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七片「山主神の怒り」

 山主神は境界を定める神として、古の昔より争う人々の審判役を担ってきた。

 しかし、近年ではその数があまりに膨大となり、山主神の采配だけでは人間たちの争いも歯止めが利かなくなってきたのである。人の世のいざこざに嫌気が差した山主神は、人間たちとの関わりを絶った。そうして神域の奥深くに宮を構えてそこに腰を据えた。

 それが「山の宮」と呼ばれる、山主神の神域奥底に存在する洞窟である。

 人々からの訴えに耳を閉ざして、数百年。

 山主神の住む山の宮は今日も静寂に包まれていた。

 山の宮は削り出された地層から数多の鉱石を覗かせ、闇の中でも淡く輝いている。天然の灯はその鉱石に宿る山主神の神気である。人の目に映ることのできない神気の力は力強く燃え上がり、昼夜を問わずこの山の宮を照らしていた。

 岩永姫は己の父神である山主神の御前に姿を現す。(きざはし)の上に据えられた御座に腰かけ、物憂げな表情で沈黙していた顔が僅かに上がった。

 岩永姫は跪き、恭しく一礼する。

「神格のいと高き、山々の神の統率者――山主神さまにご挨拶申し上げます。山主神さまが娘神の一柱、岩永姫にございます」

「おお、岩永姫よ。戻ったのか」

 真っ白な髪と髭を持つ山主神は、愛好を崩した。それは娘の姿を見ることができて喜ぶ「父」の姿だった。岩永姫は父神の視線に耐え切れず、そっとうつむく。

「お久しゅうございます、父神さま……」

 岩永姫はか細い声で告げた。岩永姫は山主神に対し、ひどく後ろめたい気持ちだった。

 それもこれも、己の容姿が「醜い」せいだ。

 岩永姫は心のうちで己を呪った。

 娘の容姿が「醜い」という理由で、照守王(てるかみのおおきみ)は山主神をひどく罵倒した。それが許せなかった岩永姫だったが、現状を何も覆せないでいる自分がいるのも事実だった。それが、ひどく惨めであった。

 落ち込む岩永姫の心境など知らない山主神は始終嬉しそうであった。それが余計に岩永姫を苦しめる。

「豊稲国へ下って以来、まったく連絡を寄越してこないから心配しておったのだぞ? 咲夜姫はどうした? 息災にしておるか? 照守王や他の人間たちから無礼な仕打ちを受けておらぬか? 今度は咲夜姫も共に連れて山の宮へ顔を出しなさい」

 こちらが口を開く前に、山主神はまくし立てた。

「……父神さま、申し訳ありませぬ」

 穏やかな声で喜ぶ山主神の言葉を、岩永姫はこれ以上聞いていることはできなかった。

「何を謝罪する、岩永姫よ。わしはそなたの顔を見られただけでも嬉しいものよ。人間の世界での生活は大変であろう。奴らは何かと忙しないゆえ……もしや、岩永姫がこうして訪ねてきたのは、めでたき知らせか? 咲夜姫に早くも子ができたか?」

「違うのです。わたくしは……」

 岩永姫はそこまで言って、沈黙する。それ以上先の言葉が、なかなか出てきてくれない。

「わたくしは……照守王さまに受け入れていただくことができなかったのです。咲夜姫の様子も、豊稲国を出てからは……わたくしに知る術はなく……」

 ようやく絞り出した声は、ひどくか細いものだった。それでも、岩永姫の声は洞窟の岩々の間で転がされ、山主神の耳にしっかりと届いた。

「……経緯を述べよ」

 山主神が低い声で岩永姫を促した。前のめりだった姿勢を正し、岩永姫の話を聞く姿勢に入る。

 岩永姫は阿戸と出会う前の、豊稲国で起きた事柄を山主神に詳しく話した。

 照守王に容姿が「醜い」からと嫁入りを拒絶されたこと。妹の咲夜姫だけを囲い、岩永姫は長らく妹にも会えていないこと。嫁入りをした身で、父神の元へ戻ってくることに抵抗を感じたことなど、自分が今まで抱え続けた気持ちも含めて父神にすべてを話した。

 話し続けるうちに、岩永姫は自分の中で凝り固まっていた気持ちが解けていくのを感じた。自分の中で、まるで何かがあふれ出ようとしているような感覚が生まれる。それは地下深くにある水脈が地面を押し上げて地表へ溢れようとする、底冷えするような感覚であった。そして同じだけ、火山の中で燻る溶岩が己の岩の身体を食い破ろうとするかのような激しい感覚もあった。

 それらがぐちゃぐちゃに合わさり、岩永姫をひどく混乱させた。

「なんと愚かな王か……」

 岩永姫より事情を聞いた山主神は嘆息した。

「目先の栄華に目が眩み、永久(とわ)の不変を手放すなど……。岩永姫よ、そなたが気に病むことはない。かの王の命運は、じきに潰えることであろう」

 山主神は沈黙する岩永姫を一瞥すると、声色を和らげた。

「岩永姫よ。人間の王ごときの無礼に、気落ちすることはない。そなたはこの山主神の神気を誰よりも強く浴びて生まれた最も尊き神である。この父に遠慮など不要。以前と変わらず、この山の宮で思うがままに在ればよい」

 父神は娘神にそう語りかけたのだった。優しい言葉に、岩永姫の気持ちが激しく揺れ動いた。

 ああ……父神は戻ってきていいと言ってくれている。

 岩永姫は、春の大地に草木が芽吹くような華やいだ心地になる。

 ――こんな醜女(しこめ)を寄越すなど、山主神は美しい物を愛でる習慣がないご様子。

 岩永姫の記憶の中で、照守王の声が嘲笑する。

 途端に、岩永姫の内から溶岩のように煮えたぎった感情が湧き上がった。父の言葉に、一瞬でも揺らいだ己を叱咤する。このまま、父神に泣きついて終わるのでは、照守王の言葉を肯定するのと同じである。それだけは、岩永姫は絶対に許せなかった。


「いいえ、父神さま。岩永姫は戻りませぬ」


 岩永姫はきっぱりと、父神の言葉を拒絶した。

「父神さま。わたくしはもう一度、照守王さまのもとへ参ります。父神さまより託された使命を果たせず、妹の咲夜姫にばかり負担を強いるのでは、わたくしの誇りが許せませぬ」

 決意を新たに、岩永姫は山主神に告げた。山主神の表情が怪訝そうに歪んだ。

「お主の義務を果たさんとする心構えはわかった。咲夜姫を案ずる気持ちも理解できる。だが、たかだか数十年の命である人間の王にそこまでこだわることはあるまい」

「かの王はわたくしだけでなく、父神さますらも愚弄したのです。娘神たるわたくしが不甲斐ないばかりに、父神さまが人間に侮られることはあってはなりませぬ」

「そうは言うがな……岩永姫よ」

 山主神は長い白髭をしわにまみれた手で撫でながらため息をついた。

「お主の容姿を理由に、照守王はそなたを拒絶したのであろう? このまま再び豊稲国へ赴いたとしても、同じ結果になるだけではないか?」

「その点につきましては、この岩永姫に考えがございます。照守王さまに迎え入れていただくため、準備も整えてまいりました。あとは……わたくしが覚悟を持って挑むまででございます」

 このまま終わってはいけない。でなければ、岩永姫の中で本当に大切な何かが壊れてしまう気がした。

「準備? 覚悟? 岩永姫、一体……何をしようと言うのだ?」

 山主神が大きく顔を顰めた。髭に埋もれた唇が震えているのが、ぴくぴくと動く髭で見て取れる。岩永姫は己の中で固まった気持ちを忘れないよう、まっすぐ山主神を見据える。

「わたくしの岩の身体を、土師の里において一番の腕を持つ者に美しく作り替えてもらうのです」

 決意を込めて、宣言した。

 すると、山の宮全体が大きく揺れた。


「この、愚か者がっ!」


 山主神の怒号に、岩永姫は全身を震わせる。驚きのあまり、体から飛び出た水晶が辺りに散らばった。山主神は全身を真っ赤に染め上げ、まさに燃え上がる火柱のような怒気を全身に纏わせている。岩永姫はこの世に生まれてからこの方、ここまで怒り狂った父神の姿を見るのは初めてであった。

「神の身体を作り変える!? それも人間の手でだと!? そなたは神の器を軽んじるか!」

 怒髪天を衝く。まさに山全体が怒りに身を震わせているようだった。

「断じてそうではありませぬ! けれど、神格(そんざい)を否定されながら黙っていることなど、もはやわたくしにはできませぬ! 何より、わたくしと咲夜姫に、人間の王のもとへと嫁ぐよう命じたのは他ならぬ父神さまではありませぬか! わたくしはそのお役目を果たそうとしているだけにございます!」

「だからと言って、何を血迷ったことを申すか! よいか! 人と交わった時点で神はその身に宿す力を失う! そうなれば、この山の宮へ戻ってこられなくなるのだぞ!」

 山主神の言葉に、岩永姫は言葉を失った。

 神の力を失う? 山の宮へはもう戻っては来られない?

「……それを知っていてなお、何故(なにゆえ)わたくしと咲夜姫を人間の王の元へ嫁がせようとなさったのですか?」

 岩永姫は、どうしても声が震えるのを止めることができなかった。

 聞いてはいけない。

 直感がそう岩永姫に警告していた。そんな彼女に追い打ちをかけるように、山主神は叫んだ。

「照守王の妻として、子孫を残す役割は咲夜姫に与えたものじゃ! 岩永姫には咲夜姫と照守王の傍で国の守護を司ればよいと考えておったまでのこと! 岩永姫、わしは最初(はな)からお主と人の王とが男女の契りを結ぶことなど望んではおらぬ!」

 足元が、崩れていった。目の前で怒鳴る山主神の声が、急速に遠のいていく。

 自分に期待してくれている。そう信じて疑わなかった父神からもたらされた本音を前に、岩永姫は咄嗟にその言葉を受け止めることができなかった。

 山主神は何と言ったか。

 岩永姫は最初から、照守王の隣に立つことなどできなかったのだ。山主神も、期待などしていなかった。もしかしたら、照守王が岩永姫を拒絶することも想定していたのかもしれない。だから先程、山主神は岩永姫に今までと同じように山の宮に居ればいいと言ったのだ。結果がわかっているのだから、山主神としては気落ちする意味もない。

 わたくしは……最初から「女」としての価値を期待されていなかったのか。

 全身を熱い何かが駆け巡った。


「……わたくしの決意は、岩よりも硬く定まりましてございます」


 岩永姫はふらりと一歩、踏み出した。

 先程まで、己の中で水のような冷たさと溶岩のような熱さが混ざり合っていた。それが今や、溶岩のような熱さだけが彼女の身を焦がしている。

 ああ、わたくしは今――「怒り」を覚えているのだ。

 この荒ぶる感情には、覚えがある。昔、岩永姫の傍に戯れてきた鹿を、人間が矢で射殺したことがあった。その時のひどく不快な感覚を、山主神は「怒り」だと教えてくれたのだ。そしてその荒ぶる感情が自分以外の誰かに向けられた時――それは「嫉妬」に変わると聞いた。

 岩永姫の脳裏には、照守王と山主神が穏やかに笑いかけている。しかしその笑顔の先にいるのは、岩永姫ではない。花綻ぶように微笑む、美しい妹の姿だった。

「もう二度と、父神さまのもとへは戻ってまいりませぬ。わたくしは……わたくしは――」


 己の意思で、目の前の現実を変えてやる。


 岩永姫はなおも怒鳴ってくる山主神の声を振り払い、山の宮を飛び出した。

 そのまま一目散に、阿戸が待つ山奥の窯へと急いだのであった。

Copyright(C)Itsuka Kuresaki 2022

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