34.05:兄上
ヒーバというのは、毛だらけのずんぐりむっくりとした、赤い熊みたいなモンスターなんだけれど、頭が肩にめり込んだみたいになってて、首を刈り取る訳にいかず、倒しにくいんだよね。
前足三本の長い爪が鋭くて、ちょっと引っかけられてもザクって切れて、血が凄く出る。血管の太いところをやられたら死んじゃう。
そのヒーバをね。
今日クロエが、一人でやっつけた。
フェイントを覚えたから簡単だって。
頭が身体に埋まっているってことは、視野が狭く、側面からの攻撃に弱い。
クロエは、自分をおとりにして、向かって来たら横に避けて攻撃して。
また向かってきたら、避けて、ガンってね、小まめに削っていって、そのうち爪も切り落としてた。
僕なら、力任せに一撃で倒すんだけれど、クロエはしっかりと、自分でも勝てる攻撃方法を考えていたんだ。
だんだんヒーバの動きが鈍くなってきたところで、クロエは飛翔棍をつっかえ棒のようにして、跳んだ。
そして、真上から、貫いた。
あの瞬間の、凶暴な、自信に満ちた彼女の美しい表情は、今のところ僕しか知らない。
語り終わってうっとりしているマクシミリアンの前には、鉄格子があった。
壁に取り付けられた灯り用の魔石は、魔力切れ寸前らしく、薄暗い光を周囲に投げかけている。
ガーディアン事務所に設けられた留置所には、分厚い間仕切りに仕切られた雑居房が幾つかあったが、彼が立っているのは最奥の房の前だ。留置場内には窓の類いはなくて、壁の高い位置についている換気用の穴から、生暖かい空気が流れ込んでくる。
マクシミリアンは薄いシャツとズボンという出で立ちだった。留置場内の暑さに、シャツが少し濡れて背中に張り付いている。彼は最近、狩猟に行く時以外は軽装である。
「帰れ」
牢の中の人物は、配膳用の木箱を抱き締めている。その古い木箱には、かつてここに留め置かれた人達が食べこぼしたのであろう、汚いシミがあちこちに目立つ。
「帰ってくれ」
「クロエはお前と三年間、お茶を飲んだだけだと言っていた。花の話ぐらいしかしていないんだって?」
「そんなはずはない。彼女が覚えていないだけだ」
ふと思い出したようにウイリアムは、木箱から顔を上げた。
「アレクサンドラは、私の顔や、髪が好きだったはずだ。髪ばかり見ていた」
「髪?」
「そうだ。どうして髪ばかり見るのか訊いても、上品に微笑むだけで、教えてはくれなかった」
「クロエは、僕の頭をよく撫でてくれる」
マクシミリアンは、得意げだ。
「お前はちっとも可愛くないから、撫でてもらえなかったんだろう」
「男が可愛くないからどうだと言うんだ」
むっとした声で、ウイリアムは応じる。
「……そういえばアレクサンドラは、私の髪に触れてきた事があったな。確か、細い髪は危険だと言っていた」
「ああ」
マクシミリアンは、優越感に浸っていた。
「細過ぎる髪は抜けやすくて危ないんだって。僕はお前と違って、細くないから大丈夫って言ってくれた」
「私が禿げるとでも言いたいのか?!」
一瞬声を荒らげたウイリアムは、はっとした顔になって、再び木箱に顔を伏せる。
「なぜ私は、こんな場所で、こんな馬鹿と、こんなくだらない会話をしているんだ」
「誰かが僕を馬鹿って言うと、クロエは凄く怒る」
マクシミリアンは幸せそうな顔をする。
「彼女は、僕が大好きだから」
「どうしてこうなったんだ。本当なら私は、貴族学園を卒業した後、アレクサンドラと結婚して、王太子としての立場を固めていたはずなのに」
悔恨の言葉がウイリアムの口から漏れる。
「くだらない女の策略に嵌まったせいで……」
鉄格子が蹴り飛ばされて、音を立てた。
「クロエが、お前なんかと結婚するわけないだろう!」
怒気を孕んだマクシミリアンの声に、ウイリアムは竦み上がって木箱に縋り付く。
「僕とクロエは幼馴染みだ。本当は、一緒にこの国に来るはずだったのに、バラバラになっちゃった。でも彼女は、僕を追って、この国に来てくれた。お前と結婚するつもりなんか、初めからなかったんだ。お前なんか……!」
言葉が途切れたので、そっとウイリアムが顔を上げると、鉄格子の向こうに居る男は、侵入を阻む鉄の棒を苛立たしげに握っていた。こちらを見下ろす目に潜む、暗い激情に、ウイリアムは声を立てる事もできない。
彼の脳内で、自分はどんな目に遭っているのだろうか?
「釈放される事になったら、迎えに来てあげる」
マクシミリアンは、再び態度を一転させて、にこやかな笑みを浮かべた。
「一応、僕はお前の、身内だから」
拒否の言葉が、すぐには出て来なかった。
ウイリアムは無言で、首を横に振り続けていた。
「あれ、放っておいていいんですか? ボス」
黒狼型獣人が、執務室に業務報告を運んできたついでに、尋ねた。
「あれとは?」
ヨアン保安官は、報告書の束を受け取って目を通しながら、聞き返す。
「あの、牢屋の状況ですよ」
黒狼型獣人は、マクシミリアンとは気安く言葉を交わす事が多く、少々変わり者の同僚を、普段から気にかけていた。
「ここんとこ毎日、猫がケージに入れられたネズミを狙って、張り付いているみたいになってるじゃあないですか。このままだと、ミニマックス、負荷がかかり過ぎて死んじゃいません?」
「ミニマックス?」
「あいつ、マックスの弟だっていうし、似てますよね? マックスはでかくて、弟は普通サイズだから、ミニマックスって所内では呼ばれていますよ」
ミニ、は小さいという意味であり、マックスはマクシミリアンの愛称だが、大きいという意味もある。ミニマックスは、つまり、小さい大きい。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
突然執務室の机に突っ伏したヨアン保安官に、黒狼型獣人が心配そうに声をかけた。
「ああ。急に差し込みがな」
ヨアン保安官は真顔になり、起き上がる。
「マックスは、放置でいい。ザイオンとも話し合ったが、ガス抜きになって丁度いいんじゃないかと」
「ガス抜き?」
「マックスは最近情緒不安定で攻撃的だから、暴発する前に、ネズミ相手に遊ばせておけば、そのうち治まるかもしれない、という事だ。……ザイオンに隠れていろいろとやらかしているらしいし、反抗期じゃないかな?」
「反抗期! 三歳児ですか!?」
冗談めかして言った黒狼型獣人に、ヨアン保安官は至極真面目に返す。
「二十一歳児だそうだ」
冗談を言われたのではないかと、黒狼型獣人は彼女の顔をしばらく窺っていたが、ヨアン保安官はニコリともしなかった。
「クロエって、身体は細いのに、胸は大きいよね」
鉄格子の前で、マクシミリアンは自分の両手のひらを見つめていた。
「お前、まさか触ったりしてない?」
「そんな破廉恥な事を、私がすると思うのか?」
牢の住人は、再び木箱にしがみついている。
「良かった」
マクシミリアンはニコニコする。
「触った事があるのなら、その手を切り落とさないとって思ってた」
「物騒な事を言わないでくれ! 彼女とは、互いに好き合っていたわけじゃなくて、家同士で結婚の約束をしただけだ。私と彼女は、手を繋いだ事もない。それが全てだ」
「僕は、いつもクロエと手を繋いでるし、キスもした事がある。一緒の家に住んで、ご飯を食べる時の席は、隣同士だ」
「それはさっきも聞いた。昨日も聞いた。一昨日もきいた。何回目だ?」
ウイリアムは、古びた木箱の上で頭を抱える。
「頭がおかしくなりそうだ」
「木箱が好きなのか、ウィルヘルム?」
その言葉にウイリアムは、顔を上げてマクシミリアンを睨み付ける。
マクシミリアンには、揶揄っている様子は微塵もない。
「私の名前は、ウイリアムだ! いい加減覚えろ!」
「紛らわしいなぁ。お前のことは、今日からウィリーと呼ぼう」
「王子である私に、勝手に愛称を付けるな! 不敬だぞ!」
と言ってから、ウイリアムは、相手が誰だったか思い出したようだった。
「母上が、お前の事を馬鹿と言った意味が、よくわかったよ」
「馬鹿という奴が、馬鹿なんだぞ?」
マクシミリアンは、鉄格子を蹴りつけた。
一度では気が済まなかったので、二度、三度と。
「誰か!」
ウイリアムは堪らず叫んだ。
「誰かいないのか?! こいつを連れていけ! おい!」
「誰も来ないね」
マクシミリアンは蹴るのをやめて、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「実は僕、ここで働いているんだ。みんな僕の知り合いなんだよ。お前の味方は、誰もいない」
ああ。
なんて惨めなんだろう。
ウイリアムは、再び顔を伏せた。
これも全て、ブリトニーに言われた事を全部信じ込んで、アレクサンドラを悪者だと思い込み、断罪したせいだ。
ブリトニーは、アレクサンドラが逃亡したと知ってからすぐに、姿を消してしまった。
それは見事に、実在していたとは思えないほど綺麗さっぱりと、彼女は消えた。
彼女の友人を名乗っていた連中も、消えていた。
マルガト男爵家のタウンハウスは何年も前に売り払われ、空き家になっているところをブリトニーの住居として勝手に使われていた事がわかった。
マルガト男爵は、そんな娘は知らないと言う。本物の男爵令嬢は病を患っていて、辺境の領地から出た事がなかった。
『こんな単純なハニートラップに引っかかるなんて、この馬鹿!』
母親は取り乱して、ウイリアムを平手打ちし、拳で叩き、罵った。
何より、卒業式のパーティ会場という場で、一方的に公爵令嬢を断罪したことがまずかった。居合わせた生徒達には高位貴族の子女が多く、ウイリアムの資質を疑う声が、貴族たちの間に急速に広がった。
彼らの反発を抑えるためには、アレクサンドラを連れて帰り、彼女との和解を人々にアピールする必要があったのに。
「このままでは、国に帰れない。もう何もかも終わりだ」
ウイリアムは、唯一の味方である古びた木箱を抱き締める。
側近たちは、誰も面会に来なくなった。
この木箱だけが、彼のために食事を載せ、黙って彼の愚痴を聞いてくれる。
「ずっと私は、母上の言う通り、将来の立派な王たらんと、頑張ってきた。あまり成功したとは言えなかったが、兄上のような馬鹿になるなと言われ、それなりに努力してきたつもりだ。そんな努力を、あの偽の男爵令嬢だけが、わかると言ってくれた。母上は、努力しても足りない部分をなじるだけなのに、ブリトニーは、よく頑張っていると、言ってくれたんだ」
「もしかして、泣いてる?」
「兄上」
泣いているつもりなどないのに、勝手に涙が流れていた。
顔を伏せたまま、ウイリアムは懇願する。
「もう、帰ってください。お願いです」
「うん」
兄上、と呼ばれたマクシミリアンは上機嫌で、留置所の出口へ向かう。
「また明日な、ウィリー」
「ふざけんな!」
罵倒の言葉が、留置所内で悲鳴のように響いた。
「いい加減にしろ! 気安く呼ぶな! 二度と来んな! こんなの間違ってる! なぜ! この私が! このような牢に! 入れられなくてはならないのだ!」
ウイリアムは拳を振り上げた。
「なぜ、この私が! あのような愚か者に、ウィリーなどと呼ばれねばならない!?」
腹立ち紛れに振り下ろした拳が、経年劣化で脆くなっていた、彼の唯一の味方を打ち砕いた。
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