聖なるスパ・サミット
フェ・アコンプリ(既成事実)の翌朝の夜明けは、杉のタオルと、差し迫る政治の匂いがした。
うちの聖なるスパは祭り会場みたいにきらきら輝いている。史上初の種族間和平会議が俺のリビングで開かれるなら、ピカピカにして迎えたいに決まってる。
「……本当に罠じゃないんですか?」とリンが、新調した“外交用エプロン”を撫でながら言った。「世界の指導者が全員、同じ湯船に入るなんて……」
「罠だよ」とシャルロッテが言い、輪っか(ハロ)を起動する。「私にとってのね。史上いちばんうるさい政治会議を、私は寝てやる」
「もてなしって呼ぶんだよ。それにさ、無料のスリッパ履いたままホストを屠るやつがどこにいる?」
「順番、覚えてますよね?」リンは、指で隠しルーンの手触りを確かめながら小声で確認する。
「大体な。もし魔王が俺らをハメてここを吹き飛ばす気なら、俺は全部を自分に折り畳んで吸収してやる。魔法を奪うか、俺が粉々になるかだ」
「ハイリスク。派手な終わり方が好きですよね。いつも最悪に“映える”シナリオを考える」
リンは薄く笑って、でもすぐ真面目な顔に戻った。「……でも、あなたは全部のリスクを計算してる。だからスパが回ってるのかもしれません」
「綺麗にやる。油断して滑るのは無しだ」
「脆いのに、無謀に勇敢。危険な組み合わせですね」
リンの指先が、俺のコアにふれた。手を取ってしまいたくなる。でも俺は、彼女が縁にタリスマンを“見えない形で”仕込んでいくのを、ただ黙って見ていた。
「……嬉しいんです」と、彼女が不意に言った。
「なにが?」
「あなたが、隠さなかったこと」リンは俺たちの間の結晶を軽く叩く。「心配してるって。みんな怖い。あなたも。……魔族釣りみたいな人でもね」
その笑みは一瞬だけ複雑だった。甘やかすみたいで、鋭くて、そして妙に柔らかい。
「いいことです。私、あなたに色々使われてますから。慎重さも“使える”って、あなたなら分かってる」
最初に鳴った角笛は、海のものだった。
渓谷にターコイズの潮が押し上げるみたいに、人魚の使節団が到着した。塩の水晶が混じった鱗がきらめく。彼らの隊長が船柱みたいにでかい巻物を広げ、人魚の宰相の名を高らかに告げる。
「深海三叉槍評議会、ここに監督を宣言する。中立の水、中立の心」
数秒後、今度は人間側の行列ががらがらと入ってきた。王冠が朝日に光る、グレミー王本人だ。背後の貴族たちは、豪奢な上着を早くも汗で濡らし始めている。
そして空気が冷えた。影が翼みたいに折り畳まれ、森の小径から魔王が現れた。露で湿った黒髪、月光みたいに白い角。
最後に空が割れた。天使と天族が、観察者兼調停者として上空に浮かぶ。
一瞬だけ――海、地上、天、そして魔界。四つの勢力が、湯気の立つプール越しに互いを見据え合った。
「ようこそ! 何してるんだ、30日ログインのジェム配布が発動するの待ってんのか?」俺はぷくぷく泡を立て、彼らの間に霧の橋をかける。「入浴前にかけ湯お願いしまーす!」
儀礼なんて、入浴剤より速く溶けた。
人魚たちは深いプールへ、慣れた宙返りで飛び込む。
人間の将軍たちは鎧を一枚ずつ外しながら文句を言うでも顔は、どこかほっとしている。
魔王はビロードの外套を脱ぎ捨てた。肩にかかったのは、驚くほど普通のリネンのタオルだった。
「ただの湯だ」と魔王は言い、鉱泉の湯に身を沈める。「……それなのに、落ち着かんな」
グレミー王は、恐る恐る足先を浸した。長年の憎悪を少しずつ捨て、新しい葉に触れるみたいに。
「湯は……許容範囲だ」
湯気が立つ。会話が続く。
新規ピックアップ直後のガチャ会場より、よほど殺気がある。
「政治の課題と、哲学の課題がある」魔王はこの場でも最大の威圧をまとっていた。「ダンジョンコアは和平条約ができると言う。だが教会は割れ、至上主義の派閥は確実に問題を起こす。こちら側でも、この変化は食の事情に影響が出た。種族間の暴力が起きたとき、誰が責任を取り、罰はどう下す? 誰が裁きの執行を担う?」
俺は「知らねぇよ。お前ら官僚の仕事だ。俺は身体戻したいだけだ」って叫びたかった。
でも今ここで全部を投げてたまるか。ゴールが近い。俺は耐えた。
リンが書類を捌き、シャルロッテは特大の浮き輪でぷかぷか漂いながら、たまに天界側の“貢献案”を口にする。
俺は、シンプルな真実を突きつけた。
「軍だってもう一緒に酒飲んでる。商人はもうルートを共有してる。署名しようがしまいが、戦争は終わってるんだ。問題はその平和で儲けたいのかどうかだけだ」
魔王の瞳が、黒いガラスみたいに光る。
「儲けは理解できる。だが権力は残る。貴様のスパは週ごとに強くなる。独立都市国家だとする声もある」
グレミー王も頷いた。
「この聖なるスパが敵に回れば、いずれの王座にも厄介だ」
「じゃあ俺が敵になれないようにすればいい」俺は言った。「スパを中立地として、お前ら全員の保護下に置け。軍も領有権も無し。永遠の開放浴場だけ」
人魚宰相が尾を叩いて賛同した。
「潮は同意する」
グレミー王は、俺の湯が効き始めたのか、ため息ついでに肩の力を抜く。
「温泉条約か。奇妙なものが国を延命してきた例はいくらでもある」
「確かに。これはその中でも群を抜いて奇妙だ」魔王は湯気の中で背を預けた。「……この提案には、貴様へ“人の身体”を与えることも含まれるのだったな?」
そして淡々と続ける。
「条件が一つ。取り戻したら、貴様は能力を使うのをやめろ」
「はぁ?!」俺はついに崩れた。「そんなの無理だ!! スパが回らねぇ!」
「貴様は三つの労役を果たした。だが私は“訪れる”とは言ったが、“身体を返す”とは約束していない。まして能力を保持したままなど論外」
魔王は薄く笑う。「それに貴様は第一の労役を完全に失敗した。残り二つは気まぐれで与えただけだ。まさかここまで持ち直すとはな」
最悪のケースは“身体戻らない”だと思ってた。こんな形で奪われるなんて不公平すぎる!
「愚かなダンジョンコアだ。私は闇の大君。人類の宿敵だぞ」
「そして今はうちの聖なるスパの“お客様”だ!」俺は食らいつく。「世界最悪が俺の湯に浸かって誰も傷つけてない時点で、平和は勝ってんだよ! こういうのは一日じゃ終わらない。だからこそ明日を夢見る。より良い世界を目指すのを、見下すな!」
俺は息を吸って、言った。
「妥協しよう。だから集まったんだろ?!新しい能力の吸収をやめる。これでどうだ!」
「それが最低条件だ」グレミー王も、魔王に同調して言い放つ。「復活した魔術師が無限に強くなるのを黙って見てはおれん」
周囲に低いざわめきが走った。
理屈は分かる。分かるけど、納得は別だ。能力が増えれば増えるほど、拡張は楽になる。俺はできる限り欲しい。
でも完全停止じゃない。引退でもない。
“今ある巨大な能力セットで固定される”だけだ。
それに、こいつらは知らない。
俺が“保証”として仕込んである魔法陣のことを。
俺は押し返し、譲りすぎないように条件を固定しにいく。そして決めた。
「分かった。人の身体が戻るなら、その身体がダンジョンコアをコントロールし、能力も全部使えること。これを保証してくれ。スパが自由で、平和が維持できるなら、俺は人の身体に戻った後、能力吸収をやめる。――どうだ? 全員同意だな?」
魔王は鉤爪の手を、グレミー王は分厚い手を差し出した。空と海を証人に、強力な誓約が結ばれる。湯気が彼らの握手を包み込み、史上初の“四界協定”が封じられた。
シャルロッテが信頼のウィンクを投げる。
「ほらね? これで私は外交を寝て過ごせる」
交渉が終わり、魔王が牙を光らせて俺を見た。
「では時だ。三つの労役は完了し、取り決めも結ばれた。試すか、コア・カズキ。貴様の“復活”を」
俺の結晶の心臓が、祭り太鼓みたいに鳴り響く。
「やる」俺は言った。流水が期待でざわめく。「見せてみろよ、究極の能力!」
グレミー王が杯を上げる。
「この浴場が、戦よりも平和の方が酔える証明となるように」
スパは歓声と水しぶきで満ちた。
そして、世界が今まさに――種族の認知そのものの形から、変わったのだという静かな確信が、その湯気の奥で揺れていた。




