記憶の調律師(アエロフォニー)
プロローグ 旋律の異変
私の名はイオ。この街で、他人の「過去」を盗み聞きし、時には書き換えることを生業としている。世間は私を「調律師」と呼ぶ。
誰もが、自分の記憶は自分だけのものだと信じている。だが、それは錯覚だ。記憶とは、空気中を漂う微細なエーテル粒子――我々調律師はそれを「アエロ」と呼ぶ――に乗って響く、絶え間ないノイズと旋律の集合体だ。
私たちはそれを呼吸し、脳内の「受信機」で拾い上げ、自らの人生という名の物語を編み上げる。初恋の甘酸っぱさも、幼い頃の誕生日の暖かな光も、遠い過去に生きた誰かの残響かもしれないのだ。
私の仕事は、その旋律が乱れた者の精神を修復することにある。
「昨夜、別れた恋人との喧嘩の記憶が、突然、彼女が微笑んだ日の記憶に置き換わってしまったんだ。おかしいだろう?」
「妻が、一度も持ったことのない『赤い鳥』のぬいぐるみを大切にしていたと主張し始めました。私の記憶にはありません。」
彼らの精神は、周囲のアエロのノイズを拾いすぎ、不協和音を奏でている。
私は彼らの脳の受信周波数を微調整し、不必要な記憶の粒子をふるい落とし、彼らが「自分自身」と信じる過去の旋律に戻してやる。
調律を終えた顧客は安堵の息を漏らす。「ああ、これで、いつもの私に戻れた」と。
そして、その日の午後。
私の仕事場――街の片隅にある、防音材に覆われた、古びたレコード店を装った隠れ家――に、一人の男がやってきた。
男は、私が調律してきたどんな「旋律」よりも、異質で、冷たく、そして強大な「音」を纏っていた。
「イオ・ヴィーナス氏ですね。」
男はそう言った。その声は、街の喧騒や、空気中の記憶のノイズをすべて吸い込むかのように静かだった。
「私は、最高指導者、カロン・ザナドゥ閣下の側近です。閣下から直接の、緊急の依頼がございます。」
彼は、黒い皮のトランクをテーブルの上に静かに置いた。その中には、私の生涯賃金の何倍もの、桁外れの報酬が詰まっていた。
「依頼の内容はただ一つ。一刻も早く、国民全員の記憶から、特定の一日を消去していただきたい。」
私は目を細めた。前例のない、常軌を逸した依頼だった。
数人の個人ではなく、国全体。一瞬の記憶を消すだけでも繊細な調律を要する。国民全員の記憶を操作するなど、それは国の歴史そのものに手を加える行為だ。
「誰にも気づかれずに。まるで、その一日が最初から存在しなかったかのように。」
男は続けた。
「対象は、二年と七ヶ月前の、『調和の日』。国民の誰もが、その日の朝目覚めた時から、その日の夜眠りにつくまでの出来事を、頭の中から完全に消去する。」
私は、その「調和の日」という言葉に違和感を覚えた。
なぜなら、その日は、この国の歴史上、何ら特筆すべき出来事が記録されていない、ただの平日だったはずだからだ。
「なぜ、その日なのですか?」私は尋ねた。
男は答えない。代わりに、静かに一枚の古びた楽譜のようなものを差し出した。
それは、この国で最も重要な公式文書――『創世の歌』の写しだった。
「閣下は、言われた。『この国が奏でるべき旋律を守るためだ』と。イオ氏。あなたが消そうとしているのは、たった一日の記憶ではない。それは、この歴史という名の壮大な交響曲における、ただ一つの、不協和音なのだ。」
私は楽譜を受け取った。紙に触れた瞬間、私の耳に、遠く、深く、しかし確かな、異様な「音」が響き渡った。
それは、無数の人々の、混乱と、驚愕と、そして、真実を見た者の叫びが重なり合った、途方もないノイズの塊だった。
その瞬間、私は悟った。
私が消去を依頼された「調和の日」には、歴史の表層には残されていない、この世界の根幹を揺るがす、恐るべき何かが起こったのだ、と。
この依頼は、単なる精神治療ではない。
これは、歴史を「作曲」し、人々の記憶を「演奏」させてきた、過去の偉大な調律師たちの、壮大なスコアを書き換えることを意味していた。
私は、トランクの金には触れず、楽譜を広げた。
「引き受けましょう。」
私が消そうとしているその一日の記憶の中にこそ、人類が本当に経験した、唯一無二の「真実」が隠されているに違いない。
それを知るには、まず、その「不協和音」の正体を、私自身が聴き取らねばならない。
イオは、依頼人が去った後、すぐに作業に取り掛かるふりをした。
しかし、彼の指が調整盤に触れることはない。
まず必要なのは、国民の記憶を消すことではなく、消去されるべき旋律を特定することだ。
最高指導者の側近は、特定の「一日」を指定した。
調律師にとって、この世界で最も扱いの難しい領域は、集団の記憶である。
個人の記憶は脳という受信機に固定されているが、集団の記憶は一つの巨大な波となって街全体に響き渡っている。
イオは、防音室の隅に立てかけてあったアンティークの巨大な「アエログラフ」を取り出した。
それは、空気中の記憶の粒子――アエロの密度と周波数を測定し、記録するための、過去の調律師が使っていたアナログな装置だ。
イオは、二年七ヶ月前の「調和の日」の、街全体のアエロの記録を検索した。
公式な記録媒体(国が管理するデジタルアエロメーター)では、その日は何の異常もない、平凡な一日として記録されていた。
しかし、イオは「ノイズの不在」を探した。
記憶とはノイズである。
人々の会話、感情の波、無意識の思考――それらがすべてアエロに乗って、常に街中をザワつかせている。
イオがアエログラフの古い感熱紙を注意深く解析したところ、驚くべき痕跡を発見した。
記録日時: 二年七ヶ月前、「調和の日」
時刻: 午後3時14分02秒から午後3時14分03秒まで
記録: 街全体のアエロノイズが、完全にゼロを記録。
「一秒の沈黙…?」
イオは息を飲んだ。
人間の都市において、アエロのノイズがゼロになる瞬間など、ありえない。
それは、街にいる数十万人の人間が、一斉に思考を止め、呼吸すら忘れたことを意味する。
記憶の粒子が、一瞬、存在を許されない空間。
これは、政府が消去を依頼した「一日」の、ちょうど真ん中に位置する、わずか一秒の異変だった。
この一秒の沈黙は、何かの巨大な出来事の「前触れ」や「結果」ではなく、出来事そのものだったのではないか。
人々の意識が停止した、その一瞬に、何かが起こった。
イオは、この異常な記録を誰かに確認する必要があった。
しかし、調律師の同業者に聞けば、すぐに最高指導者に知られるだろう。
彼は古い資料を漁り、過去の偉大な調律師たちの名簿の中から、一人の人物を探し当てた。
名を「ゲオルグ」という。
彼は引退した元調律師であり、現在は街外れの古びた工房で、記憶の旋律を調整するための道具――特殊な楽器や、アエログラフの精密部品――を作る楽器職人としてひっそりと暮らしていた。
ゲオルグは、現役時代に「街のノイズを聴き分ける耳」を持つと謳われた人物だ。
イオは工房を訪れた。
木の削りカスと、錆びた真鍮の匂いがする静かな空間だった。
「ゲオルグさん。お久しぶりです」
イオは切り出した。
老人は顔を上げ、彼の目を見た。
その目は、長年の調律で鍛えられた、深く、すべてを見透かすような光を宿していた。
「イオか。お前がここにいるということは、大口の不協和音が持ち込まれたか、それともお前の受信機が故障したか、どちらかだろう」
イオはごまかさず、単刀直入に尋ねた。
「二年七ヶ月前、『調和の日』の午後3時14分、街全体のアエロが一秒間、完全に静寂を記録した痕跡があります。この記録に心当たりは?」
ゲオルグの顔から、微かな笑みが消えた。
彼は手に持っていた、記憶の旋律を増幅するための音叉を、静かに作業台に置いた。
「それが、お前の『大口の不協和音』の正体か。イオ、お前は危険なものを聴き始めたぞ」
老人は静かに語り始めた。
「その一秒の沈黙は、『神の休符』と呼ばれていた。我々調律師の間で、伝説のように語り継がれてきた現象だ。
人々が信じる歴史の旋律が、一瞬途切れる。
それは、過去の偉大な調律師たちが、この世界の物語を『作曲』する際、決して触れてはならない、たった一つの『ミスノート』の痕跡だ」
そして、ゲオルグは工房の奥にある、埃をかぶった巨大なオルゴールを指差した。
「あの日に起こったことを、記録として残している人間はいない。記憶は上書きされ、歴史は改ざんされた。
だが、『ミスノート』――つまり真実の旋律の断片は、空気中を完全に漂い尽くすことなく、特定の『調律の道具』の中に、ごくわずかに閉じ込められることがある」
「イオ。最高指導者が、国民から消そうとしているのは、その『一秒の沈黙』の後に、人々が『何を聴いてしまったのか』、だ」
ゲオルグは、オルゴールをイオに手渡した。
「これを開けろ。このオルゴールは、その日に起こった『真実』の旋律の残骸を、特別に高密度で閉じ込めたものだ。
ただし、注意しろ。これは、お前の依頼人が消そうとしている、人類が本当に経験した、唯一無二の『真実』だ。
聴けば、お前の過去と、この世界の歴史が、すべて嘘だったと知ることになるかもしれない」
イオは、重厚なオルゴールを両手で受け取った。
彼の耳の奥で、まだ「一秒の沈黙」の後の、無数の人々の叫びのノイズが響いていた。
彼は、深呼吸をした。
そして、オルゴールの蓋に手をかけた。
イオは、埃をかぶった古びたオルゴールを抱え、自身の隠れ家に戻った。
ゲオルグ老人の警告が脳裏にこだまする。
「聴けば、お前の過去と、この世界の歴史が、すべて嘘だったと知ることになるかもしれない」
彼の仕事場には、調律師としての彼のすべてが詰まっていた。
記憶の周波数を微調整するための精密なダイヤル、不必要なアエロをフィルタリングするクリスタル、そして、彼自身の過去を記録した個人的なアエログラフの記録。
イオは、オルゴールをテーブルに置いた。
真鍮製の表面は冷たく、どこか遠い時代の手触りがあった。
彼は深呼吸し、心を鎮めた。
調律師は常に冷静でなければならない。
いかに強烈なノイズでも、感情に流されず、その周波数を正確に分析する必要がある。
彼は静かに、オルゴールの蓋を開けた。
内部には、通常ゼンマイと櫛歯があるべき場所に、透き通った青いクリスタルが埋め込まれていた。
それは回転せず、ただ静かに、空気中の光を反射していた。
オルゴールが、音を立てる代わりに、空気を震わせた。
イオの耳には、物理的な音ではなく、彼の調律師の能力によってのみ感知できる、高密度の「記憶の旋律」が直接流れ込んできた。
それは、二年七ヶ月前の「調和の日」、午後3時14分の「一秒の沈黙」の直後に、人々が聴き、感じた、集合的な経験の残骸だった。
流れ込んできたのは、単なる情報や映像ではなかった。
それは、世界のすべての「音」が一斉にズレた瞬間だった。
彼が見ていた部屋の壁の色、テーブルの木目、彼の着ていた服の色が、一瞬、彼が知っている「色」ではないものに置き換わった。
その色が何であったか、彼は定義できない。
まるで、この世界の物理法則に新しい色相が追加されたかのようだった。
数十万人の人間が、一斉に「自分たちが、同じ時間を共有していない」という恐怖を感じた。
一人は一秒を永遠のように感じ、別の人はその一瞬で人生のすべての出来事を経験したように感じた。
そして最も恐るべきは、「彼らが、自分たちの周囲に存在するはずのない何かを見た」という集合的な記憶だった。
それは、空中に浮かぶ巨大な幾何学模様、あるいは街の風景の上に重ね合わされた、別の世界の都市の残像のようだった。
だが、これらは前座に過ぎなかった。
旋律は、イオ自身の最も個人的なコアへと深く切り込んでいった。
「私」の記憶の崩壊
記憶の奔流が、イオの脳内の「受信機」を激しく揺さぶる。
イオは、彼が最も大切にしている、幼い頃の記憶を思い浮かべた。
彼の両親が彼に優しく微笑みかけている、暖かく安心できる記憶だ。
しかし、真実の旋律は、その記憶を激しく否定した。
『それは、お前の旋律ではない。』
イオの記憶の中で、微笑んでいたはずの母親の顔が、一瞬にして別の、見知らぬ女性の顔に置き換わった。
その女性は、イオに向かって「ここは、あなたがいるべき場所ではない」と、声にならない警告を発した。
彼の知る両親との思い出は、実は、彼ではない誰かの幼年期の経験を、過去の調律師たちが巧妙に彼の受信周波数に「調律」して組み込んだ、借り物の旋律だったのだ。
この世界が「歴史」と信じるものが、偉大な調律師たちの「作曲」であるならば、イオ自身が信じてきた「過去」もまた、彼らの「演奏」に過ぎなかった。
彼は、この世界の壮大な交響曲を奏でる、一人の演奏者に過ぎなかった。
そして最後に、オルゴールは一連の言葉を、イオの意識に直接叩きつけた。
「調和の日」の午後3時14分――
人々が「一秒の沈黙」から覚醒した瞬間、彼らは見知らぬ幾何学模様と、重ね合わされた別の世界を見た。
その光景は、彼らの脳に以下の真実を刻みつけた。
「この世界は、ある人物の『夢』によって構築されている」
「そして、その人物は、今、目覚めの瀬戸際にいる」
その一秒間、人々は、自分たちが『現実』ではなく、誰かの『記憶の世界』の中に生かされているエコーであると知ったのだ。
彼らは、自分たちの存在そのものが、偽りの旋律であると悟った。
イオは、激しい吐き気と目眩に襲われ、オルゴールから手を離した。
クリスタルの光が消え、静寂が戻った。
イオは、彼の調律師の能力をもってしても、この衝撃的な「真実の旋律」を、自身の記憶から消去することはできないことを悟った。
なぜなら、それは偽りの記憶を支える基盤そのものを破壊する、根源的なノイズだったからだ。
最高指導者が恐れたのは、国民が再びこの「真実」を思い出し、世界全体が「現実の崩壊」を迎えることだった。
彼らは、この誰かの夢の世界を、「歴史」という名の強固な旋律で縛り付け、維持しようとしている。
イオの脳裏に、一つのイメージが浮かんだ。
それは、彼自身の「借り物の」幼年期の記憶ではなく、真実の旋律の断片に紛れ込んでいた、一人の少女の顔だった。
その少女は、彼が「神の休符」の後に見た、別世界の都市の残像の前で、泣いていた。
彼女こそが、この世界を維持しようとする最高指導者たちが、その記憶を消そうとしている、「夢の持ち主」の真の姿なのかもしれない。
イオは、自室の床に崩れ落ちたまま、激しく鼓動する心臓を落ち着かせようとした。オルゴールが吐き出した「真実の旋律」は、彼の存在そのものを再定義してしまった。彼は、誰かの夢の中に存在する、偽りの過去を持つエコーだった。
しかし、イオは調律師だ。旋律が偽りであろうと、ノイズが真実であろうと、彼はその周波数を扱い、形を与えることができる。
「この世界が誰かの夢なら、その夢の持ち主を見つけ、目覚めさせてやればいい」
その少女が泣いていた。彼女の涙が、この世界で唯一の、彼女自身の感情、つまり「真実の旋律」の源である。最高指導者が消そうとしているのは、その涙の記憶、そしてそれを見た人々の集合的な「気付き」だ。
まず、最高指導者の監視を欺く必要があった。カロン閣下が、国民全員の記憶操作を依頼してきた以上、私の仕事場はすでに何らかのアエロ監視を受けているはずだ。
イオは、作業台の調律盤に向かった。
彼は、国民の記憶を「削除」しているかのように見せかけるため、最も大規模な記憶操作に似た特殊なノイズを生成した。それは、膨大な量の偽りの過去をランダムに生成し、それを街全体に広大な円を描くように放射する、複雑な人工旋律だ。この旋律は、監視側には「調律師が依頼された作業を開始した」という誤った信号を送る。
そして、彼は自身の受信周波数をわずかにずらした。これまでの彼の人生を構成していた「借り物の旋律」の層から意識的にズレることで、最高指導者側が流布している「偽りの歴史」のノイズが、彼自身に入り込むのを防いだ。
「これで、数時間は稼げる」
イオはオルゴールを厳重に封印し、次に、最も重要な手がかり、「泣いていた少女」の真実の旋律の断片に集中した。
イオがオルゴールから受け取った旋律は、単なる感情や映像ではなかった。それは、その場の空間情報をも含んでいた。
彼は、アエログラフの古い記録を再起動させた。「調和の日」、午後3時14分、街が「一秒の沈黙」に包まれた瞬間。その直後の、人々の「混乱」と「真実の気付き」のノイズが爆発した場所は、街のアエロ密度マップ上で、一点に集中していた。
それは、街の中心部にある、古びた「始まりの時計塔」だった。
時計塔は、この街で唯一、時報を物理的な鐘の音で鳴らす場所であり、過去の調律師たちが、時間の流れと歴史の旋律を一致させるための「調律の支点」として利用していた場所だという記録が残っていた。
少女は、まさにその「調律の支点」の真下で、泣いていた。
イオは、急いで上着を羽織り、隠れ家を出た。
「始まりの時計塔」の広場は、普段は人で賑わっているが、この時間は人気が少なく閑散としていた。イオは、その場所へ向かう途中で、周囲の人間から漂うアエロのノイズを注意深く聴き取った。
彼らの記憶は「調和の日」を滑らかに通過し、何の疑問も持っていない。最高指導者側の「歴史の作曲」は見事に機能している。
時計塔の真下に到着したイオは、目を閉じ、指先をわずかに震わせながら、空気中に残る「涙」の旋律の残響を追った。
それは、この場所から二年七ヶ月が経過してもなお、他のノイズに侵されることなく、土台の石畳にわずかに吸着していた。
イオは、その「残響」が最も濃い一点に膝をついた。石畳の隙間に、何かが埋まっている。彼は工具を取り出し、慎重に石畳をこじ開けた。
そこにあったのは、古びた音叉だった。
それはゲオルグ老人の工房で見たものと酷似しているが、柄の部分に、小さな文字が刻まれていた。
《私は、ここにいた。 I.Z.》
イオがその音叉を手に取った瞬間、周囲の空気が再び震えた。
「その旋律は、聴き過ぎない方が良い」
背後から響いた冷たい声に、イオは振り向いた。そこに立っていたのは、最高指導者の側近ではなく、全身を黒いフードで覆った、別の調律師だった。その人物の周囲には、イオがこれまでに感じたことのない、「絶対的な沈黙」のアエロが纏わりついていた。
「お前は、『調律師の規則』を破った。依頼された記憶を消す代わりに、その根源を探った。その音叉は、『夢の持ち主』が目覚めかけた時に、唯一残した『真実の音』だ」
フードの人物は、手を差し出した。
「それを私に渡せ。これは、最高指導者カロン・ザナドゥ閣下が、世界の『調和』を維持するために、永遠に消し去ると決めた旋律なのだ」
イオは音叉を握りしめた。この人物は、最高指導者の最も忠実な「消音師」であり、イオの偽りのノイズを見破り、後を追ってきたのだ。
「消音師」は動かない。そのフードの下から覗く顔は、感情の一切を排した静謐な表情をしていた。周囲のアエロが、彼を中心に凍りついているかのように感じられる。
「崩壊させるつもりはない。ただ、誰の記憶の上で生きるのかを、自分で選びたいだけだ」
イオは、手に握った音叉(I.Z.)を少し持ち上げた。音叉は、真実の旋律を微かに発振している。それは、偽りの調和を体現する消音師にとって、耐えがたいノイズであるはずだ。
「無駄だ、イオ。私は『調律院』の最高位にある者。お前の小細工は通じない」
消音師はそう言って、ポケットから黒曜石のような光沢を持つ小さなペンダントを取り出した。それは、調律師が最も強力な記憶の奔流を制御するために使う、「旋律の錨」だ。
調律師同士の戦いは、肉体の衝突ではない。それは、互いの脳の受信周波数を操作し合い、相手の精神にノイズや偽りの記憶を叩きつける、静かで苛烈な周波数のデュエルだ。
消音師は、ペンダントを静かに握りしめた。その瞬間、イオの周囲の空間から、すべての記憶のノイズが吸い込まれた。
イオの耳から、街の喧騒、遠い車の音、風の音、そして彼の思考すらも消え去る。これは、物理的な音の消去ではない。彼の脳の受信機が、周囲の存在そのものの旋律をキャッチできなくなったのだ。
意識が途切れる寸前、イオは最後の手段に出た。彼は手に持つ音叉、「I.Z.の真実の旋律」を、意識的に最高周波数まで増幅させた。
「消音師! お前が維持しようとしているのは、嘘の上の嘘だ! これを聴け!」
音叉から放たれた旋律は、人類が自分たちの存在が偽りであると知った、あの瞬間の集合的恐怖を、凝縮して放出した。それは、消音師が最も忌み嫌い、消し去ろうとしてきた「真実のノイズ」だ。
漏れ出したのは、たった一瞬の映像だった。
映像:まだ若い消音師が、真実の旋律を聴く前の、穏やかな顔で、誰かに別れを告げている。
場所:それは、まさにこの「始まりの時計塔」の下。
相手:彼は、あの音叉にイニシャルを刻んだ「I.Z.」という名の、少女ではない、若い女性と話していた。
イオは理解した。この消音師もまた、かつては真実を知っていた人間だった。そして、彼は自分の愛する人――「I.Z.」という名の女性――と、ここで別れ、「調和」を選ぶ道を選んだのだ。
「I.Z.は…あなたの、誰だった?」イオは囁いた。
消音師は、すぐに自身の旋律を修復し、再び絶対的な沈黙を纏った。しかし、彼の目の奥には、消し去れないわずかな動揺が残っていた。
「その真実を知ることは、お前の死を意味する。I.Z.は、『夢の持ち主』とは別のものだ。彼女は、世界が崩壊する真実を知りながら、それを『詩』として書き残した者。その詩が、この世界を不安定にしている」
消音師は、イオに近づいた。
「この音叉の文字を読め。I.Z.。これは、お前の名前と同じイニシャルを持つ、イオ・ザナドゥという女性が刻んだものだ。そして、ザナドゥは、最高指導者カロン・ザナドゥの姓だ」
最高指導者の姓。そして、イオと同じ「イオ」という名。
真実の旋律の源である「夢の持ち主の少女」と、その真実を詩として残した「最高指導者の血縁者」であるイオ・ザナドゥ。二つの「イオ」が、この世界の秘密に深く関わっている。
音叉の反動で、消音師の動きが一瞬遅れた。イオは、この隙を逃さない。
彼は、最後の切り札を使った。彼は、周囲の人々が普段聴いている「偽りの旋律」を、あえて大音量で掻き鳴らした。
『偽りの喜びの奔流』:街に響き渡る、無数の人々の「昨日の楽しかった記憶」「来週の幸せな計画」といった、無垢で強固な偽りの記憶が、一斉に増幅され、消音師に逆流した。
「沈黙だけでは、偽りの旋律は消せない!」
消音師は、自分の周囲に張り巡らせた「沈黙」の結界を、この陽気で無邪気な「偽りのノイズ」の奔流で破られた。彼は、無数の幸福な偽りの記憶に一時的に埋没し、動きを止めた。
イオは、音叉を握りしめ、時計塔の陰へと駆け出した。彼の耳には、音叉から微かに響く、I.Z.の声が聞こえていた。それは、まるで彼に何かを「歌いかけよう」としている旋律のように感じられた。
イオは、自らの隠れ家に戻ると、扉に幾重もの周波数ロックをかけた。最高指導者の「消音師」は、すぐに追ってくるだろう。時間はない。
彼は、音叉を、特別に設計された記憶増幅装置――彼の作業台の中央にある、繊細なガラスのドーム――に設置した。通常の音叉なら物理的な音を鳴らすが、この「I.Z.」の音叉は、純粋なアエロの波、つまり「記憶の旋律」を空気中に発振する。
イオはヘッドセットを装着し、発振される旋律に全神経を集中させた。
音叉から聞こえてくる旋律は、これまでの記憶のノイズとは全く異なっていた。それは、個人の感情の爆発でも、集合的な恐怖の残響でもない。極めて冷徹で、数学的な、そして美しい構造を持っていた。
それは、まるで誰かが、言葉を隠すために音符を使ったかのようだ。
旋律は、不規則な間隔で「休符」を含んでいた。イオはすぐに、それが一般的な音楽の拍子ではなく、「詩の韻律」に基づいていることに気づいた。特定の韻を踏む位置や、行の切れ目で、アエロの波がわずかに乱れる。
音叉の振動周波数の微細な変化は、単なる音高ではなく、図書館の「分類コード」を指し示していた。
イオは、自身の最も得意とする分野である「旋律の逆行解析」を駆使した。韻律を言葉に、周波数を数値に変換していく。
数分後、彼の作業台のディスプレイに、分析結果が浮かび上がった。
音叉が示した手がかりは、場所と、対象となる文書だった。
場所:国立中央図書館、「調律院」制限閲覧セクション
対象:過去の偉大な調律師――歴史上の人物として知られる「夢の作曲家」、アウグストゥス・ノウムの全集
「夢の作曲家」アウグストゥスは、この世界が「歴史」と信じている物語の大部分を「作曲」したと伝えられる、古代の調律師だ。最高指導者カロン・ザナドゥも、彼の子孫にあたると言われている。
イオは、音叉が具体的に示したのは、アウグストゥスの全集の中でも、最も難解で、通常は閲覧が許可されない『調和論第12巻』であることを確認した。
そして、最も重要な解読結果が続いた。
旋律の韻律は、この『調和論第12巻』の「隠された詩」の、具体的な位置を指していた。それは、巻末の解説ページに印刷されている、何の変哲もない「索引」の並び順に、暗号として隠されていた。
「真実は、歴史の影に、調和の旋律として埋め込まれている。その詩は、歴史を『作曲』した偉大な調律師の最も公的な著作にこそ、隠される」
イオは、I.Z.ことイオ・ザナドゥが、最高指導者の監視を逃れるために、この方法を選んだことを悟った。最高指導者の祖先による、誰もが歴史の根幹と信じる書物の中に、真実を隠したのだ。最も大胆で、最も安全な隠蔽方法だった。
彼女のメッセージは、こうも伝えていた。
「『夢の持ち主』は、『偽りの旋律』を最も純粋に、最も近くで聴く場所で待っている」
この「偽りの旋律を最も純粋に、最も近くで聴く場所」とはどこだろうか?
イオは、国立中央図書館の構造を頭の中で思い描いた。図書館は、国民全体に偽りの歴史の旋律を絶えず流し続ける、巨大な「放送塔」の役割も果たしている。
図書館の最深部、制限閲覧セクションには、アウグストゥスの自筆原稿が保管されている、「沈黙の円形閲覧室」がある。その閲覧室は、アエロのノイズを完全に遮断する設計になっており、最も純粋な状態で、図書館の「歴史の旋律」の反響を聴き取れる唯一の場所だと、調律師の間では知られていた。
イオは、音叉をコートの裏に隠した。
「最高指導者の血縁者、イオ・ザナドゥは、世界が崩壊する真実を知りながら、それを隠蔽する側に回らず、詩として残した。彼女は、この世界の真実を知る鍵だ」
イオの脳裏に、先ほどの「消音師」の顔が浮かんだ。彼は、I.Z.を愛しながら、真実を捨てて「調和」を選んだ。その動機は、おそらく、この世界の「夢の持ち主」が、目覚めてしまえば、全てが消滅するという恐怖からだろう。
イオは、今、二つの選択肢に直面している。
国民の記憶を操作し、偽りの調和を維持する。
真実の詩を読み解き、「夢の持ち主」である少女を見つけ、世界の終わりへと進む。
イオは迷わなかった。借り物の過去の上で生きる「エコー」ではなく、自らの意思で歩む「現実」を選んだ。
彼は、偽りのノイズで武装し、国立中央図書館へと向かって歩き出した。図書館は、最高指導者の権威の象徴であり、最も強固な監視下にある場所だ。
国立中央図書館は、石造りの巨大な要塞であり、国の歴史と権威の象徴だ。その内部は、過去の調律師たちが何世紀にもわたって「作曲」してきた、強固な偽りの歴史の旋律が、常に低く響いている。
イオは、図書館の裏口から、細工を施した電子錠を開け、静かに侵入した。彼は、自身が放った偽りの記憶削除ノイズがまだ有効であることを確認した。そのノイズは、図書館のセキュリティシステムにも影響を与え、イオの動きを一時的にカモフラージュしていた。
図書館内部は、肉眼では見えないが、微細なアエロの監視網が張り巡らされていた。これは、不審な思考や、歴史に対する疑問を抱いた者の感情を察知するための「監視アエロ」だ。
イオは、自身の周波数を受信拒否状態にしつつ、周囲の監視アエロに「調律師が、機密文書のチェックのために公式に立ち入っている」という、偽の「公式旋律」を静かに流し込んだ。
階段を昇るたびに、彼は周囲の棚から流れ出る歴史の旋律を聴いた。
『最高指導者カロン・ザナドゥは、国を救った偉大な賢者である』
『この世界は、遠い昔、神々の手によって完璧に創造された』
全ての言葉が、まるで一つの巨大なオーケストラのように、完璧な「調和」を奏でていた。
やがて、イオは図書館の最深部、地下にある「調律院」制限閲覧セクションの厳重な扉の前に到着した。
扉をくぐると、そこは外界とは完全に隔絶された空間、「沈黙の円形閲覧室」だった。
部屋の中央には、過去の偉大な調律師たちの自筆原稿が収められた、円形のガラスケースが鎮座している。部屋の壁は特殊な素材で覆われており、外部のノイズを完全に遮断していた。
しかし、イオの耳には、その「遮断された沈黙」こそが、彼が追う次の手がかりだった。
「『偽りの旋律』を最も純粋に、最も近くで聴く場所」
この部屋は、外部のノイズがないがゆえに、この図書館全体が発する「偽りの歴史の旋律」の、最も純粋で強力な反響が壁全体に張り付いていた。それは、澄んだ水の中に映る、ゆがみのない嘘の姿だった。
イオは、ガラスケースの中の古びた革表紙の書物を特定した。『調和論第12巻』、著者:アウグストゥス・ノウム。
彼は、特殊な許可証の偽造コードを使ってケースを開け、その書物をそっと取り出した。
イオは、音叉の旋律が示したページ、巻末の索引へと飛んだ。
索引の単語の並びは、一見ランダムに見える。しかし、イオは音叉の韻律に従い、特定のキーワードを頭の中で拾い上げ、繋ぎ合わせた。
「夢…」
「瞳…」
「時計…」
「姉…」
「二度目の…」
キーワードを詩の形式に並べ替えると、イオの脳内に、I.Z.ことイオ・ザナドゥが残した「真実の詩」が、明確な旋律として響き渡った。
「夢は砕け、調律院はそれを縫い合わせた。
姉妹の瞳が捉えた、偽りの空の色を。
時計塔の下、一秒の静寂。
幼い姉が刻んだ、最初で最後の真実。
夢の持ち主は、今も眠る。
彼女が目覚めれば、世界は二度目の崩壊を迎えるだろう。
偽りの旋律を最も近くで聴く場所、そこで、私は待っている。
私のすべてを、君に託す。」
イオは、詩を読み解きながら、頭の中で二つの重要な点を結びつけた。
「姉妹の瞳」と「幼い姉」: I.Z.には妹がいた。そして「夢の持ち主」は、この詩を残したイオ・ザナドゥの妹ではないか? 詩の「幼い姉が刻んだ」という表現は、自分が姉として妹に真実を託したことを意味している。
「偽りの旋律を最も近くで聴く場所」: 詩の中で繰り返されたこのフレーズは、図書館の「沈黙の円形閲覧室」を指していると思われたが、それは間違いだった。
真に「偽りの旋律を最も純粋に、最も近くで聴く場所」とは、その旋律が常に流され続けている、最高指導者の権威の中枢だ。
最高指導者カロン・ザナドゥの居城、その最上階にある、歴史と調和を維持するための巨大な発信装置の心臓部。
そして、詩の最後の行。
「私のすべてを、君に託す。」
イオは、自分のコートの内ポケットに隠した、音叉(I.Z.)を強く握りしめた。これが、イオ・ザナドゥが彼に託した「すべて」だ。
その瞬間、閲覧室の扉が、外側から激しく叩かれた。
「調律師イオ・ヴィーナス。直ちに応答しろ! お前の偽りのノイズは、もう通用しない!」
「消音師」が追いついたのだ。彼に与えられた時間は終わった。
イオは、『調和論第12巻』を元の場所に戻すと、真実の詩を胸に刻み、閲覧室の非常脱出口へと身を翻した。
彼が向かうべき場所は、決まった。最高指導者の居城。そこで、彼は、この世界の夢の持ち主である「妹」と、かつてその夢を守ろうとした最高指導者カロン・ザナドゥと対峙することになる。
居城への潜入
イオは、図書館の非常脱出口から脱け出し、最高指導者カロン・ザナドゥの居城、「調和の塔」へと向かった。塔は、街全体を見下ろす最も高い位置にあり、その最上階には、偽りの歴史の旋律を絶えず街に放射する巨大な装置が収められている。
彼は、調律師としての身分と、事前に生成しておいた最高機密の業務遂行ノイズを駆使し、警備の網をすり抜けた。
エレベーターを使い、誰も立ち入らない最上階へ。扉が開くと、そこは機械の唸りと、純粋な偽りの旋律の発振音で満たされた、広大な円形の部屋だった。
部屋の中央には、天蓋に届くほどの巨大な「調律装置」が鎮座している。それは、街の全住民の脳に直接、偽りの記憶を「作曲」し、演奏し続ける、世界の心臓部だ。
そして、その装置の真下、最も純粋な「偽りの旋律」が渦巻く場所に、二つの存在があった。
最高指導者カロン・ザナドゥ:老齢だが威厳のあるカロンは、調律装置のコンソールに立っていた。彼の表情は疲弊し、その瞳には、世界の重荷を背負った孤独な調律師の影が宿っていた。
夢の持ち主の少女:コンソールの隣にある、アエロを遮断する特殊なガラスドームの中に、少女が眠っていた。彼女の顔は、イオがオルゴールで見た映像と全く同じだった。彼女の穏やかな寝顔から、この世界のすべてが発せられていることが、イオにはわかった。
イオが入室すると、カロンは静かに振り返った。
「来たか、イオ・ヴィーナス。お前が私の依頼を裏切り、真実を追うとは知っていた。私の血を引く姉の『詩』に導かれたか」
「イオ・ザナドゥは、あなたにとって何だった?」イオは尋ねた。
カロンは、深く息を吐いた。
「私の娘だ。そして、そこに眠る彼女――私の次女、ユメ――の『調律師』だった」
イオは愕然とした。ユメ。夢の持ち主の少女の名。
カロンは話し始めた。
「この世界は、ユメが『孤独』を避けるために創り出した、彼女自身の『夢』だ。ユメは、あまりに感受性が強く、現実のノイズに耐えられなかった。だから、私と娘のイオは、調律師として、彼女の夢を『調和』させ、安定させる役割を担った」
「しかし、調和とは偽りだった」イオは鋭く言った。
「そうだ。真実を話せば、ユメは孤独から覚醒し、夢から覚める。ユメの意識が現実に戻る瞬間、彼女の夢であるこの世界は、完全に消滅する。姉は、その真実を知って、私たちに抗った。『真実の旋律』を、あの音叉に残し、詩を書き残して…そして、二度と目覚めることはなかった」
カロンは、コンソールに手を置いた。
「私の目的はただ一つ。ユメに永遠の安らぎを与えること。世界を永遠に存在させること。そのためには、あの『調和の日』に生まれた、お前たち国民の『真実の気付き』というノイズを、完全に削除する必要があるのだ」
その時、背後の扉から、あの黒いフードの消音師が入ってきた。
「閣下、イオ・ヴィーナスを捕らえました。これより、彼の『自己防衛周波数』を破壊し、記憶を『調律院の忠実な僕』として再構成します」
「待て」カロンが言った。「最後の選択は、彼自身にさせよう」
カロンは、イオに音叉を差し出すよう求めた。
「イオ・ヴィーナス。お前がその音叉を持っている限り、私の娘が残した真実の旋律は、この世界を不安定にし続ける。それを私に渡せば、お前は英雄として、国民の記憶を永遠に守った調律師として生きられる。そして、この世界は調和を保つだろう」
イオは、音叉を握りしめた。彼の頭の中には、I.Z.が残したメッセージが響いている。
「私のすべてを、君に託す」
イオは、ユメの眠るガラスドームに近づいた。
「ユメ。目を覚ませ。お前の夢の調律師は、もういない」
カロンが、怒りの声を上げた。「やめろ!」
消音師が、イオに向けて、再び『絶対沈黙』の旋律を放った。イオの脳が、すべてのノイズを遮断され、再び偽りの記憶に襲われそうになる。
しかし、イオはすでに、調律院の偽りの旋律を解析し尽くしていた。
彼は、消音師の放つ「沈黙」の周波数に、自身の最も純粋な感情を込めて、I.Z.の音叉の旋律を重ね合わせた。
音叉の旋律は、沈黙を貫き、ユメの眠るガラスドームに直撃した。
その旋律は、真実の愛の音だった。姉イオ・ザナドゥが、妹ユメにかけた、偽りのない別れの言葉の旋律だ。
ユメの瞼が、わずかに震えた。
「ユメ、目を開けろ!」イオは叫んだ。
ユメの瞳が、ゆっくりと開かれた。彼女の目がイオを捉えた瞬間、調律装置から流れていた偽りの歴史の旋律が、突如として不協和音に変わった。
世界が、揺らぎ始めた。
カロンは絶望的な顔で叫んだ。「ああ、イオ! お前は、世界を殺したのだ!」
カロンは、調律装置の破壊ボタンに手を伸ばした。装置が破壊されれば、ユメの夢の暴走を止める手立てはなくなる。
イオは、最後に残された力で、ユメの『真実の涙』の旋律を増幅し、消音師の全身に叩きつけた。
「目を覚ますんだ、ユメ! お前の孤独は、誰も否定しない!」
ユメは、ドームの中で、小さく泣いた。
その一滴の涙が、世界の終焉を告げる『終止符』となった。
ユメが目覚め、彼女の夢であるこの世界全体が、光の粒子となって崩壊し始める。塔の壁、巨大な調律装置、そしてカロンの姿までもが、砂のように崩れていく。
カロンは、崩壊する瞬間に、涙を流しながらイオに言った。
「ありがとう、イオ… お前は… 娘たちを… 救ったのだ…」
消音師もまた、沈黙の旋律を諦め、安らかな顔で光の粒子となった。
イオは、崩壊する光の中で、ユメの手を握った。
「大丈夫だ。真実はノイズじゃない。始まりだ」
そして、光がすべてを飲み込んだ。
エピローグ 残響の向こう側
イオが目を開けると、彼は病院のベッドに横たわっていた。
周りには、現代的な医療機器が並んでいる。窓の外には、高層ビルと、騒々しい街の現実の風景が広がっていた。
「目が覚めましたか、イオさん」
隣には、医師が立っていた。
「ここは…?」
「現実世界ですよ。あなたは、二年間、原因不明の昏睡状態にありました。あなたの妹のユメさんが、ずっとそばにいてくれました」
イオは、病室の椅子で眠っている少女を見た。彼女は、夢の中で見たユメと瓜二つだったが、その顔には、孤独や恐怖の影はなく、安らかな寝息を立てていた。
そして、部屋の隅には、もう一人。
「お前は、この世界でも私を追うのか」
イオは、思わず口にした。そこに立っていたのは、あの消音師と瓜二つの顔を持つ、現実世界の調律師だった。彼は、にこやかに微笑んだ。
「ようこそ、現実へ。私は、君たちの主治医です。夢の中の記憶が鮮明すぎるようですね」
彼は、イオのベッド脇に置かれた小さなオルゴールに目をやった。それは、夢の中で真実の旋律を奏でた、まさにそのオルゴールだ。
「あなたの昏睡は、妹さんのユメさんが精神的なショックから作り上げた『世界という名の逃避の夢』に、あなたが巻き込まれていたからです」
医師は続けた。「私も、イオ・ザナドゥ先生も、夢の中のあなた方と同じ調律師です。私たちは、ユメさんの夢の暴走を止めるために、あなたの意識を『ヒーロー』として夢に送り込み、真実の旋律を届けさせました」
「I.Z.の詩と、音叉の旋律は…」
「すべては、ユメさんの夢からあなたを覚醒させるために、現実の調律師たちが仕込んだ『脱出の旋律』です。あなたの姉も、あなたの無事を祈っていました」
イオは、現実の姉イオ・ザナドゥの顔を見て、涙を流した。彼女は、夢の中で自らを犠牲にした姉の記憶と、現実の姉の姿が重なり、混乱した。
ユメが目を覚まし、イオに飛びついた。
「お兄ちゃん! ずっと夢の中にいたんだよ。もう、どこにも行かないで」
イオは、ユメを抱きしめた。
「ああ、もう大丈夫だ。もう、誰も偽りの旋律を聴く必要はない」
イオは、現実の世界で、ユメとともに生きていくことを選んだ。彼は、夢の中で得た「調律師」としての真の力を、現実のユメと、現実の世界のノイズと調和するために使うだろう。
(終)




