ヒキとヒキ
そう。新しい一日。新しい俺。……でも湯だけは相変わらず治癒効果バッチリ。
天使――シャルロッテは、俺の湯面をぷかぷか漂いながら、波打つ桃色の髪を花びらみたいに広げていた。洞窟の壁で見つけた宝石みたいな鉱石を、うっとり眺めている。
(こいつ……ここに何日いるんだ?)
……わからん。ダンジョンコア形態だと時間感覚がふわふわしてて、朝昼晩の区別すら曖昧だ。
ぽこっ。
泡が弾けた。
今の俺の娯楽、以上。
文句を言いたいところだが、今日はそれどころじゃない。なぜなら――俺には最新の“成果”があった。
俺の人生初、看板である。
そう、グランドな――NEWオープン看板!
洞窟の入口付近で、ミネラルと温泉水を渦巻かせて岩肌を少しずつ削り、凹みと色の違いで文字を彫り込んだのだ。どうだ、職人技だろ?
『一樹の聖なるスパへようこそ』
人間も魔物も大歓迎
・ケンカ禁止
・湯船でおしっこ禁止
完璧! 端的! 丁寧! そして大事なルールはきっちり!
シャルロッテが近づいてきて、じっと見た。
「ふーん。あなた案の看板?……ブサイク」
「味があるって言え!」
「“味”ねぇ。こんな岩の落書きじゃ、汚らしい旅人や臭いゴブリンが雪崩れ込んでくるわよ」
「おい! 俺のスパは全員歓迎だ! ゴブリンだって客だ!」
「焦りすぎ。トラブルを呼ぶだけ。ニッチにしたら?」
……悔しいが、怠け者のくせに正論だ。
本気で運営するなら方向性が要る。警備。スタッフ。受付。清掃。秩序。利益。
“スパ・システム”を整えなきゃ、ここはすぐ地獄になる。
「ニッチは無理だ……」
「へえ? どうして?」
「みんな風呂好きだろ。気持ちいいし」
それも本音だが、目的はそれだけじゃない。
「それにさ、前の人間たち……“また取りに来る”って言ったよな?」
「言ってたね」
「どういう意味なんだよ」
シャルロッテは、あくび混じりに答えた。
「あなた、治癒系のコアでしょ。未契約で、しかも守りが薄い。そりゃ人間は“旗立て”に来る。近くの冒険者ギルドが大勢連れて押し寄せてくるわね」
「最高じゃん! 最高だよ! じゃあ仲良くしようぜ。和平だ!」
「嫌」
「嫌ってなんだよ!」
「客が必要だろ!? それかもっとマトモな人材雇え!! 人間の村に飛んで、前回のこと謝ってこいよ!」
「あなたも戦ってたでしょ!」
「この堕天使! ビジネスパートナーなら根性見せろ!」
「なんて失礼なの! 前はそんなじゃなかった!」
「謝れ!」
「行かないって言ってる」
「なんでだよ! 俺がバカみたいに説明しろ!……いや、実際バカかもしれんけど!」
「あなたの方が酷いわ。そもそもこの世界のこと、何ひとつ知らないじゃない」
「お前がここに縛ったからだろ!?」
「天使がスパを楽しむのがそんなにおかしい?」
「おかしいだろ!」
シャルロッテは湯面に浮いたまま、急に語気を強めた。
「ええ、おかしいわよ! 天使が“人間の祈り専用の労働要員”じゃないなんて。彼ら、私たちをゴミみたいに扱うの。休めない。二十四時間ずっと祈りの対応。過労で数も減ってる。雲の上に戻っても……私が考えるのは“この世界の汚れを洗い流したい”ってことだけで……それで……!」
言葉が詰まる。
そして、ぷいっと顔を背けた。
「……だからストライキよ。いい? 私、もう働かない!」
……え。
それは予想外だった。
「それに」
シャルロッテがこちらを見た。
「なんでそんなに人間に“取られたい”の? 人間にコアをロックされたら、あなたは人間種族しか癒せなくなるのよ」
「……は?」
「前の冒険者たち、揉め事起こす気満々。彼らに触れられて契約されたら、あなたは命令に逆らえない。私と同じ」
「なにそれ!? なんで先に言わないんだ!!」
「みんな知ってるし。知らないあなたが変」
俺の湯がボコボコと荒れた。
「お前……俺を騙して怠けるために……!」
「騙してない!」
……顔が騙してる顔なんだよなぁ。
「だって前、俺に触れても何も起きなかった!」
「長く触れてなかったから。あと私は特殊。神性はあるけど、人間の赤子みたいな“特権”はないの」
やばい。
想像以上に最悪だ。
俺はただの赤い宝石で、泉で、祭壇だ。
誰でも旗を立てられる。
もし冒険者が俺の縄張りを“確保”したら――
俺の自由も尊厳も、さようなら。
「だから本当に必要なんだよ! 警備! スタッフ! 受付! 居座り禁止ルール――!」
「多すぎ」
「お前は浮いてるだけだろ! 何もしてねぇだろ!」
「もういい。協力しないならしないでいい。でもこのタイミングで言っとく。今のうちに手を打たないと、後で地獄になる」
「どういう意味?」
「スパ案は好きだ。利益五分五分も……まあ不満だけど!」
俺は続けた。
「でも俺は身体を取り戻したい。ひとりじゃ無理だ」
「それと私がどう関係するの?」
「今なんて言った?」
俺の湯温がジワっと上がる。
「協力しないなら、あんたの大事な“聖域”ぶっ壊すぞ」
シャルロッテが泳ぐように近づいてきた。
「えっ……スローライフしたいから運営するのかと思ってた」
「違う! これは戦略だ!」
俺は言い切った。
「俺は前の人生、逃げてばっかだった。でももう逃げない。ここを世界最高の“魔物×人間スパリゾート”にして、遺物でも噂でも手がかりでも何でも集めて、この身体なし問題を解決する。能力だって吸収できるんだろ? 前の戦いみたいに!」
「チッ……やるじゃない」
「【ナチュラルヒート Lv10】」
「熱っ! 熱い熱い!!」
「俺だって身体が恋しいんだよ!!」
俺は叫んだ。
「俺はスパを“体験”できない。お前が気持ちよさそうにしてるのを感じるだけ。どれだけ羨ましいと思ってる! この洞窟、火山みたいにできるぞ!」
「やめて! 本当にやめて!!」
「とにかく、たくさんの客を呼びたい。解決策を探るために。わかるか? 冒険者に俺をロックされたら、お前のこの“引きこもり天国”も終わりだ。しかも俺たちは客を差別しなきゃいけなくなる」
「それが何。私の問題じゃない」
「問題だろ!」
俺は畳みかけた。
「お前、ここから追い出される。商売は九割失う。失われるコインを想像しろ!」
「うーん……うーん……」
シャルロッテがぷいっと背を向ける。
俺は急に冷静になって言った。
「お前さ……本当に変だな。怠惰だと思ってたけど、もしかして“怠惰”じゃなくて“逃避”なんじゃないか? 謝るだけだぞ。簡単だ」
シャルロッテの動きが止まった。
「……どういう意味」
「ここに隠れてるんだろ。洞窟を“自分専用の秘密基地”にしてさ。でも結局、誰かが俺を奪いに来るまでダラダラ待って、そしたらお前も仕事に引き戻される。意味あるのか?」
「……関係ない」
彼女は半分湯に沈んで、むくれた。
「私はここが好き。祈られない。呼び出されない。落ち着く。完璧」
「……情けない」
思わず口走った。
ぽこっ。俺の最後の礼儀泡が弾けた気がした。
「お前、俺より偉そうにしてるけど、ただの**引きこもり(ヒキ)**じゃん。俺と同類だろ。逃げたんだろ?」
「黙れ、スパ岩!」
「黙らねぇ!」
俺は言い返す。
「俺は人生ずっと逃げてきた。でも変わろうとしてんだ。だからもう別の逃げ道は選ばない! スパで心の傷が治ると思ってんのか? 甘い! ヒキ天使、お前と俺は同じなんだよ! 村へ行け! 人間と話せ! ちゃんと整理しろ! “無料の祝福”として引きずり回される存在じゃないって、見せつけろ!」
シャルロッテは腕を組み、濡れた翼を反抗的に広げた。
「嫌。私はもう、幸せになった瞬間だけ私を捨てる人間に奉仕するのは終わり。今度こそ――役に立たない側に回るの」
「じゃあ利己的になれ!」
俺は叫んだ。
「祈りも、浸かりも、一滴もタダじゃないって思い知らせろ! でもそれは外でやれ! 俺の湯で腐ってる場合か! 先週のコンビニ弁当みたいに!」
シャルロッテは完全に湯に沈んだ。
泡が立つ。怒りか、拗ねか。多分どっちも。
やがて顔を出す。翼はしゅんと垂れていた。
「……無理よ」
彼女は小さく囁いた。
「使い潰される。あなたも……そうなる」
その美しい顔に浮かぶ表情を見て、俺は一瞬、言葉を失った。
【ヒーリング・フロー】じゃ解けない“何か”がある――そう理解した顔だ。
『ひとりじゃ無理』
彼女はそう言ってるように見えた。
……俺の湯に浸かりすぎて感情がリンクしたのか?
それとも俺がさっき「ひとりじゃ無理だ」と言ったから共鳴したのか?
あるいは――俺が元NEETだから、勝手にそう見えてるだけか。
俺は思い出した。
部屋に引きこもってた頃、やたらと食事トレーの上に手紙が増えていったことを。
もし父さん母さんが俺に手を伸ばしてくれなかったら、俺はあの部屋から一生出なかった。
だったら、俺は――
「じゃあ、俺と一緒に“無理じゃない”って証明しよう」
「……え?」
「連れてけ」
俺はコアの“感覚”を抜け出し、温泉へと自分の本質を流し込む。
そして――洞窟の隅に落ちていた、前の冒険者が置いていったフラスコ。袋から突き出していたそれに、俺はすべり込んだ。
「俺が秘密兵器だ。できることは喋るのと、たぶん体を温めるくらいだけど……一緒に行ける」
シャルロッテはフラスコをつついた。
「……バカみたい」
「喜べ! 俺、携帯型になったぞ! 頼む、今度こそ行こう!」
「却下」
「殺すぞ――!!」
シャルロッテはため息をつくと、俺のフラスコを脇に抱え上げた。
「……わかった。飛ぶ」
「よし! さっさと済ませよう!」
「当然」
そう言って彼女は、洞窟の通路を滑るように飛んだ。
その姿は一瞬、本当に神々しくて、信頼できて、めちゃくちゃ綺麗な天使に見えた――
と思った瞬間。
翼が鍾乳石に激突した。
ゴンッ。
「……いった……」
「……うぅ……」
「……うえぇ……」
「今のはさすがに俺のせいじゃないな」
「いい出だしだな、役立たずの相棒」
シャルロッテはムッとしつつ、翼で俺を隠すように抱え直した。
「ねえ。あなた、飲めば回復できるの?」
「それは怖すぎるだろ」
俺はフラスコの中でゴボゴボ言った。
「てか名前で罵り合うの一旦やめよう。お前の名前、なんだ」
「シャルロッテ。シャルロッテ・デュ・エンピリアン」
「よし、シャルロッテ」
俺はやたら大げさにフラスコの中で宣言する。
「俺は元人間、現ダンジョンコア――鈴木一樹!
俺たちは自分たちの天国を作る! 一風呂ずつ!
まずは人間と仲良くする! その上で――金は全部いただく! いいな!?」




