34.11:木製テーブル[後編]
一部BL的要素・強制わいせつ要素があります。可能な限り表現を控えめにしましたが、苦手な方は忌避してください。
「ヴギャー!」
お世辞にもかわいいとは言えない叫び声を聞いて、ザイオンは台所に駆けつける。
パニック状態で悲鳴を上げ続ける、大柄な女がいた。
狭い台所の天井近くは、煙だらけだ。
石造りの竈にかけられたフライパンの中に、火柱が見えた。
覚えたての古代エルフ語を小さく呟いて、ザイオンは火柱を指さす。騎士団に押収された禁輸品の中に魔法入門書があったので、かすめ取って読んだのだが、こうした緊急時には意外と役に立った。
火柱は消え、悲鳴が止む。
ザイオンは、煤のついた女の顔を見て笑った。
「酷い」
目に涙を浮かべて睨んでくるその女は、ザイオンよりも背が高く、幅は少なくとも二倍はあった。
「笑うなんて酷いよ」
「いや。変わった悲鳴だったなと思って。……大丈夫だったか?」
「うん」
「火傷してないか?」
ぷくぷくした手を取って、ザイオンは確かめる。竈に火を入れた時に着いたのか、その手は煤で汚れていたが、火傷は無かった。
「変ね。ザイオンが優しい」
女の怒りモードが次第に溶けてくると、丸顔の中に埋没した丸い目が、つぶらな愛らしさをたたえ始める。
「俺はいつも優しいだろう?」
女の整った顔立ちは、たっぷりと付いた贅肉に埋もれていた。痩せたら相当な美人になるはずだが、容姿の良い女ほど中身が薄い、というザイオン独特の価値観からすれば、彼女は今のままで充分存在価値があった。
「そんな事ないもん。お肉が硬過ぎるとか、お野菜が柔らか過ぎるとか、いつも文句ばかり言ってる」
「それは……ごめん。俺の悪い癖だな。自重するよ」
「またそんな難しい言葉を使って、ごまかすんだから」
ぷん、と尖った彼女の唇にザイオンが口づけると、アテナの機嫌はすぐに直った。
少し鈍くて、うっかりミスの多い彼女だが、単純でお馬鹿なところが可愛い。難しい事を考えない分、計算高くもない。他の女のように裏切ったりしないだろうと、ザイオンは考えていた。
「何を作ってたんだ?」
ザイオンがフライパンを覗くと、半月型の消し炭があった。
「何かしらね……?」
そう言って、アテナは消し炭から視線を逸らす。
「とにかく、油を入れ過ぎるとあぶないって事は、わかったわ」
「前向きでいい子だな、アテナは」
そう言って、ザイオンは彼女のふくよかな身体を抱きしめる。柔らかい、抱き心地の良さが、幸福感をもたらす。
「泊まらせてもらったんだから、朝食は俺が作るよ。君は手と顔を洗っておいで」
「やだ! 顔にも付いてるの!? 早く言ってよぅ」
アテナは小さく悲鳴を上げて、ザイオンの腕の中から逃げ出した。
そんな何気ない日常が失われたのは、付き合い出して三ヶ月ほど経った頃だ。アテナは、ザイオンに似合う自分になりたいと言って大好きなパンを絶ち、騎士団の訓練を取り入れたと評判の『新兵訓練体操』を始めた。
そのうちに挫折するだろうと思っていたザイオンの予想に反して、みるみる痩せていったアテナは、元々持っていた美貌の片鱗を見せていく。
待ち合わせた場所に、小洒落た服を着て現れたアテナは、少し前の彼女とは別人のように綺麗だった。大きい胸と尻が、男達の視線を集めている。
「最近、街を歩いていても、声をかけられる事が増えたんだ。こんなに痩せられるなんて凄いよね、『新兵訓練体操』。憧れてた服も着れるようになっちゃった。どう、ザイオン?」
嬉しそうに報告するアテナに、ザイオンは、以前負った痛手を蘇らせる。
このままでは、彼女はいずれほかの男の元へと去ってしまうに違いない……。その恐怖が先に立って、ザイオンは彼女の欲しかったであろう一言が、とっさには言えなかった。
「元のままで良かったのに。なんでそんな、余計な事するんだよ」
彼は、こみ上げた言葉をそのまま呟いてしまった。
「酷い」
アテナの声音に、ザイオンは我に返る。
「違うんだ、アテナ、君が綺麗になり過ぎて……俺は、元のままの君でも、好きだったのにっていう意味で」
一度放たれた言葉を、打ち消すことはできなかった。
「頑張ったのに! あなたのためにあたし、頑張ったのに……」
泣きながら去って行ったアテナを見送って、ザイオンは自分がまたしくじった事を知る。謝ろうと思ってすぐに追いかけたが、彼女は見つからなかった。
時間をおけば、カティの時と同様、取り返しがつかなくなってしまう。
そう思ってザイオンはその後、毎日のように彼女の家を訪ねて行ったが、応答はなく、会うことはできなかった。
間もなく家は引き払われ、年寄りの大家から、アテナがある男爵家へ嫁いだと聞かされた。
「お貴族様といっても、手広く商売をやっていて、庶民に理解のある方でね。お金もたくさんあって、大きな家に住めるんだって、幸せそうだったよ。あんたも、彼女のためを思うんなら、もう諦めるんだね」
あまりにも唐突だった。
謝る機会さえ与えられないまま、ザイオンは置き去りにされた。
(俺の事は、全く思い出さなかったのか? 一瞬も? 何か……せめて、別れの言葉ぐらいは、あるべきだろう?)
自分の価値がそれほどまでに、彼女にとっては低かったのだという事が、ザイオンにとっては衝撃だった。
(カネか? カネさえあれば、アテナは幸せなのか? 顔がいいだけじゃ、何の価値もないって?)
いずれザイオンは、母親の故郷であるカプリシオハンターズ共和国へ渡るつもりだったから、金なんて貯めても仕方が無いと思っていた。
将来の事は、移住してから考えればいい。マクシーがまだ子どものうちは、連れて行っても負担が大きいだけだからもう少し待とう。それまで、生活を賄える程度の金さえあれば十分だ……この時までザイオンは、愛してくれているのなら金なんてなくても、移住先までついて来てくれるはずだし、ハーフエルフである事を打ち明けても受け入れてくれるだろうという考えを無意識に抱いていた。
『女に幻想を持ち過ぎだな、君は』
誰かが夢の中で、洗脳するかのように耳元で囁いていた。
『結婚した後、女は家を守り、男は外で金を稼いでくる。そういう安定した生活を与えてくれる男かどうかって事しか、女は考えていないんだよ』
女は、とか、男は、とか。ひとくくりにするのは、間違っている。
いろんな女がいて、いろんな男がいる。
お前の言う事は、極論過ぎる。
『だが女は、子どもを産んで育てるだろう? 男は、その栄養分に過ぎないのさ。要するに、金を持っているかどうかが一番重要なんだ。顔で選ぶ女もいるが、金を目の前にぶら下げると、結局はそちらへ流れる。顔がいいだけじゃ、食っていけない。今回の事でよくわかっただろう? ……泣くなよ。そんなにあの女が好きだったのか』
泣いてない。
浮上した意識の中で、ザイオンは反論した。
答えはなく、彼は漠然とした、長い夢を見ていた事に気づいた。
鳥のさえずりが煩いぐらいに聞こえる。
夜明けを迎えたばかりだとわかる薄明かりの下、見覚えのある部屋が見えた。
誰かがベッドの中で、後ろからザイオンを抱きすくめるようにしていた。
掛布の下にある彼自身の身体も、後ろにいる誰かも、服を身につけていない。
(昨日……昨日は)
ザイオンは焦りながら記憶を辿る。酒場に行った事は覚えている。多少自棄になってはいたが、そんなに飲まなかったはずだ。
(勘定は払った……よな?)
『俺が払おう』
ふいに蘇った記憶にあるのは、口が大きめの、爬虫類に似た男の顔だった。
『君は女に幻想を持ち過ぎだ』
そう男は何度も言った。
『煩い』
ザイオンは話しかけてきた男を相手にはせず、一人で夢を描いた。
『俺は結婚して、自分の子どもを育てる。家族を増やして……』
毎朝一緒に、みんなで朝食を食べる。
働いて帰ってきて、また夕食の時間に集まる。
今日あった事を報告し合って、面白かった事を共有して。悲しい事があったら、慰め合う。
そんな、物語の中には当たり前にある幸せが、なんで俺には無いんだ。
『泣くなって。俺が、いつでも抱き締めてやるから』
違う。お前じゃ無い。
そう言って突き放したはずなのに、今、後ろから抱きすくめてきている腕は、明らかに男のものだ。
(俺は、またやらかしたのか……)
幸い、今日の二日酔いはそれほど酷くない。軽い頭痛と、時々目眩のような気持ち悪さに襲われる程度だ。
ザイオンは男の腕をそっと持ち上げ、ベッドを抜け出た。
床に散らばっている服を拾い集める。どういう状況で脱いだのか、さっぱり思い出せない。
服を着ている途中で、ベッドにいる男がむくりと半身を起こす。
「起きたのか」
と、髪を整えながら親しげに笑いかけてきたのは、確かニコラスと名乗った、憎たらしい男だ。
「まだ早いぞ。家の者に湯浴みの用意をさせるから、待て」
「お前なんかと、これ以上同じ空間に居るつもりはない」
ザイオンが睨み付けても、男の笑みは消えなかった。
「その冷たい顔もいいが」
男は、蛇のようにチロっと舌を出して自分の上唇をなぞった。
「感極まった声を上げて、俺の手の中で果てた君の横顔は、とても可愛かったな」
ザイオンはしばらく男を睨み付けたまま、屈辱感に耐えた。
胃がじりじりと焼け付くように痛む。
殺してやりたい、とも思った。
覚えたての魔法で一言『燃えろ』と指さして言えば、平凡な人間の一人ぐらい簡単に殺せるだろう。
だがここでこの貴族の男を殺すと、大事になって、その余波で全てが台無しになる事はわかっていた。
自分の危機感の無さにも責任の一端はある。
残りの服を手早く身につけて、所持品を確かめると、ザイオンは黙って部屋を出た。
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アテナに捨てられた後のザイオンは、モスタ王国でも共和国でも、恋らしい恋はしていない。空しさと寂しさの中に果てしなく落ち込んで行って、そこから自力では這い上がる事ができないでいた。
声をかけて来た女と、気が向いたら寝るぐらいだ。
容姿だけに惹かれて寄って来た相手では、生理的欲求は解消できても、心が満たされる事はない。嫌われないようにと気を遣う事もやめたから、大抵は刹那的な関係だ。
こんな自分では、誰かを好きになる事なんてできないのではないかという気さえしてくる。
『時には寄り添い、時には意見する、自立した女性がお好みなのですね』
傍系のルファンジアが言った言葉を、ザイオンは思い出す。
そんな自立した女性が、今までに居ただろうか……?
ふいに、茶色い髪を編み込んだ少女の面影が脳裏に浮かんだ。
『まさか、一人で来たのですか? それで、まさか、帰る方向がわからない、とかではないですよね?』
『言い訳をお聞きしているのではありません。どちらへ行けば、森を出られますの? 王都はどちらの方向でしょうか?』
『つまり、要救助者が一人増えただけという事ですか。何の役にも立たないですわね』
ザイオンにはきつい物言いをする彼女が、マクシーには優しかった。
『無事で良かった、心配したんだぞ、ぐらい言って差し上げたら?』
『魚を捕ってきてくれた王子に、何か言う事はないですか?』
彼女の本来の優しさが、その言葉からは感じ取れた。なのに、十歳の女の子には何の咎もない事で、怒鳴りつけてしまった。
傷ついた表情の彼女を見たのが、最後だ。
訊きたいことがたくさんあったのに、嫌われたかも知れないと思うと、会いに行く勇気が出なかった。
あれから八年は経つ。今頃は、一人前の女性になっているはずだ。
(とっくに俺の事なんて忘れているだろうな)
亡命する前にひと目会って、お前の言った通りにするつもりだ、ぐらいの事は言うべきだったと、ザイオンは遅過ぎる後悔に苛まれた。
急に部屋が明るくなったので、ザイオンは木製テーブルの上で身体を起こした。
内庭側についている窓の外が、暗くなっている。どうやら眠り込んでしまっているうちに、夜になっていたらしい。
「「ただいま!」」
入ってきて、元気に声を上げたのは、マクシーとクロエだ。照明を点けたのは彼らだった。
「「テーブルだ!」」
頭の程度が同じだからか、言う事もタイミングも同じだ、などと失礼な事をザイオンは考える。
突進して来たクロエが、テーブルの表面を撫で回す。テンションと口調がおかしい。
「お洒落! 一枚物天板! これ、お高いんでしょう? さぞかし名のあるお品とお見受けしますわ。銘は『闇より出でし渾沌の飯台』でどうかしら」
「テーブルに名前なんか付けるな!」
と、立ち上がったザイオンを、突進して来たマクシーがぶつかるように抱き締めた。
「僕のせいで無くなっちゃって、ゴメンね。ずっと怒ってたよね?」
「戻ってきたから、もういい。いちいち抱き付くな!」
ザイオンは抗うが、長じるに従って力持ちになったマクシーの拘束は簡単には解けない。いつもはさっと避けるのに、今日は起き抜けで油断した。
「久しぶりにぎゅっとできたから、もう少しだけ」
とマクシーは、ザイオンよりも高い位置にある頭をぐりぐりと押しつけてくる。とっくに成人しているくせに、いつまでも成長しない奴だ。
「放せ、飯が作れないだろう」
マクシーの銀髪を引っ張って引き剥がそうとしながら、ザイオンは言った。
「それは困るぅ」
と、クロエが両手を広げる。
「マクシー、こっちよ」
「クロエ……」
ひしと抱き合った二人の横を、解放されたザイオンが「ケッ」と蔑んだ顔をして通る。
マクシー達が風呂に入っている間、ザイオンは手際良く夕食を用意した。パンは朝に焼いてあるし、副菜は作り置きしてあるので、メイン料理の食材を鍋で煮る。
ふいに、昔カティが、『パンは焼きたてよりも、時間が経った方が美味しいのよ』と教えてくれた事をザイオンは思い出す。
ルファンジアに変な酒を飲まされて以来、忘れていたはずの記憶が生々しく蘇っては、彼の気を滅入らせた。ゆっくりと煮えていく鍋の中身を眺めながら、ザイオンは寂しさを持て余した。
薄いシャツ一枚に短いズボンを身につけたクロエが、タオルで髪を拭きながら階段を下りてくる。髪の毛も肩辺りまでしかないし、元貴族の令嬢だとはとても思えない格好だ。透けた乳首の形から視線を逸らして、こいつは俺を男だとは認識していないな、とザイオンは思う。
(そういえばクロエには、『相変わらずムカつく』とか言われたっけ)
彼女をムカつかせるような事を、何か言っただろうか、とザイオンは記憶を辿るがよく覚えていない。『いけ好かない男』と言った女もいたが、誰だっただろうか。クロエじゃないはずだ。
クロエが階段を下り切った頃、風呂場からマクシーが出てきた。服は着ているが、髪から水滴が落ちている。
「ちゃんと拭かなきゃね」
と言って、クロエがマクシーをソファに座らせ、新しいタオルで髪をゴシゴシ擦ってやっている間に、ザイオンは出来上がったシチューを配膳した。
そして、三人でテーブルに着き、食事を始める。
「こんとんって、メチャクチャっていう意味でしょ? どちらかというと、『整然の飯台』じゃない?」
「整然、はちょっと名前には向かないなぁ。端正な飯台……?」
「テーブルに名前なんか要らんと、俺はさっきから言っているのだが?」
「名前は長ければ長いほどいいらしいから、『エルフより賜りし高貴なる飯台~シチューは激うま~』みたいな銘で、もっと格好いいのないかな」
「聞けよ?」
「そういえばクロエって昔『血まみれ姫』って名乗ってたよね。あれも、銘っていうやつだったんだ」
マクシーの無邪気な問いに、クロエの白い肌が赤く染まっていく。
「そう。銘の一種ですね多分。忘れてくださいっていうか忘れましょう今はクロエです」
「僕、本名だと思って、『血まみれ姫』っていう黒髪の娘を探してるってお城の人達に言ったら、なぜか暗殺者として手配されちゃって」
「私手配されちゃったの!?」
「いや普通わかるよな?」
「結局見つけられなかったんだ」
「でしょうね!」
「馬鹿ばっかりか」
どこからか、小さい欠片のようなものが、ザイオンに向かって飛んで来て頭に当たった。
「ところが、その後『幻の血まみれ姫』って名乗る暗殺者が現れて」
「偽物?!」
「暗殺者まで馬鹿だったか」
飛んで来た殻の欠片を、ザイオンは手で弾いた。
「そう! 捕まえましたって言うから、見に行ったら男だった」
「なぜ男?! 意味がわからない」
「だよねー。有名になりたかったんだって。『血まみれ姫』は、暗殺者の間では、絶対に捕まらない正体不明の暗殺者っていうことで知られていたらしくて」
「私、知らないうちに有名人になってたの!?」
「お前じゃないだろ」
「そうだったわ!」
ザイオンは、小さく溜め息を吐き、空になった皿を持って席を立つ。
思い描いていた理想とはかなり違うが、食卓を囲む『家族』と他愛の無い会話が、ここにある。他愛のない会話というより、低レベルな馬鹿話だ。それでも、ザイオンの内に巣くう様々な負の感情を、遠ざけてくれる。
今は、この日常を失ってしまう事のないように、丁寧に日々を生きていくだけだ。
食後のコーヒーを淹れるために、ザイオンは魔道具で湯を沸かし始めた。
⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈




