私は決して忘れません
部屋には黄昏の微かな光と影が落ちている。
ヨーゼフは居間の椅子に腰かけ、ムシュナに筆を走らせている。机の上には街の人々から聞いた話のメモが置かれていて、その情報をまとめて清書している。
すると階段から足音が聞こえる。ヨーゼフは筆を止めて目を向けると、扉を開けてアイレットが入って来る。
「おや、どうなさいましたか?」
「……別に。ただの気まぐれよ」
アイレットはぽつりと言う。
「お二人なら、今外出してます」
「だから降りて来たの」
アイレットは机の上に広がった羊皮紙に目を向ける。そこには神経質ともいえる大きさの揃った綺麗な文字で、びっしりとアイレットについての情報が書き込まれていた。
「適当にやるんじゃなかったの?」
アイレットは苦笑いして尋ねる。
「あいにく、性分みたいです」とヨーゼフは笑う。
「そんなに無理しなくていいよ。どうせみんな私のことなんて忘れるんだから」
「そんなことはありません。これがあればあなたの記録は永遠に残ります。公国のアーカイブに保存され、親族やご友人であればいつでも見ることができるのです」
「お父さんやお母さんは見に来ない。わかるわ」
「不思議なもので、記憶から消えてもその人に抱いていた強い感情は完全に消えず、身体に残ることが多い。だから皆、存在しなくなった愛しい人を思い出しに、記録を見に来るのです」
「だったらなおさら、あの二人は来ない」
アイレットは少し悲しそうに笑って言う。
「……ペチカ様も、見ることが出来ますよ」
「ううん、あの子も忘れる。でも、あの子にとって、それが正しいのよ」
寂しそうに笑うアイレットを見てヨーゼフは言う。
「忘れることを望んでいるから、だから、わざとペチカ様を避けているのですか?」
「……」
沈黙するアイレットの手にはペチカからもらった人形が握られている。ヨーゼフはアイレットの眼を見る。そして、ムシュナからは目を離したまま、唱える。
アイレット・メリー。354年、北部ホローク村にて、石工職人であるダフネスと機織りの家の娘ウシカのもとに生まれる。兄弟には三つ上の長男チャチャムがいる。産婆の話では大変な難産であり、生まれた後もメリーは意識を一度失い、死の淵を彷徨ったが、ダフネスと産婆の必死の介護により無事回復する。
……
赤子の頃から身体が小さく病気にかかりがちだったことからウシカとダフネスは家から出したがらなかった。そのため家で本を読んで育つようになる。好みの本は児童書から植物、動物の図鑑、騎士道物語や幽霊小説。好奇心旺盛であり、兄と一緒に外に出るようになると山の生物や、天体にも興味を持つようになる。一度家に大量の両生類を持ち込んで両親に大目玉を喰らったこともある。
……
部屋の整理は苦手でよくウシカに注意されていた。暗記が得意であり、教会学校の成績は常に一番。司祭の話によると、「大変明晰で正義感が強いしっかり者」
ヨーゼフの言葉から次々ととめどなく出てくる自分の情報を、アイレットはただ黙って聞いていた。やがてヨーゼフは息を止め、アイレットの目を見つめてたまま言う。
「私は決して忘れません」
アイレットはその言葉を聞いて思わずうつむいて、何かをこらえるように肩を震わせる。
やがて、ヨーゼフに微笑みかけて
「行きたい場所があるの」