三十片「渓谷での死闘」
「これは一体……何が起きたのだ?」
豊稲国を目指し、山砦国へと集った連合軍は朝から蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。それもそのはずで、翌朝になって巴山の方へ目を向ければ巨大な石の壁がずらりと並んでいるのだ。四か国の将軍たちは互いに顔を見合わせて呆然と巴山を見上げていた。
「と、とりあえず……物見を放ってはいかがか? 豊稲国の軍がどうなったか確認することは大事です」
声を上げたのは那国の将軍であった。恰幅のいい身体を無理やり鎧の中へ押し込んだような様相である。那国の将軍の言葉に、皆がハッと我に返った。
「そ、そうだな! では、誰を物見に出すか……」
「我が軍の佐治彦を向かわせよう。巴山へと登り、敵陣営の様子を報告するのだ!」
「はっ!」
湯土国の将軍がそう言うと、傍に控えていた若者に五十人の兵をつけて巴山へと送り出した。
佐治彦は巴山へと急いで登ると、聳え立つ岩の壁を見上げる。遠目からでもその巨大さに驚かされたが、近くで見上げるとさらにその高さに圧倒される。こんな代物を一夜のうちに築き上げるなど、まず人間業ではない。
「大きい……」
「豊稲国軍の陣、めちゃくちゃだな……」
兵士たちが青ざめた顔で囁き合う。連れてきた部下に周辺を捜索させても、豊稲国側の兵士たちの死体は見当たらなかった。しかし、昨夜まで確かにこの陣に人がいた形跡はそこかしこに見受けられる。
食事中に驚いて放り出したと思われる握り飯がそこかしこで見つかり、周囲の地面には複数の人間が入り乱れた足跡もあった。この石壁の出現が、豊稲国側の兵士たちにとっても予期せぬ出来事だったと思わせる十分な証拠だ。
「佐治彦さま。巴山の陣並びに周辺を捜索いたしましたが、豊稲国側の人間は一人もおりません。豊稲国軍は本陣を完全に放棄したものと思われます」
部下の報告に佐治彦は口元に浮かべた笑みを深めた。
「ふむ……そうか」
佐治彦は両腕を広げ、嬉々とした様子で叫ぶ。
「これぞまさに奇跡! 山主神さまが我らに力添えをしてくださった証だっ!」
佐治彦は息を呑んだ部下たちに注目される中、さらに言葉を続ける。
「豊稲国の照守王は山主神さまとの契約を反故し、神の怒りを買った! そうして怒りし山主神さまは豊稲国を討ち滅ぼさんとする我らの行いこそが正しいと認めてくださったのだ!」
佐治彦の言葉に、恐怖で身を震わせていた兵士たちの双眸が輝く。どこからともなく歓声が沸き上がった。
「山主神さまは此度の戦で、我らに義ありと認めてくださったのだ!」
「山々の統率神の助けがあるとは心強い!」
「此度の戦、我らの勝利に間違いない!」
喜び勇む部下たちに、佐治彦は意気揚々と命じた。
「よし、急ぎ陣に戻って将軍方へ報告だ! 豊稲国など恐るるに足らず! 山々の加護は我らにあり!」
そうして、四か国の軍は行軍できる渓谷への道を何の疑いもなく進んでいった。
それを山間の木々から眺めている者がいた。
「作戦通り……のこのこと狭い渓谷に入って来たな」
落葉樹の枝上で、雷が鋭い目を川岸に沿って行軍する連合軍へ向けていた。手には自慢の弓を持ち、茂みの中に潜ませている部下を一瞥する。
「さて、とりあえず指揮官から潰していこうか」
雷が手にした弓に矢をつがえる。そのまま、力強く弦を引き絞った。三日月のようにしなる弓から、風を切って矢が放たれる。そのまま、吸い込まれるようにして馬上でふんぞり返っていた湯土国の将軍の眉間に、雷の放った矢が深々と突き刺さった。
それが戦の始まりを告げた。
わっと鬨の声を上げ、茂みに身を隠していた豊稲国の兵士たちが一斉に矢を放つ。
「なっ、敵襲!? 伏兵だ!」
降り注ぐ矢から逃げる佐治彦の眉間を、雷が放った二の矢が射抜く。
「大将首、二人目!」
雷は矢を弓につがえる度に、着実に大将首を射抜いていった。
「将軍がやられた!」
「ひぃ……逃げろ!」
四万弱の大軍とはいえ、所詮は他国の寄せ集め。統率を失った兵士たちは散り散りになって逃げ惑う。
「国外へ逃れる者は捨て置け! 我らが領土に踏み入った者悉くを討ちとれ!」
雷が腰に佩いた太刀を鞘から払うと素早く枝を蹴って急な山の斜面を駆け下っていく。そうして誰よりも早く敵兵が密集する中へ躍り出た。
「うわぁっ!」
雷に袈裟切りされた兵士がどっと川の中へと倒れ込む。
「やぁやぁ、我こそは! 豊稲国左軍部統括、左将軍の雷なり! その剣撃は疾風のごとくと謳われた我が猛攻、止められると自負する者はかかってくるがいい!」
血ぶりの動作とともに名乗り上げると、手近の敵兵へと太刀を振り下ろした。刃を通して骨が砕ける手ごたえが伝わる。
「敵の総大将だ! 討ちとれ! 討ちとって名を上げろ!」
何人かの猛者たちがこぞって雷へ詰め寄って来る。雷は返り血を浴びた顔に、どう猛な笑みを浮かべる。突っ込んできた男の腕に手をつくと己の身体を虚空へと持ち上げる。目を見開いてこちらを見上げてくる男の顔面に強烈な蹴りを見舞った。そのまま腰から刀子を抜き放つと、振り返った敵兵の首筋を切り裂く。そうしてその場で踊るように一回転した。回転の勢いを乗せた雷の太刀が、突き出された敵兵の剣を弾き飛ばした。
雷は太刀を振り上げて敵兵の頭を割り、槍を手に付き込んできた兵士の攻撃を僅かに上体を横にずらして避ける。獲物を逃した穂先は、そのまま顔面を押さえて体を起こした男の胸を深々と貫いた。
「あっ……」
味方を刺し殺した兵士が怯んだ隙に、雷はその首筋に刀子の刃を落とす。あっという間に雷が立っている川岸が鮮血で真っ赤に染まった。
「ひぃ……! ば、化け物!」
「ああ、神さま……お助け――」
「おいおい、人を『化け物』呼ばわりはないだろう」
雷は負っていた弓矢を即座に構え、こちらに背を向けて走り出した敵兵を素早く射殺す。雷を囲むようにして群がっていた敵兵の輪が、一歩、一歩と後退する。まるで猛獣を相手にするかのように、敵兵たちはすっかり怯え切っていた。
血濡れた雷の顔に笑みが浮かぶ。
「人を外見で判断したらいけない。俺はこう見えて、情の深い男なんだ。投降するなら悪いようにはしない。さぁ、どうする?」
雷が両腕を広げて敵兵たちに呼びかける。すると、敵国の兵士たちが一斉に持っていた武器を捨ててその場に平伏する。
「こ、降伏いたします!」
「ど、どうか、命だけは……」
自分たちよりもずっと人数がいるはずの敵兵があっさり投降の意思を示したことに、雷はひどく満足気に頷いた。
「そうそう、山の神さまの加護を受けた国に攻め入ったところで、最初からお前らに勝ち目はない」
「っ!? まさか……」
雷の言葉に、敵国の兵士たちの表情が強張る。雷の口元に浮かんだ笑みが深まった。
「お前らの国の大将を持ち帰って王に伝えろ。天照らす王の威光は翳ることなく、山々の統率者たる山主神とも手を取り合った、と」
雷の言葉に、山主神の祟りを恐れた敵国の兵士たちはすぐさま逃げ出した。自分たちの国の将軍の遺体を運び、雷やその部下たちに見送られて巴山より山砦国へと飛び出していく。
逃げ帰る敵兵を見て、豊稲国側の兵士たちが一斉に歓声を上げた。各々の武器を掲げ、互いに無事を喜んで抱き合う者もいた。
「ま、こんだけ脅しとけばしばらくは大人しくなるかねぇ……」
雷は腕を組みながら思案げに呟く。
「雷左将軍!」
そこへ山の斜面を駆け下りてくる部下の姿が見えた。肩に受けた矢を抜かずに、そのまま雷へと駆け寄ってくる。雷の表情が強張る。矢を受けた男は雷が岩永姫と阿戸の護衛のために付けた兵士の一人である。雷の動揺は一瞬で、すぐさま冷静な顔つきで走り寄ってくる部下に声をかけた。
「岩永姫と阿戸はどうした!」
「本陣周辺を警邏中、船守国の兵士どもから奇襲を受けました! 大将と思しき男とおよそ五十人規模の軍勢が本陣へ向かっています!」
「くそっ、急いで向かうぞ! 動ける者はついてこい!」
雷は負傷した兵士の手当てを他の部下に任せ、すぐさま駆け出す。雷の部下たちも迷わず彼の後に続いて山道を駆け上がった。伊達に左槍山で厳しい訓練を受けているわけではない。雷が率いる左軍にとって、この辺りの山はひどく緩やかなものだ。それでも、気持ちは焦る。
無事でいろよ、二人とも……。
雷は岩を超え、枝を掴んでその痩躯で木々の間へと飛び込んだ。
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