらキャンバスを塗りつぶす、狂った少年の姿。
「……う、あ……」
僕は口元を押さえ、その場に蹲った。 吐き気が止まらない。
一ノ瀬栞の記憶は正しかった。 そして、僕の記憶もまた、歪んではいたが間違ってはいなかった。
僕は、笑って描いていたわけじゃない。 壊れて、笑うしかなかったんだ。
窓の外で、遠くサイレンの音が響く。 夏が来る。 僕たちの罪と罰を白日の下に晒す、残酷な季節が始まる。
第2章・完




