34.10:木製テーブル[前編]
一部BL的要素・強制わいせつ要素があります。可能な限り表現を控えめにしましたが、苦手な方は忌避してください。
時系列としては、番外編「果実酒」の後になります。
「凄いわ、ザイオン。男の人が、こんなに上手に洗い物ができるなんて!」
そう言ってカティは、満面の笑みを浮かべた。
美人ではないけれど、内面の美しさが滲み出たその笑みに、ザイオンは癒やされる。
「いつも、食事を作ってもらってばかりで、悪いから」
他の人間には言わないような台詞も、彼女になら素直に言えた。
「まあ。気にしなくていいのよ。モスタ王国の男は、普通なら台所に入るなんて考えもしないんだから。それなのにザイオンは時々、お菓子まで作ってくれるじゃない? この間のブリュレ、とても美味しかったわ! また作ってね?」
「うん」
褒められると嬉しい。
この感覚を、ザイオンは長い間忘れていた。
「でも、この洗濯物のたたみ方は駄目ね! 角と角を合わせて、なるべく四角くなるようにたたむのよ。ほら、チェストに入れやすいようにね」
カティが実演してみせるのを、ザイオンは幸せな気分で眺める。
「わかった。やり直すよ」
誰かの兄、誰かの側近、そんな添え物のような役割ではなくて、自分自身として見てもらえるのも新鮮で、ザイオンは彼女の二間しかないこぢんまりとした家に、自分の居場所を見出した気がした。
清潔で、ちり一つ無い部屋。毎日洗われ、代えられるシーツ類。よく磨かれた木製のテーブル。手作りのテーブルカバー。素朴な花瓶に生花が一輪添えられて、装飾のない部屋に彩りを添える。家具や食器、小物に至るまで、カティの気遣いで溢れていた。
これが人間としての、まともな生活なのだと、ザイオンは知る。
何気ない日常に、彼は夢中になった。
事が終わった後の、気怠い微睡みの中で与えられるおやすみのキスが、快楽以上に幸せをもたらす。
その幸せが遠のき始めたのは、いつだっただろうか。
「またなの?」
仕事で遅くなったある日の夜、出迎えたカティに笑顔はなかった。
「ごめん……」
王城勤めである事は、彼女には黙っていた。書き取り課題の途中で消えた第一王子の行方がわかったのは、日が暮れてからだ。どこにも見当たらず、まさかと思って北の離宮に行ったら、昔一緒に寝ていたベッドの上でマクシーは眠り込んでいた。もう王子は辞める、と言って泣くマクシーを宥めすかして、夜勤の側近に引き渡したのがついさっきだ。
「今日は早く帰ってきてね、って言ったのに」
悲しそうに言う彼女の向こうに見える木製テーブルの上には、冷め切った夕食が並んでいた。毎月一日は二人が出会った記念日として、彼女はご馳走を用意してくれる。忘れていた訳ではないが、月一というのは頻度が高いなと、面倒に思えていたのも確かだ。
「急に仕事が入って……」
「この前も、そう言ったわ」
カティは扉に手をかけたまま、ザイオンを部屋に通そうとしなかった。
先月の一日は、『僕はマクシミリアン王子をじたいします』と書き置きを残して、マクシーが消えた。飼っていたヘビを抱えて森に向かっているところを、第二師団の手配で早めに確保できたところまでは良かったが、ヘビが逃げ出してしまって、その捜索に一時間ほど費やした。結局見つからず、森に逃げたヘビが仲間達と幸せに暮らしている物語を創作して、マクシーを諦めさせるのに二時間弱かかった。
「もっと前にも何度か、仕事を理由にして、夜中まで帰って来ない事があったわね。その仕事、辞めることはできないの?」
そう尋ねたカティは、ザイオンの顔に浮かんだ表情を見ながら、悟ったように言った。
「私よりも、仕事が大事なのね」
そういう訳じゃない。
仕事が大事なんじゃなくて、マクシーに手がかかるだけなんだ。
見捨てられるものなら、とっくに見捨ててた。
閉じてしまった扉の前で、どれだけ言い訳を考えようとも、それを口にする訳にはいかなかった。部屋の灯りが消えた後、ザイオンは仕方なく王城の敷地内にある宿舎へ戻り始める。
彼女の怒りが消えた頃に、また来ればいい。
ザイオンには、カティは自分を見捨てないだろう、という過信があった。彼女は明るくて、働き者で、面倒見が良いが、美人ではない。体格も、ザイオンよりがっしりして、いわゆる太めだったから、声をかける男性はほぼいない。
ザイオンは、自分の容姿に酔うような性格ではなかったが、美人だった母親に似ている事は自覚していた。男女を問わず、じっと見つめてくる視線は常に感じているし、パン屋で働いていたカティも、声をかけるたびに惚れ惚れと見返しては赤くなるほど、好きになってくれた。
ほとぼりが過ぎて、お互いに寂しい気持ちが募った頃に会いに行けばまた、以前のように温かく迎えてくれるはず。
それがとんでもない奢りだった事にザイオンが気づいたのは、月初の一日に休みを取って、前日の夜にカティを訪ねた時だった。
「ザイオン?」
扉を開けて、迎えたカティの声には、温かみは無かった。
「今更なんなの?」
彼女の表情には、侮蔑の色さえあった。
「なんだ? どうした」
奥のテーブルに着いていた短髪の男が、立ち上がって近づいてくる。上背があり、大きな鼻は少し潰れていて、茶髪の下、左右に突き出して見える大きな耳も一部欠けている。ザイオンとは全く違うタイプの、よく日に焼けた粗野な男だ。
「カティ……君に、謝ろうと思って」
ザイオンはかろうじて、それだけを声にした。
「ああ、お前か」
カティを守るように前に出て、男は言った。
「俺の妻を弄んだって奴は」
大きな手が前に突き出された時、殴られると思った。
その手を押さえて、カティは言う。
「あなた。暴力は駄目よ」
「ああ。わかってるよ」
二人は微笑みを交わす。
「ここはもう、俺の家だ。二度と来るなよ」
男はじろりとザイオンを睨んで、扉を閉めた。
逃げるように、近場の酒場へ駆け込んだところまでは、覚えている。
食べて、飲んで、勧められるまま、更に飲んだ。
『今更なんなの?』
カティの冷たい言葉が、ザイオンを切り裂き続けた。
誰かにすがって、泣いたような気がする。
飲み過ぎて、吐いた。
「なんで、あの男なんだ」
吐いているうちに、苦しくて、涙も出た。
「俺の方が、顔はいいのに」
馬鹿な事を言って、号泣した。
『居場所が欲しいなら、自分で作ればいいだろ』
誰かの言葉を反芻しながら、目が覚めた。
知らないベッドで、裸で寝ている事に気づいて、ザイオンは青ざめる。
昨夜の事は、断片的にしか覚えていなかった。
窓とおぼしき方向から、朝日がうっすらと差し込んでくるのが見えた。部屋の広さや、設えられた家具から、貴族用の寝室だとわかる。
隣で、誰かが身動きした。
確かめようとして身体を動かすと、それだけで恐ろしいほどの気持ち悪さが襲ってきた。
頭を抱えて、目を閉じる一瞬、同じく裸で寝ているその男を見た。
(やらかした……)
一緒に酒を飲んだ男だ、と思い出す。腫れぼったい一重の目に、小さな茶色の瞳、大きめの口が、どことなく爬虫類のような印象を与える男だった。昨夜は背中まである長い黒髪を後ろに束ねていたが、今は解いている。
今すぐ逃げ出したいが、気持ちが悪過ぎて動けない。
少し身体が揺らぐだけで、悪心が襲ってくる。
懸命に目を閉じて、身体をじっと横たえ、やり過ごす。
(この男、昨日は近衛隊の服を着ていたな。妙に親しげで……油断した……)
やり過ごせなかった。
思わず小さくえずくと、隣の男がガバッと飛び起きた。
「うわぁ、待て待て」
ベッドが傾いで、悪心に拍車がかかる。
男が慌ててベルを鳴らし、侍従が器を用意した途端、ザイオンは吐き戻した。
胃の内容物はほとんどなくて、得体の知れない粘液ばかりだったが。
思う存分吐き出し、差し出された水でうがいをした後、ザイオンは再びベッドに伏せる。
その間にも、彼は逃げ出す算段をしていたが、どこにも自分の服が見当たらない事に気づいた。
「俺の……服は……?」
吐いた事でほんの少し、気分が持ち直した。
「今、うちの者に洗ってもらってるよ。体液とゲロまみれだったから、もう少しかかるかなぁ」
何が楽しいのか、男はクスクス笑いながら答える。
「……誰、お前」
目を開けていられなかった。
「ニコラス・ヴラディス。君の初めての男だよ、覚えておいてね」
したり顔の男を、ザイオンは一瞬目を開けて、睨み付けた。
「……死ね」
再び目を閉じると、意識が沈んでいくに任せた。
次に起きた時、ニコラスと名乗った男はもういなかった。侍従の話では出仕したというから、近衛隊の仕事に出かけたのだろう。情けなさと悔しさに涙しながらも、ザイオンは二日酔いで、昼頃まで動けなかった。
侍従は動じた様子もなく、清拭用の湯とタオルを出してくれたので、この家ではこうした事態が日常茶飯事だと思われる。
午後、服が綺麗に洗われて戻ってくると、ザイオンはそれを着てようやくヴィラディス侯爵邸を逃げ出す事ができた。
『今更なんなの?』
あの日のカティの冷たい声を思い出すと、今でもザイオンは気が滅入る。ただ、同時に蘇る、その直後のやらかしが大き過ぎて、長くは続かない。
あれから、カティに似たタイプの女の子と何人か付き合ってみたが、うまく行かなかった。
人任せが駄目なのだろうという気がして、カプリシオハンターズ共和国に来てからのザイオンは、自分で自分の居場所を作るように心がけた。こまめに洗濯し、部屋を清潔に保ち、食事は自分で丁寧に作り、家具も食器も小物も一つ一つ、質の良いものを厳選している。
「ご指定の位置に置きましたので、ご確認ください」
傍系のルファンジアに言われてザイオンがダイニングへ行ってみると、賠償金代わりに食堂に撤収されて、長らく不在だった木製テーブルが元の場所に鎮座していた。退けられていた椅子も、定位置に置かれている。代わりに支払われた金額は、安くはなかっただろうが、交換条件なのだから気にしない事にする。
「天板保護の魔法が外れかけておりましたので、補強しておきました」
ルファンジアが上目遣いに見る。
「本当に、これだけでよろしいのですか? ご要望さえいただけましたら、いつでも夜伽役をご準備いたしますが」
「要らない。それよりも、二度とあんな真似はするなよ」
あんな真似とは、自白効果のある酒の話だ。
ルファンジアは膝を突き、頭を深く垂れて言う。
「二度とはございません。あれはただひたすら、どのようにすれば主の好みに合う番を用意できるかと焦るあまりの行為でございました。寛大にお許しいただき、誠にありがとうございます」
「俺の好みは、初対面の男と番って来いって言われて、わかりましたと言う従順なだけの女とは真逆だからな? 絶対に連れてくるなよ!」
と、ザイオンは釘を刺す。
「なるほど。時には寄り添い、時には意見する、自立した女性がお好みなのですね」
ルファンジアは顔を上げ、笑みを見せると立ち上がった。
「そーだよ。だから……」
いそいそと立ち去るルファンジアの背中に、ザイオンは念を押す。
「お前が誰を連れて来ようと、俺は絶対に、受け入れないからな!」
「もちろん。心得てございます」
ルファンジアは居間の出口で微笑んで一礼すると、出て行った。
どうにも嫌な予感しかしない、とザイオンは舌打ちする。
彼は椅子に座ると、木製テーブルの木目を撫でた。
(いくらテーブルがあったところで。誰かが、俺の事を褒めたり叱ったり、俺のために食事を作って並べて、俺が遅くなっても待っていてくれる、そんな何気ない日常は、二度と来ないのかも知れない)
そう考えると、ザイオンは無性に悲しくなって、木製テーブルの上に顔を伏せた。
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