消えてゆく人々のこと
アイレットは一人部屋のなかにいた。
本を読むのにも飽きて、部屋の壁にある染みの一点をじっと見つめる。点は薄闇の中で大きく見えたり小さく見えたりする。
もうすぐ自分は消えてしまう。
三週間ほど前に印が現れた時、どうしようもない理不尽と恐怖を感じた。どうして自分が? どうして自分に? 湧き上がって来た言葉はそれだけだった。
それから眠れない夜が続いた。うまくいかない世界を恨んだ。今はそれにも疲れ果てて、何もしたくなくなっていた。
消滅病の知識は過去に読んだ本で知っていた。
半世紀前に突然現れた悪意のような病。薔薇の形をした印はどんどんと色を濃くしていき、やがてその印から不気味な色の光が発せられ、光は宿主が生きて来た証である全てを消滅させる。その人物が存在した他者の記憶すらも。
かつて呪いは周囲に伝播すると伝えられ、印が現れた者は消滅するまで隔離されたという。
やがて病に選ばれるのは本当にきまぐれだとわかる。そこには何の共通点も、理由もない。悪しき神の意志による、ただのきまぐれ。
アイレットは思った。家族も、愛する人もいないまま、壁に囲まれて絶望しながら消えていく者を。
「それと比べたら、わたしはまだましなのかな」
アイレットはつぶやく。
階下から騒がしい音が響く。父が帰って来て、また母と喧嘩しているのだろう。
ふとアイレットは窓の外を見る。雪の降る中、山の白い稜線が聳えている。
いつか兄に連れられていった、あの山。あの星空。そしてあの景色。
星と亡霊に導かれるように、アイレットは窓を開ける。冷たい空気が暗い部屋に入り込んでくる。
ここから飛び降りて、家を逃げ出したらどうなるだろうか。地面に降り積もる雪は、私を受け止めてくれるだろうか。それとも……いや、何を考えてるんだろう、もうすぐ消えてしまうのに、と、アイレットはこの身を案じている自分がおかしくなった。
「アーーーちゃん!」
遠くの通りから、ペチカがこちらに向かって手を振っていた。その隣にはランプを持ってヨーゼフのほほ笑む姿が。
ペチカの、悲しみの混じったような笑顔を見て、思わずアイレットは扉を閉じた。
閉じた手が震えていた。