いとしいひとみ
曖昧なものほど認識はバラけるが、本当に綺麗なものは多くの人にとって、ただ綺麗だ。綺麗以外の感想を抱かせない。人間という生き物の根本的な美意識なんだろう。
風見理音のイエローアイもそのひとつだと思う。彼女の瞳の虹彩は両方とも黄色いが、ほのかに黄色がかっているのではなく、完全なイエローだ。それも、べったりとした黄色ではなく、光を反射して輝くハチミツのような奥行きのある透けた色合いなのだ。これを綺麗だと感じない人間を僕は想定できない。あるいはイエローアイ単体ではなく、その瞳を持つ風見理音を含めて神様の芸術作品とさえ言えてしまいそうだ。
風見理音は黒髪で、やや小柄な体型で、色白で、特殊な瞳を持つにふさわしいお人形のような女の子だった。ハーフやクォーターらしい雰囲気はなく、あくまで純国産ふうの容姿。実際、確認できる範囲での家系図に外国人は存在していないようだ。しかし、彼女の母親も祖母も同様の瞳を持っているそう。
吸い込まれそうな青……とよく言うが、風見理音の瞳は、惑いそうな黄色……だと僕は思う。ポジティブな言葉ではないかもしれないけれど、それを言うなら『吸い込まれそう』も別に同じだ。なんとなく慣れ親しんだ表現だからポジティブに聞こえているだけの話で。
芳日高校一年生のほとんどの生徒にとって興味の対象であろう風見理音は、もちろん僕にとってもそうで、クラスは違っていたけど、いつか話してみたいとずっと憧れていた。
僕の強みは名前が奥村宝希であること。どういう意味なのかというと、五十音順に並べたとき、『お』で、『か』の風見理音と非常に近しくなる。僕は進級する際にその可能性に賭けていたのだが、ばっちり天は味方をしてくれ、二年三組で座席が前後同士になる。
僕は初め、敢えて瞳の話はしないでおこうと考えていた。おそらく風見理音は他人から瞳の話ばかりされてうんざりしているだろうから、まったく別の切り口で話しかけて、僕という小賢しい存在をアピールしようとたくらんだ。しかし無理だった。間近で見る風見理音の瞳は惑うほどに……自分を見失いそうになるほどに美しく、それに触れずにはいられなかった。そこをスルーすることがむしろ失礼に値するとさえ感じた。なので僕は、奥行きがあるだのハチミツみたいだの惑いそうだのと率直に感想を述べさせてもらった。けっきょく物好きの一人みたいになってしまった僕だったが、しかし僕の言葉はそれなりに風見理音に響くんじゃないかな?と僕は期待した。
イマイチだった。風見理音は「人間って、あんまり人の目を見て話さないじゃない?」と透明感のある声で僕に言った。「でもわたしに対しては逆に、目だけを見つめながら話してくる人がたくさんいて、未だに慣れないし、恥ずかしい」
僕は慌てて目を逸らす。「ごめん」
「作り物っぽい目だから、人っぽくない目だから、目が合ってても気にならないんだろうけど、わたしの目だって、ちゃんとみんなのことを見てるんだよ? 奥村くんのこともね」
「ごめん」たしかに風見さんの言う通りだ。僕達は風見さんの瞳の特殊性にばかり注目してしまい、その機能が僕達のものと同じであることをなんとなく失念してしまっている。「……でも、作り物だとか人っぽくないとかは思ってないよ。綺麗で見惚れてるだけだと思う、みんな。少なくとも僕はそう」
風見さんの白い頬が真っ赤になる。「そ、そうなの?」
僕は頷く。「そうだよ」
「ふふ」と風見さんが笑う。「奥村くん、目、見て喋ってもいいよ」
「え?」僕は風見さんの瞳を見つめないよう、目を泳がせ続けていた。「や、嫌がってたから」
「ちょっと申し訳なくて」と風見さんはまだ笑っている。「奥村くん、きょろきょろきょろきょろしてるから。ありがとね。気を遣ってくれて」
これが僕と風見理音との最初の会話で、声をかける奴はだいたいみんなこんな感じなんだろうけれど、僕も滞りなく終了した。
風見理音は派手な子じゃない。どちらかというと真面目でおとなしいタイプだが、瞳のこともあって面識のあまりない人と話す機会は多そうで、そのおかげもあってか社交性というかコミュニケーション能力は高そうだった。僕なんかにも気さくに丁寧に接してくれた。
喋りやすい。僕も風見理音と似たようなタイプだけれど社交性はないため、今まで女子と親しく話せたことなんてなかった。好きな子がいたとしても、いるというだけで何もせずにそのまま終わり……という展開にしかならなかった。でも風見理音に対しては特別な瞳になんとなく敷居を低くしてもらえたし、風見理音自身の人柄のおかげでずっと楽しく会話ができた。僕はことあるごとに振り返り、後ろの席の風見理音に話しかけた。風見理音も僕が振り向くのを待っていてくれた……気がする。
しかし、都合のいい時間はいつまでも続いたりしない。芳日高校は月一で席替えがあるため、五月のゴールデンウィークが過ぎた段階で早くも僕と風見理音は引き離される。終わった、と思った。けっきょく終わるのだ。僕としては全然話し足りなかったが、もう今までのように話す機会はない。
「寂しいな」と僕は言うともなくつぶやく。
「おんなじクラスじゃない」と風見さんは笑っている。「いつでもお喋りできるよ」
そして風見理音は自分の机を引きずって僕から離れていき、新しい席で別の生徒と楽しげに喋る。また瞳の話をしているんだろう。風見理音は毎度毎度自分の瞳の話をしなければいけないんだろうが、そう考えると面倒そうだし大変そうだ。そして、僕も無数の『瞳について話しかけてくる奴』の中の一人だったのかもしれない。風見理音の心に僕は何かを残せたんだろうか? なんか虚しいぞ?
僕は風見理音が好きだったのだ。初めは綺麗な瞳を拝んで瞳の秘密が何かあるならば聞いてみたいぐらいの感覚だったはずなのに、いつの間にか好きだった。いや、ただ単に綺麗な瞳に惹かれているだけなのかもしれないし、有名人とちょっと喋れちゃったもんだから舞い上がっているだけなのかもしれない。なんかわからない。判断がつかない。惑う。
でも、僕の代わりに今、風見理音と話しているクラスメイト達に嫉妬心はある。悔しい、と思う。別に自主的に喋りに行けばいいじゃんとも思うが、そこまでの社交性は僕に備わっていない。
五月の三週目のとある古典の授業開始時に、ふと風見理音と目が合う。風見理音の瞳は遠目からでも光り輝いていて目立つ。しかしそんなこと、今はどうでもいい。風見さんは腕を下げたまま、僕に手を振るような動作をしてくれる。気のせい? いや、これを気のせいにしてしまったら失礼すぎる。風見さんは僕と目を合わせてくれているのだ。僕は口だけ動かして、さみしい、と発声せず言う。もっとはなしたい。風見さんは僕の口が動いているのだけは見とめたようだが、読唇術には長けていないようで、ん?と首を傾げる。すき、と口を動かすと、風見さんはボン!と赤くなりうつむく。あ、あれ? さすがに二文字だと伝わっちゃった? 僕も赤くなり、古典の授業には一切身が入らなかった。
何日か後に風見さんが僕のところに来て、「奥村くん、洋菓子好きでしょ?」と質してくる。
席が前後だった頃にそういう話をした。僕は「うん」と頷く。
「鷹座駅の地下に新しい洋菓子店がオープンしてるから。最乃宮の有名店の、二号店だよ」
「ええ、すごい」
「気になるなら行ったらいいよ」
「うん、そうだね」そうだねじゃない。「……いっしょに行く?」
そんなの、わざわざその情報だけを提供しに風見さんがやって来るはずない。僕は女子の扱いなんて心得ていないけれど、それくらい察せる。そして僕は嬉しくなる。風見さんは僕との会話を覚えていたわけだし、僕にまた声をかけてくれたのだ。こんなチャンスを逃すほど僕は風見理音を雑に思っていない。
風見さんは「いいの?」としおらしい。
「行こうよ。風見さんも好きでしょ?スイーツ」
「うん。好き。でもお客さんいっぱいだろうし、躊躇ってたんだ」
「せっかくだから行こうよ。いつ行く? 今日行く? 学校の帰りに」
風見さんは笑ってくれる。「行こっか」
「うん。二人?」
「二人……でいい?」
「いいよ」
風見さんは赤らめていた顔を安堵させ「じゃあ、放課後ね」と言う。
「おっけー」ああ、なんかすごい。僕も裏表とかを自分自身にあまり作れない人間だけど、風見理音はそれ以上に素直で可愛らしい。わかりやすく気持ちが伝わってくる。
放課後まで全然待てなかったけど、授業を受けないと下校できないので頑張って受け、帰りのガイダンスを済ませて僕は風見理音と廊下で合流する。
校舎を出るまで風見理音はおとなしくしていたけれど、靴を履き替えると元気になる。「奥村くん、お金持ってる?」
「うん。まあ……そんなにないけど、持ってるは持ってるよ」寄り道するとは思っていなかったので多めには持ってきていない。
「わたしが奢るよ」
「や、いいよ。ダメだよ、そんなの」
「今日はいっぱい持ってきてるから」
「借りるならまだしも、奢りはダメ」
「いいのに」
「風見さんがよくても、僕は嫌なの」
「なーんで?」風見さんは楽しそうだ。
「わかんないけど。格好悪いじゃん」
「格好悪くてもいいのに」
「ひどい」
「えー、ひどくないよ。何がひどいの? 格好悪くても好きだよ」
好き。「僕も少ないけどちゃんとお金あるから。今日はそれでやりくりするよ」
「はーい」
「……お金用意してたんだ?」僕は訊く。「最初から寄り道するつもりだったの?」
また風見さんは赤くなる。「奥村くんが来てくれなくても、一人で行くつもりだったの」
「そっか」と僕。「誘ってくれてありがとう。……ん? 誘ってくれてはないか」
「もう……」風見さんは赤くなってばかりだ。「奥村くん、全然喋ってくれないから。席替わってから」
「あ、だって、喋りかけてもいいのかわかんなかったから……」
「いいよ」
「風見さんだって喋りに来てくれてよかったのに」
「まあね……」風見さんはうつむくが、並んで歩く距離感は近くて、ときどき半身同士が触れ合う。「今日からまた話すね」
芳日高校から鷹座駅まで歩き、地下へ下る。僕は思いきって風見さんの手を握る、風見さんは綺麗な瞳で僕を少し眺めたけれど、それだけだった。僕の手をぎゅっと握り返す。
駅地下にはいろいろあり、僕達は洋菓子店を後回しにして、本屋へ行く。オススメの小説を紹介し合ったり、あまり知らない分野の作品を二人で吟味してみたり。それから、柱の広告にクマキスっていうアーティストのライブ情報を見つけたので、それをダシにクマキスのどの曲が好きかを話し合ったりする。びっくりするほど話が合う。風見理音が小説を読んだりクマキスを聴いたりしているのは前々から知っていたけれど、改めて、話していて飽きない。楽しい。手もずっと繋ぎっぱなしでドキドキしてしまう。
洋菓子店の前でクラスメイトに見つかる。佐倉さんと、別のクラスの女子達だ。人混みがすごくて気付けなかった。佐倉さんは僕と風見さんの手の所在をめざとく見つけ「理音ちゃんと奥村くんって付き合ってるの?」と興奮する。
僕は風見さんの手をより強く握るが、なんて答えればいいんだろう? 風見さんをチラリと見る。
風見さんは僕と目を合わせてから「付き合ってるよ」と佐倉さんに言い放つ。
「いいじゃーん」と佐倉さんは喜ぶが、僕も内心浮かれる。
僕は風見理音が好きで、風見理音も僕を好いてくれているふうだったから手を繋いだんだけど、口ではまだ何も言っていない。暗黙で交際をスタートさせることになるのかな?とすらまだ思っていなかった段階で、この展開。助かる。
佐倉さん達が去ってから、僕は風見さんを恐る恐る見る。風見さんは「ごめん。嫌だった?」と言う。
「そんなわけないよ」と僕は返す。「曖昧なまま手ぇ繋いだりしてごめん」
「ううん」首を振る風見さん。「わたし、奥村くんのそういうとこ好きだよ。わたしの気持ち、わかってくれてて嬉しい」
「わかってるんだかどうなんだか。僕がただ風見さんと手を繋ぎたかっただけかもしれないよ?」
「わたしのこと好き?」
「うん」店前で告白してしまう。「好き」
「ふっふー」と風見さんは嬉しそうにする。「名前で呼んでね?」
「理音ちゃん」
「理音でいいよ。理音々でもいいよ」
「理音々」
「理音々は二人きりのときだけね」
「……今日、スイーツ食べれるかな?」
僕が言うと、理音も「ね」と同意する。「お腹いっぱい胸いっぱいになっちゃったんだけど。お菓子食べる気になれないかも」
「また明日買いに来る?」
「明日もいっしょに来てくれるの?」
「明日もっていうか、毎日いっしょに帰ろうよ」
「うん」理音はニッコニコだ。「ふふふ」
甘々すぎてやばい。洋菓子店すら胃もたれさせられそうなほどに僕も理音も甘い。でも理音が可愛すぎるからいけないのだ。
付き合い始めた日はもう何も喉を通らないような感じだったけれど、別の日に約束通り洋菓子店を再訪問していろいろ買う。買ったものを少しだけ、駅前の大階段に腰かけて味見する。その中にハチミツを使ったスイーツがあって、僕は理音の虹彩をハチミツに喩えたことを思い出す。
理音もハチミツで何かを思い出したらしく、口を開く。「そういえばね? 元カレが」
「あーー……」と僕は被せ気味に声を出す。「元カレの話は嫌かも」
というか理音に彼氏がいたことも今知った。僕達はお互いに初交際だと勝手に思っていたから、不意打ちの衝撃が僕を必要以上に叩きのめした。
「あっ、ごめん」理音は口を押さえつつ謝る。「ごめんごめん。そうだよね? ごめん。ごめんなさい」
元カレの話なんて嫌だと言ったのは僕なのに、でも訊いてしまう。「誰と付き合ってたの? 高校入ってから?」
「うん。林堂くん。知ってる?」
「ああ……」知ってる。芳日高校生にしては派手な男子だ。今は六組にいた気がする。
「ねえ、宝希くん。一年生のときに二ヶ月くらい付き合ってただけだから。なんにもしてないよ? 本当に」
「なんにも?」僕の内蔵が体内で炎上している。熱いものが揺らめいている。
「なんにも。手も繋いでないよ」
「そうなんだ?」
「うん。林堂くんから告白されて付き合ったけど、どうしてもわたしの気持ちがそういうふうにならないから、ごめんなさいって言って別れてもらったの」
「…………」すごく嫌だけど、林堂くんから告白して理音の方から別れを切り出したのならまだいいか? せめてもの慰めになる。
「嫌な思いさせてごめん」
「や、全然。付き合うくらい当たり前なんじゃない?」僕はこんなだから女子と付き合うのなんて人生初だけど、高二にもなったら交際経験ぐらいあるだろう。「理音は可愛いから」
「別に可愛くはないよ」
「可愛いよ」
「目が黄色いだけ」
「そんなの……」
「どうでもいいんだよね?」と理音が先回りして言う。「宝希くんはわたしと目を合わすときも、わたしの目よりもずっと奥の部分を見てくれてるもんね? 見られ慣れてるから、わかるんだ、なんとなく。わたしは宝希くんのそういうところも好き」
「……綺麗だとは思ってるよ?」
「でも、わたしを『黄色い目の女子』とは思ってないでしょ?」
「当たり前じゃん」と僕は少し笑ってしまう。「僕にとってかけがえのない人だよ、理音は」
「わたしもだよ」
「二ヶ月で愛想尽かされないようにしないと」
嫌味っぽくなったかな?とちょっと反省していると、「わたしが追いかけてる側だから」と理音に言われる。「宝希くんを絶対に手放したくないのはわたしの方だから」
「まさか。僕の方だよ、それは。なんで僕なんかがって思うもん」
「やめてよ。わからないの?」
わかる。本当はわかっている。「僕が阿だとしたら、理音は吽だからでしょ?」
「うん?」
「僕が山なら理音は川だし」
「ああ……わたしがパンなら宝希くんがごはん?」
「うーん……僕がごはんなら理音は味噌汁じゃない?」
「そっか。ふふ。パンとごはんだったら、山と海くらいに離れてるかな」
理音が笑うので僕も笑った。「洋菓子と和菓子くらい違うかもね」
それから改めて、「大好きだよ、宝希くん」と言われる。
理音はなぜか僕の名前に促音を加えて呼ぶ。『ホッキ』じゃなくて『ホウキ』なんだけどなあと思うけれど、そんなの間違えるはずないだろうから、きっと敢えてそう呼んでいるんだろう。確かめはしないけど。
「……ところで、元カレがどうしたの?」僕はけっきょく尋ねる。
「けっきょく聞きたいの?」と理音にも苦笑される。「でも、いい。なんでもない。ごめん」
「気になるよ」
「どうでもいい話だったよ。つまらない話」
「聞いてみたい」
「うーーん」
「聞いてもヤキモチ焼かないから」たぶん。
「ヤキモチとかじゃないんだけどね。えっと、宝希くん、わたしの目のこと、ハチミツみたいって言ったでしょ? で、今ここにハチミツが出てきたから思い出したんだけど、林堂くんがわたしの目を舐めたいって言って……」
僕は反射的に立ち上がる。ヤキモチは焼かないが、言いようのないモヤモヤが燃え上がる。「舐めた?」
「舐めてない舐めてない」理音は両手をパタパタ振り否定する。それから僕を座らせる。「もちろん断ったっていうか、拒否したよ」
「そんなの最悪だよ」なんとなく気持ちはわかるが、彼氏として聞かされると不快だった。いや、その当時は林堂くんが理音の彼氏で僕は部外者なんだから僕に怒る筋合いはないんだけれど。僕は理音の元カレに情緒を掻き乱されていた。
「絶対に舐めさせてないから。落ち着いて」
理音から見ても僕は落ち着いてないのか。「うん……」
「いや、笑い話になるかなと思ったんだけど、ならなさそうだったからお蔵入りにしたのに、宝希くんまた訊いてくるんだもん」
「気になるし」
「ごめん。わたしの配慮が足りなすぎたよ」
「ううん。なんでも話してくれるのは嬉しいよ」
理音は少し黙り、「わたしの目、舐めたい?」と尋ねてくる。「宝希くんならいいよ」
「いや、いやいや」そんなの舐めてみたい気もするけど、なんか恐いし、そもそもそういう行為って存在するのか?とスマホで調べてみるとちゃんとある。が、瞳の健康にはよくないようだ。雑菌とか。恐っ。「舐めない方がいいみたいだよ」
「知ってる」と理音。「わたしも調べたことあるから」
それでも舐めていいと言ってくれるのか。僕はもちろん遠慮するけど。「そもそもキスもしてないのに。いきなり眼球舐めってどうなの?」
「マニアックだね」
「うん」
「……キスする?」理音は人通りを窺いながら、大胆にもこんな場所でほっぺにチュウしてくる。
「……林堂くんとしたことある?」
「ないよ」と理音は言う。「次は宝希くんの番ね。宝希くんがする番」
「ええ……無理」老若男女さまざまな人がいて大階段を上り下りしている。こんなところでチュウチュウしていたら補導されてしまうんじゃないだろうか。「理音は度胸あるね」
「宝希くんが好きすぎるだけだから」と言う理音はもうあんまり赤面していない。「宝希くんには何されても怒らないから。いきなりキスしてきてもいいし、どこ触ってもいいよ? 本当に。覚えといてね?」
すごく愛されている、と思う。でも僕には人前でキスする図太さもイチャイチャし始める勇気もない。手は勝手に繋いだけども。でも、そんな僕だからこそ理音は慕ってくれるんじゃないかな?とも思っている。
ただ、僕と理音は四六時中いっしょにいるから、人の二倍三倍のスピードで急速に親密になり、二人きりだともうメチャクチャだ。甘々の濃霧が立ち込めて周囲が見えなくなる。
たいてい僕の部屋でイチャイチャをする。最初、びっくりした。理音はめり込みそうなほどくっついてきて、「宝希くん、しゅきしゅき」と甘えてきた。「理音々、宝希くんのことホントに大しゅき。宝希くん、理音々のこと全部食べて」
女子って彼氏と二人きりになるとみんなこんなふうになるの? ならない。僕は理音のことしか知らないが、それでもなんとなくわかる。理音が単にこんなふうにして甘えたがる子なのだ。学校での真面目でおとなしい姿からは想像できない変貌っぷりで、僕もがむしゃらに可愛がってしまう。こういうのが苦手な男子もいるだろう。僕も初っ端は呆気にとられてしまったが、たぶん理音は僕がそれを受け入れてくれるであろうことも含めて僕を選んでくれたんだと思う。僕は全然平気。むしろ可愛すぎてやばい。普段の透明感に満ちた声もふにゃふにゃで、それが耳に入ってくると恍惚としてしまう。
「宝希くん、理音々の体、全部触って。奥の奥まで愛して。このままずーっとこうしていて。しゅきしゅきしゅき。愛ちてる。大しゅき」
僕は慣れていなくて理音を完璧に満足させることはたぶんできておらず、ずっとこうしていてと言われてもそんなにずっとは不可能で申し訳ないんだが、それでも理音はいつも嬉しそうだった。僕もそうだし、慣れてはいなくても愛情表現ということに関して僕はまったく手を抜いていないので、いつも全力なので、それについてのみは理音に充分伝わっているんだろうなと思える。
三年生になって僕と理音はまた別々のクラスになるが、付き合い方は変わらなくて相変わらず仲良しだ。進路も早めに決めてしまう。鳥山大学。自宅から近いし、偏差値もほどよい。僕も理音も学力は似たり寄ったりで、ポテンシャル的にはもうひとつ上位の凛堂学院大学や西要大学へも行けそうだったが、理音が少しだけ本番に弱くて危うそうだったから、無難に鳥山大学を目指す。
理音は「宝希くん、もっといい大学行かなくていいの?」と心配してくる。
「そんなに変わらないよ」鳥山と凛堂学院でしょ? いっしょみたいなもんだ。「鳥山も悪くないし。それより理音と絶対同じ大学行きたいし」
「ありがとう」
「っていうか、僕がそうしたいし」
「わたしもそれがいい」
「うん」
理音と県外で同棲しながら学生生活……という夢にも憧れたものの、よくわからない大学を目指して、片方だけが合格して片方が落ちるなどという展開になると目も当てられないし、志望校は地元で固めた方が安全だろう。
高三にもなると、いよいよ将来が開けてきたなあという実感が湧く。僕は大学でどんなことを学び、それを糧に何を職業とすればいいんだろう? まだ細かいことまではわからない。考えていない。ただ、理音にはずっと傍にいてほしいし、僕も理音を支え続けたい。愛し続けたい。それだけは定まったビジョンだ。
理音は僕と付き合っているし、同学年の生徒ならたぶんほぼほぼ把握しているはずなのに、にも関わらず、告白してくる奴がいて困る。理音は僕と交際中にも三回くらい告白されていて、モテすぎて戦々恐々としてしまう。普通の生徒は理音の瞳だけを鑑賞してそれで満足して帰っていくもんだとなんとなく思っていたから、そのラインを越えてこようとする奴が少なくとも三人いたというのは脅威だ。うん、まあ、林堂くんも告白したわけだしなあ。
「宝希くんに愛されすぎて綺麗になったからじゃない?」と理音は暢気だ。「女子は愛されると美しくなるっていうから」
「胸を揉むと育つみたいな話かな……?」
「胸は育ってないけどね」と理音は苦笑する。「でもわたし、自分でも思うもん。宝希くんと知り合って、付き合って、絶対可愛くなってるもん。宝希くんに可愛がられたいから美容とかにも気を遣うでしょ? そうじゃなくても単純に、性格も前向きになってるし。魅力増し増しなんじゃないかな」
「増し増しにならなくてもいいよ」不安も増し増しになる。
「宝希くん以外見てないんだからいいでしょ?」
「うん」
「宝希くんもわたししか見てない?」
「もちろんだよ」
「でも最近、物思いに耽ることあるよね?」
「えっ?」
「なに考えてるの?」
「えー……なんだろう?」
「なんか考えてるよ。ぼーっとしてることよくあるもん。わたしわかるよ」理音が黄色い瞳でじっと見てくる。「進路のこと? 他に行きたい大学ある?」
「ないよ」鳥山大学がやはりベストだと思う。
「他の女の子のこと?」
「バカ言わないでよ」他の女の子なんて必要ない。
「なんだろう? 将来のこと?」
僕を見つめる理音を見つめ返していて、「あ」と思いつく。「ひとつだけ悩みがあるんだよね。たぶんそれのことじゃないかな」
「……なあに?」
「僕に娘が出来るとするでしょ? その娘がちゃんとイエローアイを引き継げるかが心配なんだよ」
理音は黄色の瞳を丸くして「あははは!」と大声で笑う。「そのことを考えてたの?」
「考えてるとしたらそれ」
「そんなのどうでもいいよ」
「いや、女の子には絶対遺伝するんでしょ?イエローアイって」
「今のところはね」
理音のお母さんもそうだし、おばあちゃんもそうなのだ。それより上も、ずっとずっとそうで、その流れは定まっているのだ。
「僕がその連鎖を断ち切るわけにはいかないよ」
本当に綺麗なハチミツ色なのだ。なくしたいとは思わない。なくしてしまうことは、罪深いだろう。
「ふふ。それ、プロポーズの言葉でいい?」理音は涙を流しながら笑っていて、それは爆笑しすぎたからではなくて、なんか感動していて……。
「あ」そうか。子供を作る前に結婚しなくちゃいけないのだ。僕はもう自分の娘の虹彩のことを考えてしまっていた。「ごめん。未来を先取りしすぎてた」
「いいんだよ」
「進路ならまだしも、そこまで先のことなんてわかんないもんね」
僕と理音にこの先、何が起こるかなんてわからない。
「わかるよ」と理音は自信満々だ。「だからわたし、宝希くんのこと好きなの」
「……僕も理音のこと好きだよ」
「宝希くんはわたしに何したっていいんだよ、って言ったよね?前に」と理音。「結婚したっていいし、子作りしたっていいの」
「そこまで?」って言いながらも、僕もそこは前提で考えてしまっていたのだ。
「でも」理音が僕に顔を近づけてきて、間近で目を合わせる。黄色い瞳に僕の視線は惑いそうになるが、そういう気持ちになるというだけで、惑う余地などないくらい理音の瞳は僕の視界いっぱいだった。「生まれてきた娘が宝希くんの瞳の色でも、わたしは全然構わないよ。宝希くんの瞳、わたし好きだもん」
「僕のはありふれた瞳だよ」好きとか嫌いとかなくない?
「そうかな?」理音がコツンとおでこをぶつけてくる。「わたしだけをずっと見ててくれる、優しい瞳。わたしがあなたを見るたびに、あなたもわたしを見てるんだ。わたしはあなたの瞳の方こそ、ここで断ち切りたくないよ?」
歌うように、理音が言う。