第2章 梅雨、滲む境界線:喝采のノイズ、硝子越しの幻影
完成した看板が教室に運び込まれた時、そこに落ちたのは沈黙だった。
ベニヤ板二枚分の巨大なキャンバス。 そこに描かれたのは、重厚な木製の扉と、その隙間から溢れ出す幻想的な「青い光」だ。 カフェへの入り口でありながら、どこか異世界への境界線を思わせるその絵は、薄暗い教室の中で異質な存在感を放っていた。
「……すげえ」
誰かが呟いたその一言を合図に、静寂は爆発的な喧騒へと変わった。
「え、これマジで篠宮が描いたの?」 「ヤバくない? プロレベルじゃん!」 「写真撮っていい? インスタ映え確定でしょこれ!」
クラスメイトたちが看板を取り囲む。 驚嘆、称賛、そして好奇心。 それらの無責任な感情が、矢のように僕に突き刺さる。
「おいおい、俺が見込んだ通りだろ! さすが湊!」
相沢陽介が誇らしげに僕の背中をバンバンと叩く。
「お前、こんな特技隠してたのかよ。これなら内装全部任せてもよかったな!」 「……よせ。ただの看板だ」
僕は陽介の手を払い、居心地の悪さに顔をしかめた。
違う。 これは僕の絵じゃない。 一ノ瀬栞の記憶にある「誰か」の幻影を、僕の技術でトレースしただけの贋作だ。
称賛されればされるほど、胸の奥で冷たい泥が渦巻くような感覚に襲われる。 僕は逃げるように視線を逸らし――そして、動きを止めた。
人垣の外側。 一ノ瀬栞が、立ち尽くしていた。
彼女だけは、騒ぐことも、写真を撮ることもしない。 ただ、幽霊を見るような瞳で、看板の「青い光」を凝視している。
その表情が、ひどく欠落して見えた。 喜びでも感動でもない。 まるで魂の一部を、その絵の中に吸い取られているかのような。
「……篠宮」
低い声に振り返ると、いつの間にか牧村玲奈が隣に立っていた。 彼女もまた、険しい顔で看板を睨んでいる。
「あんた、やりすぎ」 「……何がだ」 「この絵よ。力が入りすぎてる。……こんなの見せられたら、栞がまた『向こう側』に引っ張られる」
玲奈の警告の意味を問いただそうとした時、予鈴のチャイムが鳴った。 昼休みが終わる。
「片付けるぞ! 授業始まるから席戻せー!」
陽介の号令で、生徒たちが動き出す。 一ノ瀬さんはハッとしたように瞬きをし、小さく頭を振ってから、自分の席へと戻っていった。 その足取りが、どこかふらついているように見えたのは、僕の気のせいだったろうか。
放課後。 雨はまだ降り続いていた。
僕は図書委員の当番をサボり、誰もいない特別教室へと足を運んだ。 あそこに置かれたままの看板が、どうしても気になったからだ。
教室の引き戸を静かに開ける。 電気の消えた薄暗い室内。 雨音だけが支配する空間の奥に、その人影はあった。
「……一ノ瀬さん?」
彼女は、看板の前にしゃがみ込んでいた。 完成した絵の、一番鮮やかな「青」の部分に、そっと指先を触れている。
僕の声が聞こえていないのか、彼女は反応しない。
「……約束」
微かな、独り言。
「約束したのに。……本当の海を見せてくれるって」
彼女の指が、乾いた絵具の上を滑る。
「どうして、いなくなっちゃったの? ……ハル、ト……くん」
ハルト。 聞いたことのない名前だった。
それが、彼女の記憶の中にいる画家の名前なのか。 僕ではない、誰かの名前。
ズキン、と頭の芯が痛む。 嫉妬? 違う。これはもっと根源的な、自己存在を揺るがされるような不快感だ。
僕は足音を立てて近づいた。
「一ノ瀬さん」
強めに呼んで、彼女の肩に手を置く。 その瞬間、彼女は弾かれたように振り返った。
「っ!」
ガラス玉のような瞳が、僕を映す。 だが、焦点が合っていない。 彼女は僕を見ているようで、僕の向こう側にいる「ハルト」という誰かを見ている。
「……あ、篠宮、くん?」
数秒の沈黙の後、彼女の瞳に理性の光が戻ってきた。 と同時に、彼女の身体から力が抜ける。
「一ノ瀬さん!」
崩れ落ちそうになった彼女を、僕は咄嗟に支えた。 華奢な身体。 驚くほど軽いその重みが、僕の腕の中に収まる。
「ごめん、なさい……。少し、めまいが」 「座った方がいい。顔色が最悪だ」
僕は彼女を近くの椅子に座らせようとした。 だが、彼女は僕のシャツの袖を掴んで離さない。
「待って。……行かないで」
切羽詰まった声。
「一人にしないで。この絵を見てると……自分が、消えてしまいそうで」
彼女は震えていた。 記憶のフラッシュバックと、現実の境界が曖昧になっている恐怖。 それを引き起こしたのは、間違いなく僕が描いたあの絵だ。
「……どこにも行きませんよ」
僕は溜息をつき、彼女の隣にしゃがみ込んだ。 掴まれた袖口を通じて、彼女の体温と震えが伝わってくる。
「君が落ち着くまで、ここにいる」
「……うん」
一ノ瀬さんは小さく頷き、僕の肩に額を預けてきた。
雨音が、教室を包み込む。 二人だけの閉鎖空間。
こんな状況、本来なら胸が高鳴るはずのシチュエーションだ。 けれど、僕の心は冷え切っていた。
彼女が縋っているのは、僕じゃない。 僕の絵を通して見る、過去の亡霊だ。
そして僕もまた、彼女を通して、かつて置き去りにした「情熱を持っていた頃の自分」を見ているのかもしれない。
僕たちは互いに、相手の中に幻を見ている。 それはなんて空虚で、なんて残酷な共犯関係なのだろう。
ガラッ!
不意に、教室の扉が荒々しく開かれた。
「栞!」
鋭い声と共に飛び込んできたのは、牧村玲奈だった。 彼女は肩で息をしながら、僕たちを見つけると、鬼の形相で駆け寄ってくる。
「篠宮! あんた、栞に何したのよ!」 「何もしてない。彼女が貧血を起こしたから、支えてただけだ」 「離れなさい!」
玲奈は強引に僕の手を払い、一ノ瀬さんを抱き寄せた。
「大丈夫? 栞、聞こえる?」 「……ん、玲奈? 平気、ちょっと疲れただけ……」
一ノ瀬さんは弱々しく笑うが、玲奈の表情は晴れない。 彼女は僕を睨みつけ、言い放った。
「これ以上、栞に近づかないで」
「……文化祭の準備はどうするんだ」
「私がやる。あんたはもう、用済みよ」
決定的な断絶。 玲奈は一ノ瀬さんの腕を肩に回し、立たせる。
「行くよ、栞。保健室で休んで、そのまま送るから」 「でも、篠宮くんにお礼を……」 「いいから!」
二人が教室を出て行く。 一ノ瀬さんは一度だけ振り返り、悲しげな目で僕を見た。 けれど、玲奈に促され、その姿は廊下の闇へと消えていった。
残されたのは、僕と、青い光を放つ看板だけ。
「……用済み、か」
その通りかもしれない。 絵は完成した。 一ノ瀬さんの記憶のトリガーも引いてしまった。 僕の役目は、もう終わっている。
僕はポケットの中で拳を握りしめた。 爪が皮膚に食い込む痛みだけが、僕が「篠宮湊」であることを証明していた。
雨は激しさを増し、窓ガラスを叩きつけている。 まるで、僕たちのあやふやな関係を洗い流そうとするかのように。




