十八片「朔と雅」
阿戸と岩永姫が部屋を出ていったのを見送った穂火が、手力へ顔を向ける。
「さて、手力右将軍。私たちも屋敷周辺を確認しにまいりましょう」
穂火は真剣な表情で視線を室内にも巡らせる。
「日が高いうちに、賊の侵入経路と逃走経路と思しき場所を見ておく必要があります。何か手がかりが残されているかもしれません」
「そうですな」
穂火の言葉を受け、手力も腰を上げる。
「では、私はこのまま侍女殿の証言を聞いております」
「はい、朔さま。後程、情報のすり合わせを行いましょう」
そう言って穂火と手力の二人が部屋を出ていく。
「……朔さま、人払いをさせますか?」
雅はちらりと埴輪たちを振り向いた。雅の視線を受け、エミツラ、ナキツラ、シカメツラが同時に朔を振り向く。
席を外した方がいいのか、そう尋ねているようにも見える。朔と雅の雰囲気を察して気遣ってくれたのだろう。実に利口な埴輪たちである。
「同席していただいて結構ですよ。ただ、岩永姫さまと阿戸殿にはまだ内緒にしていてください」
朔が微笑むと、三体の埴輪たちは心得たという風に手を上げた。
雅がそっと頭を垂れる。
「申し訳ありません、朔さま」
雅の硬い声がこぼした。朔は雅に向き直ると、厳しい表情のまま小さく唸る。
「『埋』の頭領である貴女が手傷を負うなど……相手は余程の手練れと見えます」
「はい。只人の挙動ではあり得ません。おそらく……こちら側の者でしょう」
周囲の気配を常に気にしながら、雅は小声で朔に報告した。
「埋」とは、星読宮巫覡長直轄の諜報機関である。中小国が常に争うこの戦乱の時代、瑞津穂の地には他国の内情を知るための「影」の役割を担う組織作りが盛んに行われていた。
豊稲国における「埋」もまたその一つで、代々の星読宮巫覡長が選抜してきた信頼のおける巫覡たちから構成されていた。いわゆる諜報員のことで、市井に身を「埋」、他国の情勢を探り、本国に情報を流すことを使命としている者たちである。彼らは過酷な任務をこなすために左軍部顔負けの鍛錬と修行を重ね、豊稲国を現世・常世の両面から守ってきた。
星読宮の巫覡たちが豊稲国の祭事全般に加え、時に王の政にも干渉するだけの権限を持っているのはこういった事情がある。
この時代、政教一致の支配体系が主流となっており、神々と人との関わりを橋渡す巫覡たちの発言力は時に王すらも凌駕した。他国からの侵略に備える一方、人知が及ばぬ現象に対処するために神々の助力を得て国土の安寧を計ることは、豊稲国を含めた瑞津穂の地に存在する全ての国で共通に抱える問題であったからだ。
「では、報告を聞きましょう」
朔が静かな声で促すと、雅は無言で頷いた。
「体格から、賊はおそらく女性であると思われます」
雅の鋭い視線は、記憶の中に焼き付いた賊を見据えていた。暗闇の中、雅とその部下の目をあっさりと掻い潜って見せた侵入者に、雅は悔し気に歯噛みする。
「見慣れぬ鉄器を操り、その武芸も大陸からの剣舞の流れを汲んでいるものと思われます」
「……八雲、ですか」
朔の声音に険が混じる。
「豊稲国と周辺諸国の情勢を踏まえると、その線が濃厚かと……」
雅は慎重に答えた。とはいえ、この瑞津穂の地で「鉄器」を手に入れるとなれば、大陸と通ずる国力が必要である。そして、そんな国は瑞津穂の地で片手の数も満たない。
さっそく動き出しましたか、と朔は苦い表情で吐き捨てる。
「岩永姫さま、あるいは阿戸さまの身の回りの情報を得ようとしたのでしょう。手傷は負わせましたので、まだ国内のどこかに潜んでいるかと……」
朔が顎に手をやり、しばし考えるような素振りを見せた。
「……後程、右軍部に都内に滞在中の旅人を調べるよう通達しておきましょう。収穫祭を終え、これから冬にかけて、一時的な定住を見越した旅人も多い時期です。そう遠くへは逃げていないはず……」
「人の出入りが多いですし、しばしの時を諜報活動に費やすには十分です」
険しい表情で囁き合う二人の間で、三体の埴輪たちもそわそわとした様子で顔を見合わせている。
「それで、『目印』はどこに?」
朔が尋ねると、雅はすぐさま左の前腕を指差す。
雅の白い指先が、手首から肘にかけてつっとなぞった。
「わかりました。ここ数日で左前腕を負傷した人間を洗い出しましょう」
朔が雅にそう請け負ったところで、廊下を踏む足音が近づいてきた。二人の視線が布蔀へ向く。
「確認してきました。特に盗られたものはなさそうです」
阿戸が布蔀を押し上げながら朔と雅に声をかけてきた。振り返った朔の瞳が、阿戸の後ろで浮かない表情を浮かべた岩永姫に向く。
「……そうですか。それは何よりです」
朔は阿戸に微笑みかけると、目で雅を示した。
「この通り、雅にはしばし療養が必要です。その間、星読宮から代わりの人材を数名、送りましょう」
「ありがとうございます」
「雅、しっかり休むのじゃぞ。無理をしては傷に響く」
朔に頭を下げる阿戸の横で、岩永姫は雅を気遣う。
「はい、ご迷惑をおかけいたします」
雅が申し訳なさそうに頭を下げる。
「何が迷惑なものか。雅はいつも屋敷内で人一倍働いてくれておる。たまには息抜きも必要じゃ」
岩永姫がそう微笑むと、雅もつられるようにしてその口元が緩んだ。
「賊が捕まるまで、右軍部からも警護として人員を派遣しよう」
遅れて部屋に入って来た手力が口を挟んだ。
その後ろから何やら考え込んでいる穂火がついてきている。
「先程、穂火さまと賊の侵入経路を洗い出したのだが、堂々と衛兵の詰め所を通ってきたようだ。こういった手合いは人間の死角をよく心得ている。雷とも相談して、夜目の利く者をあてがおうと思う」
手力は阿戸と岩永姫を交互に見据える。
「岩永姫さまと阿戸殿は、この豊稲国にとって重要な立ち位置にいる。そして、他国としても二人の存在は無視できん。今後はより一層、己の身辺に注意を払ってほしい」
「わかりました」
「うむ……気を付ける」
頷く阿戸に倣い、岩永姫も承諾する。彼女の視線は、常に阿戸の横顔に注がれていた。
「穂火さまも、何か気づいたことがあれば教えていただければと存じます」
朔が黙り込んでいる穂火に声をかけた。
「現状で私から言えることは、相手が手練れ、ということくらいでしょう。それ以外は私の予測の域を出ません。もう少し調査を進めてから、改めてお話させてください」
穂火は自分に集中する視線に気づくと、満面に微笑を浮かべてそう言った。
「承知いたしました。必要なものがございましたら、星読宮までお願いします」
「ありがとうございます、朔さま」
穂火と朔の会話を最後に、負傷した雅を気遣ってその日は解散となった。
本当に、このまま皆を帰してもよいのだろうか……。
阿戸とともに皆を見送りに出た岩永姫はやや上の空で、阿戸の横顔を盗み見ている。
「では、何か不審なもの、人を見かけたら必ず我らに知らせてください」
「はい、承知しました」
朔の言葉を受け、阿戸がしっかりと頷く。その度に、岩永姫ではもやもやとした不安が広がっていった。
「岩永姫も疲れただろう? 中へ入って少し休もう」
朔たちが立ち去ると、阿戸が立ち尽くしている岩永姫を気遣わしげに声をかけた。阿戸の優しい声音に突き動かされた岩永姫は、阿戸の袖をそっと引いた。
「阿戸!」
歩き出そうとしていた阿戸が、岩永姫を振り向いて足を止める。僅かに目を見張った阿戸を前に、岩永姫はもう自分の不安を抑えることができなかった。
「阿戸、本当に何もなかったのか?」
阿戸は何事にも慎重だ。しかし、言うべき時はしっかりと意見する度胸も持ち合わせている。
もしも賊の痕跡を阿戸が発見していたのだとして、それを黙っている理由もないはずである。こちらは侍女を傷つけられたのだ。自分たちの所持品を確認している間も、阿戸は雅が傷つけられたことを岩永姫とともに憤っていた。阿戸が犯人を庇うようなことをするとは思えない。
岩永姫の冷静な部分がそう囁いていた。
わたくしの気にし過ぎだろうか……。
不安で揺れる心を落ち着かせるように、岩永姫は阿戸の顔を見つめる。
「ああ、大丈夫。何も盗られてないよ」
阿戸は己を見つめる岩永姫をそっと抱きしめると、柔らかい口調で続ける。
「急なことが色々あって……俺も理解が追い付いてきてなかったんだ。不安にさせたみたいで悪かった」
岩永姫の顔を覗き込み、阿戸は愛おしげに岩永姫の頬を撫でる。阿戸のあたたかい手に触れられて、岩永姫は緊張で強張っていた体がゆっくりと解れていくような感覚がした。
「い、いや……何もなかったのであればよいのじゃ。わたくしも過敏になっておったのじゃろう」
岩永姫は苦笑を浮かべ、頬に触れる阿戸の手に己のそれを重ねた。
そうだ、阿戸はいつだって必要なことは話してくれる。賊に関する情報が足らない今、余計なことを言って皆を混乱させないようにしているのかもしれない。
岩永姫はそこまで思考を巡らせ、自分が感じた不安を胸の奥底に仕舞い込む。
「賊の正体を見極めるためにも、今日はゆっくり休もう」
笑顔になった岩永姫が、阿戸にそう笑いかけた。
「ああ、そうしよう」
阿戸は岩永姫の肩を抱きながら、屋敷へと戻っていく。
安堵の表情を浮かべる岩永姫の傍らで、阿戸の表情は険しさを増していったのだった。
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