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後編

 五月の日差しは意外と強い。日焼け止めは塗ってきたけれど、日向で読書はしたくないと思った。


 運動公園には大きなサッカーコートが一つと、野球ができる大きさのグラウンドがあって、それらをランニング用のコースがぐるりと囲んでいる。


 私は運動公園のグラウンドの方ではなく、木が多くて薄暗い方へと歩いていく。平日の運動公園にはあまり人がいなくて、せいぜいランニングをしているおじいちゃんか、幼い子供を散歩に連れたお母さんがいるくらいだった。


 さわさわと揺れる木漏れ日の中を歩いて、私はお気に入りのベンチへと向かう。かれこれ一年くらい、たまに私はこのベンチに座って好きなことをしながら、ゆっくりと流れる時間を過ごしていた。


 しかし、今日のベンチには先客がいた。白い帽子を被った綺麗な奥さまが、ベンチの端に腰掛けて本を読んでいたのだ。


 既婚かどうかは分からないけれど、「奥さま」と呼びたくなるような気品を持っている人だった。


 他のベンチに行こうかとも思ったけれど、ここに来て回れ右するのは何となく彼女を避けているようで、失礼な気がした。私は彼女と反対側のベンチの端に座って、本を読み始める。


 小学生の私には馴染みのなかった昭和初期の児童書独特の文体が、今の私にはすっと馴染んでいく。このくらい、大学受験のときにたくさん読まされた文豪の私小説に比べれば軽いものだ。


 春になって枝から生えてきた若葉が、少しずつ緑を濃くしてきている。空の青さと葉の緑色が、微かに夏の気配を感じさせた。


「何を読んでいらっしゃるの?」


 突然、隣の奥さまから話しかけられた。綺麗な、凛と響く声だった。


 話しかけられるなんて思ってもいなかったから、私は慌てて返事をする。危うく舌を噛みそうになった。


「『怪人二十面相』です。江戸川乱歩の」


 言ってから、急に自分が恥ずかしくなった。昼間の公園で児童書を読むだなんて、子供っぽすぎないだろうか。

 

 私は普段から児童書を読むような大人ではないのに、そう思われてしまうのは決まりが悪い。何か言おうと思って口を開くより早く、奥さまが顔を輝かせた。


「あら素敵、あなたも児童書を読むのね」


 花が咲いたような笑顔とは、こういうのを言うのかと納得した。


「奥さまもですか?」


 言ってしまってはっと口を押さえる。「奥さま」と言うのは私の心の中だけでの呼び名なのに、つい口に出してしまった。


 恐る恐る彼女を見ると、コロコロと楽しそうに笑っている。私は安心して、口に当てていた手をゆっくりと膝に戻した。


「奥さまなんて呼ばれるほど、私は素敵なマダムじゃないのよ。でもそうね、名乗っていなかったもの、仕方ないわ」


 おかしそうに目尻を指で拭って、彼女は「かすみ」と名乗った。私はブーケの中に入っている、控えめで上品なかすみ草を頭の中に描く。ぴったりの名前だと思った。


「怪人二十面相がお好きなの?」


 かすみさんはそう聞くけれど、好きか嫌いかすら分からないほど、私はまだ序盤しか読んでいなかった。


「ええと、実は読むの初めてで」

「まあ、そうなの?」


 一度読んだときは挫折しているので、別に初めてと言っても嘘ではないはずだ。


 そう言ってからまた、「大人になってから新しい児童書に手を出すなんて」って思われていないか心配になる。嘘でも「お気に入りで何度も読み返している」と言った方が、大人が児童書を読む理由になる気がした。


「その、こんな歳で児童書なんて変ですよね。でも本屋さんでたまたま見つけただけで、いつも読んでるわけじゃなくて」

「あら、私が今読んでいるのも児童書よ?」

「え?」


 てっきり古典か、あるいは詩集でも読んでいるのだろうと勝手に思っていた私は、彼女の大人な見た目と無邪気な中身とのギャップに目が点になる。


「『ロビン・フッドの物語』よ。お読みになったことはあるかしら?」


 首を横に振ると、かすみさんは話し始める。メゾソプラノの芯のあるしっとりした声は、春の雨音のように心地よい。彼女は歌うようにとあるヒーローの話を始めた。


「ロビン・フッドというのはね、イギリスで愛される伝説の英雄なの。悪い王様に反旗を翻すべく立ち上がった、民衆の希望の星よ」


 かすみさんは楽しそうに話す。よほどロビン・フッドに思い入れがあるようで、頬を上気させて話す様子は恋をしている乙女そのものだ。


 ロビン・フッドは義賊なのだそうだ。つまり、悪い人が悪い方法で得た物を彼が盗んで、善良な市民達に返す。そうして人々は王の悪政の中でも、笑顔と元気を取り戻していったのだと言う。


 なんとなくどこかで聞いたことある話だと思いながら、私はかすみさんの話に耳を傾けていた。


「ところであなた、港区で宝石が盗まれたニュースはご存知?」

「はい、今朝見ました」


 かすみさんはどことなくソワソワしているようだった。


「私、まるでロビン・フッドのようだと思うの。汚いお金で買われた宝石を盗んで、悪事を世に知らしめるなんて」


 そうだ、かすみさんがロビン・フッドの話をしていたときに私の中に引っかかっていたのは、今朝のニュースのことだった。


「確かに、そうかもしれませんね」


 私は彼女の言葉に曖昧に頷く。

 ロビン・フッドの生き方が悪いとは思わないけれど、それを引き合いに泥棒を正当化するのは違うと思ったからだ。


 いくら高尚な動機があるとしても、盗むことはいけないことだ。私はそう信じているけれど、一方で悪い人がきちんと捕まって安心する人もいるだろう。


 先程まで読んでいた『怪人二十面相』の、初めの部分を思い出す。怪人二十面相は高い宝石や美術品しか盗まないし、現金を奪ったり誰かに危害を加えたりすることを基本的にしないのだ。


「悪い人に買われて輝き続ける宝石なんて、きっと不幸せだわ。だったら、ロビン・フッドでも鼠小僧でも怪人二十面相でも、良い人にもらわれてほしい。美しい宝石に罪は無いんだから」


 そう言ってかすみさんは、おもむろに小さなハンドバッグに手を入れた。


 出てきたのは運動公園の古いベンチに不似合いな、大きくて七色に輝くダイヤモンドだった。私は稲妻に打たれたかのように固まって、その美しい石から目が離せなくなる。


 見るからに高級なその宝石は、今朝テレビの画面の中に見た大粒のダイヤモンドによく似ていた。


「ほら見て、星のようでしょう。……若いあなたのこの先の人生に、星の祝福がありますように」


 かすみさんがしゃなりとベンチから立ち上がると、青いスカートが風で膨らんだ。星の欠片を手に持った女性が佇む光景は、一枚の絵画のようである。


 木の葉の影が濃くなってきて、暖かく柔らかな風が吹いた。朝歩いてて感じたような、気持ちの悪い生ぬるさは無かった。


 ハッと割れに返った頃には、ベンチには私一人しか座っていなかった。周りを見渡しても、かすみさんらしき人はいない。


 「狐につままれたような」という表現は、きっとこんなときのためにあるのだろう。


 私が出会った一人の美しい女性は、もしかしたら怪人二十面相だったのかもしれない。

キーワードは「水曜日」「宝石」「ニュース」でした。

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