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水槽の中の記憶

作者: 夜宵 シオン

「あの水槽、タダでいいから持ってってくれ。気持ち悪いんだよ」


老舗の熱帯魚店で働く僕、健太は、取引先の骨董品屋の主人の言葉に困惑した。屋敷の遺品整理で出てきたという大きなアンティークの水槽は、ガラスが分厚く、真鍮の装飾が施された見事な逸品だ。しかし、なぜか常に水が満たされており、どんなに水を抜いても翌日には元の水量に戻っているという。まさか、そんな馬鹿な、と半信半疑で引き取った僕だったが、それは現実だった。


店の片隅に置かれたその水槽は、確かに水を抜いても抜いても、次の日には不思議と満水になっている。しかも、その水は、ごくごく僅かながら、微かに生温かいのだ。まるで、生き物の体温のように。


ある夜、閉店作業を終え、誰もいなくなった店内で、僕はその水槽をじっと見つめていた。すると、水面に、揺らめく影が映った。それは、僕の顔ではなかった。着物を着た若い女性の顔が、水底からこちらを見上げている。驚いて目を凝らすと、その顔は瞬く間に消え、代わりに、古い屋敷の一室が水中に映し出された。


それは、水槽の元の持ち主が住んでいた屋敷の、どこかの部屋のようだった。僕は、その光景に吸い込まれるように水槽に顔を近づけた。すると、水中の映像は鮮明になり、まるで僕自身がその部屋にいるかのように感じられた。


映し出されたのは、水槽の横に座り、熱心に魚を眺める若い女性の姿だった。彼女は、優雅な指で水槽のガラスをなぞり、楽しそうに微笑んでいる。しかし、次の瞬間、映像は激しく乱れ、女性が突然苦しみだし、水槽の中に倒れ込む姿が映し出された。そして、水槽の底に沈んでいく彼女の体が、ゆっくりと水と一体化していくような、おぞましい光景が広がった。


僕は、ぞっとして水槽から顔を離した。まさか、この水槽は、ただの映像を映しているだけじゃない。これは、水に引き寄せられた魂の記憶、あるいは、魂そのものを閉じ込めているのではないか。


その日から、僕の生活は一変した。夜になると、水槽の中には様々な光景が映し出されるようになった。女性が苦しむ姿、屋敷の主人らしき男が女性を罵倒する声、そして、水中で助けを求める無数の泡……。それらの映像は、どれも悲劇的なもので、見れば見るほど、僕の心は重く沈んでいった。


そして、最も恐ろしいのは、僕自身もまた、水槽に引き寄せられているように感じ始めたことだ。水槽の前に立つと、冷たい水温なのに、どこか温かい、不思議な感覚に包まれる。水中の女性の顔が、僕に向かって、かすかに微笑む。


「こちらへ……」


僕は、その誘惑に抗いながらも、なぜか水槽の水を触ってしまった。すると、僕の指先から、冷たい水が吸い込まれるような感覚がした。そして、その瞬間、水槽の映像が、より鮮明になった。まるで、僕自身が、その記憶の中に引きずり込まれていくかのように。


僕は、この水槽が、単なるアンティークではないことを確信した。これは、魂を捕らえる牢獄なのだ。そして、過去の記憶を映し出すことで、新たな魂を誘い込もうとしている。


僕は、震える手で水槽の栓を開けた。水を全て抜けば、この呪われた水槽から解放されるはずだ。だが、栓を抜いても抜いても、水は減らない。いや、むしろ、ゆっくりと水位が上がっているように見える。


水槽の水は、僕の膝まで達し、そして、腰まで来た。僕は、水槽の中に立っていた。水面には、僕自身の顔と、あの女性の顔が重なって映っている。女性は、満足そうに微笑んでいた。


「ようやく、仲間が増えたわ……」


水は、僕の首まで達し、そして、僕の口を覆った。僕は、もはや呼吸することもできなかった。水槽の中の記憶は、永遠に僕の魂を閉じ込めるだろう。そして、この水槽は、また新たな持ち主を求め、静かに水を湛え続けるのだ。



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