九片「悪夢との葛藤」
阿戸が作業をする間、岩永姫に与えられた指示はたった一つだった。
「どんなことが起きても、絶対に動ないこと。声を出さないこと。これをとにかく徹底して守ってほしい」
阿戸の指示通り、岩永姫は己の身体を粘土質に変えて以降、沈黙を守り続けた。阿戸が己の身体を伸ばし、叩きつけ、さらに体重を乗せて伸ばしていく。
痛みは感じない。もともと生物が持つ痛覚を持ち合わせていない身体である。
岩永姫としては自分の身体が作り替えられていくな、という感覚だけが伝わってきた。
岩永姫と阿戸を遠巻きに眺めている狼たちが一匹、また一匹と森の奥へと消えていく。おおかた、主である山主神へ報告に向かっているのだろう。しかし、阿戸が作業の合間に火を絶やさず枝をくべているため、近づくこともできない。
阿戸は緊張の面持ちで、粘土を何度か伸ばす作業を繰り返した後、岩永姫の身体を整えていく。彼の指先が動く度、岩永姫の姿は刻一刻と変化する。自分で確認することはできないが、阿戸の指先はどこまでも丁寧だった。
ああ、わたくしは以前彼が作っていた「玉」と同じなのだ。
岩永姫はぼんやりと、記憶の中で阿戸が磨き上げていた翡翠の玉を思い起こす。岩永姫の身体から採った時は、ごつごつした表面の鉱石でしかなかった。それが阿戸の手にかかるとみるみる光沢が増し、艶やかな表面へと変化していった。
きっと大丈夫。あの翡翠の玉のように、阿戸ならば必ずや岩永姫を生まれ変わらせてくれる。
岩永姫はどこか確信めいた予感を抱いた。
やがて形を整える作業を終えると、阿戸は岩永姫をしばらく空の下に寝かせていた。
「今、君の身体に含まれた水分を飛ばして乾燥させているんだ」
岩永姫が話しかけられないため、阿戸は作業をしながら絶えず彼女に声をかけていた。その大半が「今どんな作業をしているか」の説明であった。
しかし時には「動かずにいてくれて、ありがとう」といった礼を述べることもあれば、「辛くないか? もう少し辛抱してくれ」とこちらの不自由を気遣うような言葉をかけてくれることもあった。
ほんに、几帳面じゃなぁ……阿戸は。
阿戸が声をかけてくるたびに、岩永姫は内心で穏やかに笑う。同時に、彼の声を聞く度に岩永姫は言い知れぬ感覚を味わっていた。それは時に春の日だまりでくつろいでいるときのようなふわふわとしたような心地であった。またある時は何故だか阿戸の前から逃げ出して、その辺の叢に身を隠したいような衝動であった。
今まで経験したことのない感覚を前に、岩永姫の心は大忙しだった。
阿戸の声を聞くと安心する。けれど、落ち着かない。落ち着かないが、動くわけにはいかない。でも、彼の声を聞くとどうしても体がうずうずして仕方がない。
なんとももどかしい思いだった。
そうして何度、日が沈み、月が昇ったことだろうか。
いよいよ、岩永姫の身体は窯の中へ運び込まれた。
「これから、素焼きを行う。君の身体を、美しい姿のまま留めておくための大事な作業だ」
阿戸が穏やかに微笑む。彼のあかぎれてごつごつした手のひらが、岩永姫の頬をそっと撫でた。触れるか、触れないかの距離。
岩永姫はすぐにでも体を起こして、阿戸の手を掴んで自分の頬へ押し付けたい衝動に駆られた。何故そんな衝動に駆られたのか、岩永姫は自分でも戸惑っていた。
阿戸が岩永姫を覗き込む。
「必ず、君を……妹さんにも負けない美しい姿にしてみせる」
阿戸はそう言って、岩永姫を置いて窯から出ていった。暗闇に閉ざされた窯の中で、次第に体を包む温度が上がっていく。
阿戸が残した言葉を何度も頭の中で思い起こし、岩永姫はひたすらに己の中の恐怖と戦った。
それから、どれくらいの月日を窯の中で過ごしたことだろうか。
今は、何刻限であろうか?
昼夜を問わず、暗闇と熱気のこもる空間で過ごしている。岩永姫に、窯の外の時を知る術は持ち合わせていなかった。とにかくじっとしていろ、と阿戸には指示されている。窯の中にいるこの時間こそ、もっとも大事な作業なのだと岩永姫も重々理解していた。そのため、動かせない体に代わって、暇つぶしにひたすら思考を巡らせる。
根の国に赴く際は、このような心地なのだろうか。
岩永姫の思考がぼんやりと呟く。
生物がその一生を終えるとき、こうして真っ暗な土の中で眠ると聞いたことがある。ある意味、己の状況はまさに一時的な「死」を体験していると言っていい。
あぁ、そういえば阿戸はその時に特別な衣服を用意すると言っていた。そして妙齢の女性は皆、髪を綺麗に結い、飾りをつけると聞く。花が散らされ、赤子のように丸まって鳥の卵のような器に入って眠るのだという。
わたくしは、今どうなっているのであろうか。
思考がそちらに意識を向けたところで、岩永姫は慌てた。不安を呟き続けてしまえば、暗闇と熱気の中に一人で居続けることが恐ろしくなってくる。
岩永姫は不安を和らげるために、ここから出た後のことに思いを馳せることにした。
人間たちの纏う「装い」には興味があった。この窯から出た後は、自分も人間たちが纏う「衣服」を着るのだろうか。それはどんな姿だろうか。今の自分の姿がどうなっているかわからない以上、岩永姫の期待とは裏腹にそれ以上の想像を巡らせることはできなかった。
ぱたりと思考が途切れる。
そうすると、嫌な記憶がすぐさま鎌首をもたげてきた。
脳裏に蘇るのは、己を手ひどく突き放した男の言葉だった。
――ハッ、そのような化け物みたいに醜い外見で何を言うか。
数多の人々がかしずく中で、照守王が嘲笑とともに岩永姫に告げる。その隣には、ただ柔らかな微笑を浮かべた咲夜姫が立っていた。こちらが助けを求めるように見つめても、美しい妹の顔はただ微笑を浮かべるばかりで何もしゃべらない。
それがひどく悲しく、そして憎らしかった。
黙っていても、周囲から愛される。そんな妹の存在が疎ましかった。
ああ、咲夜姫さえいなければ……。
自分の中から、どす黒いものがせり上がってくる。岩永姫は我に返った。
違う。咲夜姫は悪くない。彼女は岩永姫を追い出そうとした照守王に対し、姉を自分とともに迎え入れてほしいと訴えていたではないか。
岩永姫は、自分を蝕む暗い感情を必死に否定した。
でも、ならばどうしてわたくしの後を追っては来てくれなかったのだろう。
岩永姫の目の前で、妹の姿が醜く歪んだ。
――岩永姫、わしは最初からお主と人の王とが男女の契りを結ぶことなど望んではおらぬ!
山主神の声が、岩永姫を責めた。憤怒に歪んだ顔が、岩永姫の存在価値を真っ向から否定する。
やめて。お願い。助けて。わたくしをこれ以上惨めな気持ちにさせないで。
耳を塞ぎたい。目をつむりたい。しかし、記憶の中の声は絶えず岩永姫を責め立て、嘲笑う。
――我が所望するは咲夜姫ただ一人。
照守王の美しい顔が傲慢な笑みとともに歪んでいく。
――咲夜姫と照守王の傍で国の守護を司ればよいと考えておったまでのこと!
山主神の鋭い声が、洞窟の壁に何度も跳ね返るようにその声量を増していく。
ああ、苦しい。いっそ、このまま粉々に砕け散ってしまいたい。
岩永姫が、心の中で悲鳴を上げた時だった。
ひやりとした冷気が、頬を撫でた。ハッと我に返る。阿戸の顔が、目の前に浮かんだ。
――必ず、君を……妹さんにも負けない美しい姿にしてみせる。
阿戸……。
岩永姫が彼の名を心の中で呼んだ時だった。窯の外で音がした。土で塞いだはずの出入り口を、誰かが掘り起こしているようだった。
「岩永姫」
名を呼ばれた。幻聴ではない。阿戸の声だ。ひやりとした外気が、岩永姫の肌を滑る。足音がすぐ傍まで近づいてきた。
「待たせて悪かった。よくがんばったな」
阿戸の優しい声が、岩永姫を長らく苦しめていた暗い闇の中から救い出してくれた。
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