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『透明な君と、彩度を失くした僕の青写真』  作者: 夜凪慶


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第2章 梅雨、滲む境界線:硝子の迷宮、祝祭の孤独

文化祭当日。 長かった梅雨の晴れ間、空は白々しいほどに明るかった。


校舎全体が非日常の熱気に包まれている。 廊下を行き交う他校の生徒、呼び込みの声、スピーカーから流れる大音量の音楽。 それら全てが、僕の鼓膜には不快なノイズとして響いていた。


「いらっしゃいませー! アンティーク・カフェ、ただいま満席でーす!」


教室の前では、メイド服や執事服に着替えたクラスメイトたちが声を張り上げている。 その横には、僕が描いたあの看板が鎮座していた。


『幻想的な青い扉のカフェ』 『インスタ映えスポット』


そんな噂がSNSで拡散されたらしく、看板の前には常に記念撮影をする客の列ができていた。 皮肉な話だ。 僕が絶望と嫉妬を混ぜ合わせて描いた「贋作がんさく」が、このカフェ一番の集客装置になっているなんて。


僕は逃げるように、教室の奥にある調理スペース(本来は教卓の裏)に身を潜めていた。


「篠宮、紅茶のオーダー追加! あと皿洗い頼む!」 「……了解」


ひたすら皿を洗い、お湯を沸かす。 単純作業に没頭している間だけは、余計なことを考えずに済む。


あの日以来、僕は一ノ瀬栞と一言も話していない。 牧村玲奈の徹底的なガードに加え、僕自身が彼女を避けていたからだ。


『ハルト』


彼女が口にしたその名前が、僕の胸に刺さったまま抜けない。 誰だ、それは。 彼女の記憶の中にいる、笑って絵を描く少年。 僕の知らない誰かが、彼女の「青」の原風景なのか。


カチャン、と皿がぶつかる音がした。


「……おい、湊。顔が死んでるぞ」


横から相沢陽介が声をかけてきた。彼もまた執事服姿で、額に汗を浮かべている。


「いつものことだ」 「いつも以上だよ。……一ノ瀬さんのこと、気にしてんのか?」


陽介の手が止まる。 彼はチラリと、客席の方へ視線を送った。


そこには、ウェイトレス姿の一ノ瀬栞がいた。 ロングスカートのクラシカルなメイド服。 その姿は、騒がしい教室の中でそこだけ時間が止まったように美しかった。


だが、その表情は能面のようだった。 完璧な所作で注文を取り、完璧な笑顔を浮かべているが、その瞳には光がない。 まるで、精巧に作られた自動人形オートマタだ。


「……牧村ちゃんもピリピリしてるしよ。お前ら、何があったんだ?」 「何も。ただ、僕が役立たずだったってだけだ」


僕はスポンジを強く握りしめた。


「相沢。休憩入っていいか。ここの空気、ちょっと悪い」 「お、おう。行ってこい。シフトは調整しとくから」


陽介の気遣いに礼も言わず、僕は裏口から教室を抜け出した。




廊下の喧騒を避け、渡り廊下へ出る。 そのまま、人のいない特別棟の階段を登った。


屋上へ続く踊り場。 ここは立ち入り禁止区域の手前で、普段から誰も来ない僕の避難場所だ。


窓枠に腰掛け、熱くなった頭を冷やす。 眼下では、中庭に設置されたステージで軽音部が演奏しているのが見えた。 遠くの出来事のようだ。


ポケットからスマホを取り出す。 検索履歴には、ここ数日繰り返し調べたワードが並んでいた。


『未完の青 画家』 『風景画 ハルト』 『解離性健忘 絵画 トリガー』


ヒットするのは、画集の販売ページと、匿名の考察ブログだけ。 『未完の青』の作者は不明。性別も年齢も非公開。 「ハルト」という画家の情報も見つからない。


「……クソッ」


スマホを閉じる。 何をしているんだろう、僕は。 彼女の過去を探ってどうする。 僕はただの図書委員で、たまたま絵が描けるだけの他人じゃないか。


「――ここにいた」


静寂を破る声。 心臓が跳ねる。


階段の下に、一ノ瀬栞が立っていた。 メイド服のまま、息を切らせている。


「……一ノ瀬さん」 「探したよ、篠宮くん」


彼女は手すりを掴みながら、一段ずつ階段を登ってくる。 その足取りは危なっかしい。


「どうしてここに。牧村さんに見つかったら怒られる」 「逃げてきたの」


彼女は僕の目の前まで来ると、その場にへたり込んだ。 ふわりと、紅茶の甘い香りが漂う。


「玲奈には内緒。……休憩時間だから、ちょっとだけ」


「……少し休んだら戻りなさい。君は看板娘なんだから」 「看板、娘」


彼女は自嘲気味に笑った。


「あの看板、すごい人気だね。みんな『綺麗』って言ってくれる」 「君のアイデアのおかげだ」 「ううん。篠宮くんの力だよ」


彼女は膝を抱え、窓の外を見上げた。


「でもね、私、あの絵を見るのが怖いの」


「……怖い?」


「うん。あの青い光を見ていると、吸い込まれそうになる。……こことは違う場所に、連れていかれそうになるの」


彼女の手が震えている。 解離の症状。 玲奈が言っていた「壊れかけている」という言葉が蘇る。


僕は彼女から距離を取るべきだ。 僕の絵が、僕の存在が彼女を傷つけるなら、離れるのが正解だ。


なのに。


「……ハルトって、誰ですか」


口が勝手に動いていた。 理性を飛び越え、嫉妬と好奇心が暴走する。


一ノ瀬さんが、ビクリと肩を震わせた。 ゆっくりと、こちらを向く。 その瞳は、また焦点が揺らぎ始めていた。


「ハルト……くんは……」


彼女の唇が動く。


「私の、大切な……幼馴染。絵を描くのが大好きで、優しくて……」


幼馴染。 僕じゃない。僕と彼女が出会ったのは高校に入ってからだ。


「でも、いなくなっちゃった。私のせいで」


「君のせいで?」


「私が、壊したの。彼の、絵を……彼の手を……」


一ノ瀬さんの瞳から、音もなく涙が溢れた。 それは演技でも、錯乱でもなく、魂の底から湧き上がる懺悔ざんげのように見えた。


「だから、探さなきゃいけないの。謝らなきゃいけないの。……もう一度、あの青を描いてって」


彼女は僕の手を掴んだ。 冷たい指先。


「篠宮くんの絵は、ハルトくんの絵に似てるの。……ねえ、もしかして」


彼女が、禁断の問いを口にしようとしたその時。


ドォォォォン!!


空気が震えた。 窓の外、中庭のステージで特効とっこうの花火が打ち上がったのだ。 昼間の花火。場違いな爆音が、僕たちの会話を物理的に遮断する。


「きゃっ!」


一ノ瀬さんが耳を塞いでうずくまる。


「大丈夫か!?」


僕は彼女の肩を抱いた。 鼓動が早い。彼女の呼吸が過呼吸気味になっている。


「……はぁ、はぁ……」 「落ち着いて。ただの花火だ。……もう、教室に戻ろう」


これ以上は危険だ。 彼女の精神も、僕の理性も保たない。


僕は彼女を立たせ、階段を降りようとした。


だが、その時。 踊り場の壁に飾られていた、一枚の古いポスターが目に入った。


『5年前 全国学生美術コンクール 金賞受賞作品展』


色褪せたポスター。 そこに掲載されていた受賞者一覧の小さな文字。


『小学生の部 金賞  篠宮 湊 『境界の青』』


「……え?」


一ノ瀬さんが、その文字に気づく。


『境界の青』。 それは、彼女が持っていた画集『未完の青』の中の一枚、『境界』と酷似したタイトル。


そして、5年前。 彼女と「ハルト」が別れたであろう時期。


「篠宮……みなと?」


彼女が僕を見る。 その瞳に、混乱と、疑惑と、そしてすがるような期待が宿る。


「違う」


僕は反射的に否定した。


「それは偶然だ。ありふれたタイトルだ」


嘘だ。 あの絵は、僕がまだ「描くこと」に希望を持っていた頃の、最後の作品だ。 でも、なぜ? 僕は一ノ瀬栞なんて少女を知らなかったはずだ。


記憶のパズルが、音を立てて崩れ落ちる。 僕もまた、何か大事なことを忘れている?


「――見つけた」


階段の下から、氷点下の声が響いた。


牧村玲奈が立っていた。 その手には、空になった衣装のハンガーが握りしめられている。 彼女の目は、完全に据わっていた。


「篠宮。あんた、私の警告を忘れたわけじゃないわよね?」


文化祭の喧騒が遠のく。 僕たち3人の間には、祝祭には似つかわしくない、冷たく重い沈黙だけが横たわっていた。

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