ラインハルトの復讐
ラインハルトは、湯気の立つ湯船の縁に立っていた。
ブーツが重い。罪悪感と、羞恥と、まだ捨てきれない誇り――それだけで足が鉛みたいだった。
羞恥は大きい。
港町クラスでの長期戦。
魔族軍の前線中将クラーケン相手に、決着をつけられなかったこと。
そして 魔王軍の最上級の将、あの“ブラックホール執事”ブラックウェルが、うちのスパで客みたいに湯に浸かっていること。
その現実が、騎士としてのプライドを静かに削っていく。
今夜、その羞恥が、復讐に変わった。
ラインハルトは《カズキ聖なるスパ》へ来た。
岩穴みたいだった場所が、いつの間にか“リゾート”になっている。
深夜だってのに、まだ宴会みたいに賑やかだ。ホテル棟も居酒屋も、ふわふわ浮いた雲テラスも、回復湯も、全部がのんきに回っている。
周りには笑うハーピー。
湯船で寝落ちするミノタウロス。
タオルを自分の身長より高く積もうとしているセラフ。
魔族も、魔物も、人間も。
肩を並べて、同じ湯気の中で笑っている。
腹が立つほど平和だった。
腹が立つほど、いい匂いがした。
でも、ラインハルトがいちばん憎かったのは――その中心にいる、あの赤い宝石だ。
湯の中に半分埋もれて、きらきら光って、しかも寝ている。
剣を振り続けた自分の一生より、あいつの方が“平和”を作ってしまった。
違いがあるとすれば。
ラインハルトの平和は「人間のため」。
あいつの平和は「異種族のため」。
ラインハルトは手を伸ばした。
分厚い掌が震えながら、滑らかな温い結晶の上にかかる。
スパの所有を奪う刻印。起動。
「……俺が、ここを――人間王国のために、接収する」
ちゃぷん、と小さな水音。
「その術、取り消して」
眠そうな声がした。
シャルロッテが、俺の貸切湯の縁であくびをしながら、羽をぽたぽた垂らしていた。
頭を上げきらずに、片目だけ開ける。疲れた猫みたいな目。
「……天使が番犬役か」
「番犬じゃないよ。疲れ切った共同経営者。こいつが回してるんだよ、ここ。湯の一滴から、骨のズレた哀れな勇者の矯正まで」
ラインハルトは鼻で笑った。
「終わらせる。中途半端な和平は要らん。最終的な秩序と法だ」
シャルロッテは頬をふくらませた。
「秩序じゃ湯は満ちない。満ちるのは、欲と、ちょっとの優しさ。寝てるところを狙うとかダサいよ」
指先が、結晶に食い込む。
「……なら、どこだ。お前の背後に隠れてるのか」
「隠れてる? あは。私は“お土産”持ってきたか確認してただけ。偉大なる勇者さま、出禁にしないであげてるんだよ?」
ラインハルトがわずかに身構えた。
「……起きていたのか?」
俺のコアが、ぴかっと明るく脈打った。
湯気が金糸みたいに巻き上がる。
「金の匂いがしたら起きるに決まってんだろ。なに? 勇者。俺を“接収”する? スパごと? 手のタコなら俺も負けてねぇぞ」
ラインハルトが歯を剥いた。
「もう一度ふざけたら――」
「ふざけてる? 俺がいなきゃ、お前んとこの騎士は錆びた鎧で足引きずって帰ってんだぞ。英雄料金欲しい? じゃあ入浴料二倍、ブーツ洗って、列に並べ」
バキン!!
人類の大勇者の拳が落ちて、俺の祭壇の大理石がひび割れた。
「俺の大理石ぃぃぃ!!」
「バカぁぁ!!」
シャルロッテが羽をばさばささせる。
「欠けた! 欠けた!! あと、あんたも煽るな! こいつはクーポン持った客じゃない! 今にも壊れそうな勇者だろ!」
ラインハルトの肩が揺れた。
「……お前は、湯に浸かる。敵と笑う。墓より金の話をする。俺に何を言えと? すまないと言えと? 俺の剣が……最初から無意味だったと?」
シャルロッテが、そっと近づいた。
濡れた手のひらを、鎧に当てる。悲しくて、静かな仕草。
「疲れたって言えばいい。それで十分。次に、直すって言えばいい」
「王国は一人で直せ。……それか、でけぇ英雄のケツを俺の湯に沈めろ。戦のあとに来る“ちゃんとした平和”を見せてやる」
ラインハルトは、短く、壊れたみたいに笑った。
「……狂ってる。俺の人生は王の剣だ。戦い続けた。壊した。憎んだ。全部……全部、無駄だったのか? 仲間は嘘のために死んだのか? あったのか? こんな――こんな馬鹿みたいな平和が。温い湯と、混浴で……!」
声が割れて、涙が落ちた。
シャルロッテは鎧に手を当てたまま、うなずいた。
「遅くない。遅いのは、“もう遅い”って自分に言い聞かせた時だけ。見てよカズキ。昔はドクズだったのに、今はちょっとマシなドクズ」
「はぁ!?」
「私も助けられたし。まさか、怠惰のヒキ天使が、共同経営者の隣で気絶するくらい働くとはね」
「お前、昼に上がってたけどな」
「黙れ!! 恥ずいんだよ!!」
シャルロッテが俺にかぶりつく勢いで叫ぶ。
「カズキは元・人間なんだぞ!? ちゃんと考えろ! 言え! カズキ! 真実を言え!!」
「い、いや、シャルロッテ黙――」
「黙らない!! みんな、あんたが水の多い頭した守銭奴コアだと思ってるけど、見ろよ! ずっと能力回してる! 流れ見てる! 温度いじってる! 子どもが深いとこで溺れないように止めてる!!」
「それ一回だけ――!」
「一回!? 毎日だろ!! 金と人間の体にヨダレ垂らしながら、この大陸の保育園を一人で回してる!!」
ラインハルトの目がぴくりと動く。
「お前たち……」
「黙れ勇者! ここ重要!」
シャルロッテは続けた。
「言え、今夜あんたが倒れたこと! 【聖なる間欠泉】とか【回復の流】とか、ずっと回してんの恥ずいんだろ!? 体戻したいだけのやつが、ここまで異種族の平和に必死になるかよ! 認めろ! このスパで一番のワーカホリックはお前だ!!」
「分かった! 黙る!」
シャルロッテは、くるっとラインハルトに向き直った。
輪っか(光輪)がぶんぶん回っている。
「ほら見ろ! 悪党に見えるか!? これがうちのダンジョンコアだ! 守銭奴のガチャ中毒なのに、働き者の聖人!! この大馬鹿が毎日世界を救ってるのに、俺らは寝ようとしてる!! だから接収とか二度考えろ、勇者ボーイ! 働いたあとのこいつに必要なのは――俺と同じで――美容睡眠!! だから寝かせろ!!」
「いや、それは普段はそうなんだがな」
俺は照れ隠しに、つい余計なことを言った。
「は?」
「さっきな、ラッキーバニーのとこ行って鬼ごっこしてきた。レアな友だちも勢ぞろいでさ。あれは逃せねぇだろ?」
「お前ぇぇぇ!!」
ドゴォン!!
「やめろぉぉ!! 俺の祭壇ぃぃ!! 貯金箱扱いすんな!!」
シャルロッテが俺を叩いて、でっかい涙をこぼした。
「信じらんない! 私に守らせといて台無しにするな! 謝れ!! 私、恥ずかしさで死ぬかと思ったんだぞ!!」
「関係ねぇ! お前が俺を黙らせたのが悪い! いたっ、痛っ! 分かった分かった! すまん! すまん!!」
ラインハルトは背を向けた。
ブーツから滴る祝福が、磨かれた受付床に落ちる。
「……王に話す。直す。何とかして」
シャルロッテが俺にもたれかかりながら呟く。
「そうしろよ。次、私を起こしたら入浴料三倍な。なんか羞恥を吸った気がする」
ラインハルトは、半笑いのまま立ち止まった。
「欲が“優しさ”の翻訳? 利他が反転? 平和を『利益』って言い換えないと認められない? ……そんなの信じろと?」
「男は男だ。でも俺は、他にない男だ」
「何その決め台詞」
本気で納得した顔じゃない。
でも、分かっている顔だった。
血を流して勝つ“勝利”なんて、もう残っていない。
その道は閉じかけている。
代わりに、別の道が開いている。タオル振って、騒がしくて、異種族が肩を並べる――この馬鹿みたいな道。
このリゾートは、その証拠だった。
しかも、その波はもう、人間領にも魔物領にも魔族領にも広がり始めている。
その道が正しいのか。
ただの守銭奴コアの熱病なのか。
それは、もっと夜が要る。もっと湯が要る。もっと考える時間が要る。
「……分かった。もしお前が欲の化身なら、俺は平和を妬む者だ」
ラインハルトは去った。
湯気が、祈りみたいに背中へついていく。
シャルロッテが俺をつついた。
「勇者と私、つつくな」
「祭壇を欠けさせるな」
シャルロッテは欠けた縁に光輪を置いた。
羽がくすぐる。
「壊れても直すんでしょ。欲深カズキ」
「その修理代、給料から引く」
「給料? 働かなきゃ給料もないもん。差し引けないよ」
「じゃあ勝手に請求する。三倍で。【エナジードレイン流】でな」
「じゃあ勝手に請求する。三倍で。【エナジードレインの流】でな」
「それがいつものカズキだね」




