十二片「黄泉の神」
「朔さまの予想だと、この辺りか?」
先頭を進んでいた手力が、小高い山に登って周囲を見回した。手を笠にして目元に影を作り、目を細めている。彼の肩にはエミツラが乗り、同じような仕草で辺りを観察していた。
豊稲国の都における防衛戦で、すっかり手力に懐いたエミツラは、彼が傍にいると決まってその肩上に陣取っていた。
「とても鬼が出るような場所には思えぬな……」
阿戸の手を借りて山に登った岩永姫は、眼前に広がる稲田を眺めて表情を綻ばせる。巴山から北東へおよそ二里、岩永姫たちはとある集落の近くまでやってきていた。今年は昨年よりも稲の実りがいいと聞く。もう少しすれば、この広大な稲田を村人たちが総出で刈り入れに入ることだろう。
「今までの目撃情報と、その鬼が出没する状況を整理していくと、いくつか条件が浮かび上がってきたと朔さまもおっしゃっていました」
穂火も手力の傍らで周囲を見回した後、岩永姫と阿戸に振り向いた。
「確か、山間に近い集落を狙っているって話でしたね」
阿戸が己の肩から落ちかけたナキツラを支えてやりながら呟く。
穂火からの依頼を受けて翌日のことだった。
穂火からもたらされた話をさらに突き詰めて検証していた朔は、手力と阿戸たちに鬼の出没する条件を示してくれた。
「出没場所が山間の集落や村に集中しておるゆえ、今回の騒動を引き起こした鬼は、山神の眷属か、それに類する精霊の可能性が高いということであったな」
岩永姫も不機嫌な表情で唇を尖らせる。
真っ先に候補として名前が挙がった神は、岩永姫の父親――山主神であった。
山々の統率神である山主神が、豊稲国とひと悶着あったことは人々の記憶にも新しい。山主神が長きに渡り、現世との交わりを絶ってきたことも大きかっただろう。
「また、照守王が山主神さまの機嫌を損ねるようなことを言ったのではあるまいか?」
「供物を要求されたのを、断ったと聞いたぞ……」
「もしや宮中で岩永姫に無礼を働いた奴がいたとか……? それが父親である山主神さまの耳に入ったとか……」
だいたいこんな手合いの噂であった。まったく根拠のない話である。人々の妄想の肥大化は、岩永姫をほとほと呆れさせた。
「人間というのは、自分にとって都合のいい話題や解釈を断片的に記憶します。これが我々にとってよい方向に向くこともありますが……誤解やすれ違いを生み、致命的な反意となって返ってくることが常です」
朔の物言いは、人々の噂話が決して侮れないものであることをよくよく心得ている様子だった。だからこそ、岩永姫が豊稲国へ舞い戻ってから、その方面の噂に神経を尖らせているのかもしれない。
「どうかお気をつけて。阿戸殿や岩永姫さまを排除することで、利を得る者もこの世には大勢いるのです」
旅立つ岩永姫と阿戸を見送りに来た朔が、苦々しい表情でそう忠告した。
まるで薄氷を踏むがごとく、この世はあまりに頼りない。
「岩永姫、疲れたか?」
黙り込んだ岩永姫の顔を心配そうな顔をした阿戸が覗き込んできた。
「いや、わたくしは大丈夫じゃ。ただ……人々が父神さまへ向ける疑念を、どうにか晴らしたいと考えておったのじゃ」
我に返った岩永姫が阿戸に笑いかけながら告げた。
今回の鬼騒動に関しては、岩永姫は断言できる。
これは父神さまが引き起こしたことではない。
それはひとえに、岩永姫が山主神の娘であるからこそわかることだった。だからこそ、関係ないはずの山主神が人々に疑いの眼差しを向けられることに腹が立った。
父神さまは、やっと一歩を踏み出そうとしておられる。
先日の収穫祭で、力競を見に現世へ忍んできた父親の姿を思い起こす。小さい埴輪の身体に入り込み、かつてともに過ごした人々との記憶と今を生きる人々の光景を前に何を思ったことだろう。
父神さまが人間たちに再び心を開こうとしておる。それを邪魔するなど、とうてい見過ごせぬ。
岩永姫はキッと表情を引き締めると顔を上げた。
「人々が苦労して育てた稲や畑の作物を横から奪い去るなど……山々の統率神である父神さまの娘として見過ごせぬ。必ずや正体を暴いてこのようなことを二度とせぬよう諭さねばならぬ!」
気合十分な岩永姫を前に、手力が腕を組んで悩まし気に唸った。
「しかし、『鬼』と言われても漠然とし過ぎている。何か犯人特定の候補となる特徴とか、手がかりがあればいいんだが……」
「岩永姫、君の知る限りで、稲や畑の作物、または人を好んで食べる山神、ないしその眷属に心当たりはないか?」
「む? ふむ……」
阿戸に尋ねられ、岩永姫は腕を組んで難しい表情になった。数少ない知り合いや父親から聞いた神々の名前と特徴を脳裏に浮かべる。
「すまぬ……心当たりが多すぎる」
しばらくして、岩永姫は軽い眩暈を覚えて額を手で押さえた。
「稲や畑の作物は山神への供物としてよく洞窟や社に奉納されておる。逆に人を好んで食べる山神、ないしそれに類する存在も常世にはごまんとおる」
「……そんなに?」
阿戸の表情が青ざめる。岩永姫は慌てた様子で言葉を続けた。
「阿戸よ、誤解するでないぞ! わたくしや父神さまは人を食べぬからな! むしろ、人を喰らう神の多くは根の国に近しい存在が多い!」
「……山主神さまも、黄泉と今世の境を司る存在じゃなかったか?」
阿戸が困惑した様子で指摘する。
「その通りじゃが、だからといって父神さまは悪戯に生き物の命を奪うようなことはなさらぬ!」
岩永姫は頬を膨らませて断固として言い切った。
「わたくしの父神さまは、偉大なる始まりの母神さまが治める国には立ち入れぬ。何せ……根の国へ赴いた偉大なる始まりの父神さまがこの世へお戻りになる際に、根の国への出入口を岩で塞いでお助けしたというからのぅ」
「では、山主神さまはその偉大なる始まりの母神さまに恨まれてしまったのですか?」
好奇心からだろう。穂火が岩永姫に尋ねた。岩永姫はあっさりと首を横に振る。
「いや、父神さまは偉大なる始まりの父母神に対して、あくまでも中立の立場じゃ。ゆえに、言い合う父母神の離婚調停の見届け人になったと聞いたぞ」
岩永姫がかつて父親から聞いた話を思い出しながら呟く。
「その際、偉大なる始まりの母神さまは怒りを抑えきれないご様子であったそうじゃ。そこで始まりの母神さまは偉大なる始まりの父神さまに対しての賠償として『一日千人、貴方の治める世の民を黄泉へと連れていく』と言い放ったそうじゃ。これを受けて始まりの父神さまも売り言葉に買い言葉で、『では、私は一日に千五百の産屋を立てて新たな命を育もう』と応戦したらしい」
偉大なる始まりの父神の宣誓のおかげで、瑞津穂の地に生まれる命が去る命を上回ったからこそ、この地に文明が発展したのである。
「さすが神さま。夫婦喧嘩も壮大ですね」
「いや、物騒すぎるでしょう。こんな傍迷惑な夫婦喧嘩……」
素直に感心する穂火に対し、阿戸が心底から呆れた様子でため息をついた。
「まぁ、とにかく……人を喰らう神の多くが、その偉大なる始まりの母神さまに近しい存在じゃ。ゆえに、わたくしや父神さまの系譜ではありえぬ」
「ふむ……その偉大なる始まりの母神さまの眷属も『火』を嫌うのですか?」
穂火は少し考え込むような仕草で首を傾げた。
「件の鬼も、火には決して近づかないということです」
「うむ……中にはそういう輩もおるであろうな」
穂火の言葉に頷きながら、岩永姫は顔を顰めた。険しい表情で地面を睨みつけている岩永姫の肩上では、シカメツラが阿戸に作ってもらった木簡と木炭を使って呑気な鬼の絵を描いていた。
「それで朔さまは、これらの条件を満たす我が国のある地点として、巴山から北東へおよそ二里のところにある集落が、次の出現場所だと睨んだのだな」
手力が腕組みをして低く唸る。
朔からの助言を受け、阿戸と岩永姫、穂火、手力と埴輪たち三体から成る調査班は、僅かな手勢を従えて巴山から北東二里の集落へとこうして赴いたのだった。
「ひとまず、集落の方々のお話を伺い、一方で周辺に不審な存在の手がかりがないか調査を行いましょう」
穂火の提案に、その場に居合わせた皆が同時に頷いた。
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