34.03:蝶の羽
闇の魔術師と名乗った男が、アジトに突然帰ってこなくなった時点で逃走を図るべきだった、とレナは後悔していた。
でも、逃げる当てなどなかった。
魔術師を手伝っていた連中は捕まって、彼らの根城だった『天使の館』はガーディアン達の監視下にある。
レナは今、カプリシオハンターズ共和国の全域で追われる存在になっていた。闇の魔術師がくれた魔道具は、生物の精神に重篤な影響を及ぼす類いのもので、法律では禁止されている。所持していても使っても重罪だ。
法律を知らなかった、では済まされない。
魔道具を使って、上位モンスターである火竜を、人の住む拠点まで誘導した事も、テロ活動と同等の犯罪だ。
カウザン第一拠点には顔見知りが多く、もう戻れない。
大陸には拠点が幾つも点在するが、もっとも近い拠点でも、人の足でそう簡単にたどり着ける距離ではない。
途中でモンスターに食われるか、遭難して食糧が尽きるか。
レナは広域の地図を見ながら、船を使って、海岸沿いに移動する方法を検討するが、航行用のチケットを買うにしても身分を偽らなくてはならない。同じ身分を偽るなら、飛行船の方が速いだろう。
(そもそも、偽りの身分証を作ってくれる組織まで、どうやって行くの? 依頼料は? 財産と紐付いているIDは停止されてしまっているだろうし)
結局レナは、闇の魔術師と名乗った男が帰って来る事に賭けた。
あれほど強者のオーラを身に纏い、違法な魔道具を作るほどの男だ、危機に陥ったとしても、必ず帰って来るに違いないと楽観視する気持ちもあった。
その結果、レナは今、木々に覆われたフィールドを必死で走っている。
(そもそも、あの男に気を許したのが間違いだった)
レナは一年前、ちょっとした借金を作った。硬さで有名なクンシマッチカンの鎧を作ったのだが、その加工代金が高額で、手持ちでは払えなかったのだ。たまたま、酒場で同席した男が、それぐらいなら払ってあげましょうと言った。
代わりに頼まれたのは、とても簡単な仕事だった。
情報屋と言ってもいい。
噂程度の話を拾っては、男に渡す。
あれを仕事と呼んでいいのかどうかも、レナにはわからなかった。
だから彼女は男に対して、対価を返せなくて申し訳ない、という気持ちを抱いていた。
魔道具を付けた猩猩を預けられ、火竜を拠点に呼び寄せるように言われた時も、その程度でいいのかと思ったほどだ。
「拠点には、マックスがいるから、すぐ倒されちゃうわよ?」
レナは男にそう言った。
「マックスはね、あたしと全然話してくれなくて、無愛想で、初めは、なんだコイツって思ってた。でも、顔はいいし、ガタイもいいし、他の男みたいにくだらないお世辞も言わないしで、気になって気になって」
以前彼女は酒場で、酔っ払って闇の魔術師に同じ話をした事がある。
「ある時、上位モンスターのクエスト中に、高難易度のクンシマッチカンと遭遇してね。しつこく追い回されて、あの長くて鋭い足に串刺しにされかけたの。ソロクエストだから、拠点に連れ帰ってリセットしてくれる人もいないし、あ、これ死ぬなって思ってたら」
何度目かのレナの話を、闇の魔術師は熱心に聞いてくれていた。二度目、三度目には、マックスが住んでいる黒い家の話や、一緒に住んでいるらしい黒髪のいけ好かない男の話も、根掘り葉掘り質問してきたが、今回は頷いているだけだ。
「マックスが偶然通りかかって、助けてくれたの。凄かったのよ~マックスってば、大きくて重い剣をブンブン振り回して、クンシマッチカンの足を全部もいじゃって。強かったな。助けてくれて、ありがとうって言ったら、初めて笑ってくれた。ニコって。破壊力抜群だった。拠点にはマックスがいるから、火竜なんて、火を噴く前にやられちゃうわよ」
闇の魔術師は、拠点を滅ぼすつもりはないと言った。
ただ、仲間達と一緒に、どうしてもやり遂げなくてはならない仕事があるので、それがうまく行くように、ほんの少し、騒ぎを起こす必要があるのだと説明した。
だから、承諾したのに。
どの方向へ逃げても、エルフ達がいた。
揃いの浅葱色の軍服を着た、不気味な連中だ。
山深い隠れ家周辺の地理は熟知していたので、辛うじて捕まらずにいたが、今進んでいる道の先には崖がある。エルフ達も、逃れるすべはないと知った上で、その方角だけ警戒を緩めていたに違いない。
このまま逃げても、いずれは捕まる。
いっそ飛び降りようか。
はるか下の岩場に落ちて死ぬかも知れないが、運良く途中の木々に引っかかって、逃れられる可能性もある。
そう思いながら、崖の見えるところまで来てしまった時、レナはそこで、想定外の人物と会った。
アッシュブロンドの髪の、ガタイの良い男。
マックスは、レナの顔を見ると屈託なく笑った。
「やっぱり、こっちに来たね」
「マックス……」
レナは嬉し涙にくれた。
「助けに来てくれたのね!」
「ここにザイルがあるから」
と崖下を示されて、ますますレナは、マックスが自分を救いに来てくれたのだと信じた。
「早く降りないと、エルフが来るよ」
抱擁しようとするレナを、マックスは促す。
崖の、少し下辺りに打ち付けられたザイルを伝って降りていくと、壁面の途中に、人一人が入れるほどの割れ目があった。
割れ目から入ると、意外に中は広い。
「この洞窟は、もう一方の入り口が地下迷路みたいになっていて、滅多に人は来ないから、しばらくは大丈夫だと思うよ。昔、お金が無い時に、ザイオンと一緒にここに野宿していた事があるんだ」
振り返ると、崖側の割れ目から差し込む光が逆光になっていて、マックスの表情が良くわからない。いつもの鎧ではなく、ラフなシャツを着て、大剣も持たない彼が、見慣れない人のように思えた。
レナは、違和感に気づく。
腰に下げていた、太刀の鞘がない。
金属の擦れる音に振り返ると、マックスが彼女の太刀を鞘から抜いたところだった。
「マックス……?」
レナは少しずつ、後ろに下がる。
最後に会った時、マックスがひどく怒っていた事を思い出した。
あの女、クロエを傷つけたと言って。
「太刀は使った事がないけれど」
と、マックスは言って、鞘を地面にうち捨てた。
岩に当たって、金属音が洞窟内に反響する。
「でも、大剣を人に向けないって、ザイオンと約束したし、力任せに潰すと、僕がやったってばれるでしょ? 今日は、装備を全部置いて、見つからないようにこっそりと出て来たんだ。太刀なら、レナが自分でやった事になるよね?」
「お願い」
足が思うように動かず、レナは引き攣った声で懇願する。
「謝る。あの娘に、謝るから」
「謝ったら、クロエの傷が無くなるの?」
角度を試すように、マックスは何度か太刀を振ったり、突いたりした。
「どういう風に刺したら、自分で刺したように見えるかな?」
レナは、首を横に振る。
「どうやっても、見えないと思う」
あの女、クロエは何と言っただろうかと、レナは必死で思いだそうとする。
『あの子は、邪気がないというより、精神がまだ子どもなだけよ』
子どもが、何の罪悪感もなく蝶の羽をむしり取り、蟻を踏みつけるのと同じだ。
この『子』は、人を殺す事を何とも思っていない。
レナは、心の底からぞっとした。
「ばれると困るんだ。ザイオンは、人を殺すと怒るから」
マックスの口ぶりは、今までに何度か殺して怒られた過去を思い出しているかのようだ。
「あたし、そのザイオンと寝た事があるよ」
レナが必死に知恵を絞って、出た言葉がそれだった。
子どもの行動を制御する存在、それは親だ。
さっきの言葉から考えて、マックスにとってあの黒髪の男、ザイオンは、『親』に相当する存在に違いないと、レナはこの短い間に考えた。『親』との親密度をアピールする事ぐらいしか、今は方法がない。
(間違っていたら、あたし、死ぬ)
レナは、ザイオンとは、実際に一度だけ寝たことがあった。
(美形だからと声をかけてみたら、簡単に誘いに乗ってきた。部屋がヤニ臭いとか、悪態ばかり吐いている最悪な奴だったけど)
「寝た?」
マックスは、動きを止めて、言った。
「どうしてお前と?」
「あ、あたしだけじゃないわよ」
その声に不穏さを感じて、レナは言う。
「拠点内に何人か、寝た事のある娘はいるわよ? ほら、彼……一応、顔はいいし?」
「なんで?」
マックスが、拗ねた口調で呟く。
「僕とはもうずっと、寝てくれないのに」
レナは、口を大きく開けたまま、その場に膝を突いた。
(駄目だ)
(読み間違った)
(あたし、死ぬ)
「立ってくれないかな? 刺しにくい。角度も変わるし」
抜き身の剣を手にしたまま、マックスが近づいてくる。
レナは小刻みに首を振った。
「いや。……嫌よ。いや、死にたくない、あたし」
「お前、クロエを殺そうとしたんだろう? この剣で。自分は死にたくないっていうのは、我が儘じゃない?」
「ゴメンなさい……。直接クロエに謝る。謝りたい……」
レナは泣き始めた。
マックスが、ふうと息を吐くのが聞こえた。
「いい加減にしろよ。モスタ王国で僕を暗殺しようとした連中は、男も女も皆殺してやったけれど、お前みたいにメソメソした奴はいなかったぞ?」
(あたし、暗殺者じゃないし!)
レナの心の声は届かない。
「立たないのなら、首にしよう」
マックスが、レナの髪を掴んで上を向かせる。薄明かりの中で、相変わらず表情は見えない。
「血がいっぱい出るし、失敗すると苦しそうにするし、わりと失敗する事が多いから、僕、首を突くのはあまり好きじゃ無いんだけれど」
「ひっ……あっ」
もはやレナの口から言葉は出てこず、下半身が緩んで、為す術もなく汚物が漏れていく。
マックスが切っ先をレナの首に押し当てた時、崖の割れ目から差し込む光が、陰った。
「マクシー!!」
ザイオンの声が洞窟内に響き渡った途端、太刀がレナの首元から離れる。
刃が足下に落ち、金属音を立てた時、レナは自分が命拾いした事を知った。
走り寄ってきたザイオンが、マックスの肩を押すようにして、レナから遠ざける。
「お前、今、何をしようとした!」
ザイオンの後から、レナを追っていたエルフ達が次々と洞窟の中に入ってくる。彼らはカンテラ代わりの灯りを、魔術で宙に浮かばせると、レナを確保した。
「答えろ、マクシー!!」
その声は、絶叫に近かった。
びくりと身体を震わせたマックスは、俯いたまま、あからさまな嘘を吐く。
「レナが自殺しようとしていたので、止めようとしました」
気まずい沈黙が降りた。
その間にも、エルフ達はレナの状態を確認し、着替えを手配し始めた。
ザイオンが長い息を吐くと、言う。
「最悪だ」
泣き声のようにも聞こえる、掠れ声だった。
「俺は前に、王国に居た時、殺しに来た奴は殺してもいい、と言ったが、間違いだったかもしれない」
「間違い? どうして?」
マックスの戸惑ったように呟く声が、洞窟内に響いた。
エルフ達は無言で、静かに移動し、影に徹している。
「そのせいでお前が、平気で人を殺すようになったのだとしたら、俺は間違いをお前に教えてしまったんだ」
ザイオンは、自分の両手を、マックスの両肩に置いた。
「ここは、モスタ王国じゃない。何か悪い事をした人でも、その人を勝手に殺す人間は、モンスターと同じだ。この国では、モンスターは討伐依頼を出されて、狩られるんだぞ? わかるな?」
「僕は……レナを、殺してないよ?」
マックスは視線を漂わせて、確認するように、落ちている太刀と、着替えているレナを見る。
「そうだな。間に合って良かった」
ザイオンは再び、長い息を吐いた。安堵の溜め息だった。
「もうクロエを泣かさないでねって、話をしていただけだし」
「さっきと言っている事が違うな?」
「レナは、クロエに直接謝りたいって、泣いてた」
「……それは、命乞いじゃないのか?」
「ザイオン様」
タイミングを見計らって、エルフの一人が声をかける。
後ろ手に縛られたレナが、連れてこられた。
「予定通り、ガーディアンの事務所に連行という事で、よろしいでしょうか?」
「そうだな。ヨアン保安官なら、ある程度取り引きにも応じてくれるだろうから、彼女に先触れを出しておいて」
マックスが、そっと片手を挙げた。
「僕が事務所に連れて行──」
「却下だ」
ザイオンが間髪を入れずそう言った。
レナは、脱力した状態のまま、ザイオン配下のエルフ達に付き添われてガーディアン事務所に出頭した。
取り調べを受ける間、彼女は何を訊かれてもすらすらと答えた。不思議な事に、黒幕である魔術師に関しては、ほとんど質問されなかった。
魔術師が無事でいるのか、捕獲されたのかなんて、レナにとってはもう、どうでも良かった。
早く罪状を確定させ、禁固刑なり何なり、速やかに執行してもらって、この拠点を離れたかった。狩猟民としての資格も取り消しになったから、二度とここに来ることはないだろう。
捕まった後、洞窟を出る最後の瞬間、レナはマックスを振り返った。
エルフ達の掲げた灯に照らされる、彼の表情を、レナは忘れる事ができない。
あれは、諦めていない眼だ。
⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈