十二片「ふさわしい眷属」
「岩永姫さま、気が散っているようです。集中してください」
傍らで岩永姫の修行を見守っている朔が鋭く指摘した。岩永姫は慌てて気を引き締め、目を閉じて両手で触れている粘土の方へ意識を向ける。
岩永姫は星読宮で、日課となりつつある修行に励んでいた。盆に乗せられた粘土に、己の神気を定着させることだけを考えようとする。しかし、すぐに岩永姫の意識は目の前の粘土から今朝のことへと移ろいでしまう。
うぅ……阿戸があんなことするから……。
思い出すたびに、阿戸に触れられた箇所が熱を帯びたようにうずいた。
結局、岩永姫は阿戸に抱きしめられたまま彼とともに朝まで褥の中で過ごした。阿戸の体温を傍に感じると、離れがたくなってしまったからだ。そうこうしているうちに、自分でも驚くほどすんなり眠りの世界へと旅立っていた。自分が眠れるということにも驚いたが、目を覚ました阿戸から真っ先に挨拶されたのも新鮮だった。
一緒にかけ布に包まっていた岩永姫を見るなり、阿戸は心底から嬉しそうに破顔していた。嫁に来てくれと告白されたときのような、こちらが思わず見惚れてしまうほどの柔らかい笑みだった。
阿戸が、あんな顔をするからじゃ……っ!
岩永姫はぐっと唇を引き結ぶ。岩永姫は阿戸の笑顔を見るなり、吸い寄せられるようにして自分の唇を阿戸のそれに重ねたのだ。
本当に、触れるだけの口付けだったと思う。
そこから阿戸の口付けの嵐に、岩永姫は驚きと羞恥に頭の中がぐちゃぐちゃになった。あのまま、阿戸の熱に溺れていたいと思う反面、こんなところを雅に見られたらどうしようかと焦る気持ちが岩永姫の中で真っ向から衝突していた。そんな葛藤の中、阿戸が岩永姫の名前を呼ぶたびに喜びに打ち震える自分に抗えなかった。
あんな、余裕のない阿戸は見たことがなかったのぅ……。
阿戸が岩永姫に覆いかぶさって来たとき、熱を湛えてこちらを見下ろすさまは普段の冷静さを失っていた。ただひたすらに愛しい人を求めている、そんな顔だった。理性と衝動の間で揺れる阿戸の瞳に、岩永姫はひどく惹きつけられた。岩永姫を真っ直ぐ捉えて離さない阿戸の視線を前に、己の身に何が起こるのか不安な気持ちになった。同時に、何故かひどく喜んでもいた。
もう……最近のわたくしはどうしてしまったのじゃ!
今朝のやり取りを思い出した岩永姫は、両手を添えていた粘土を強く掴んだ。あの出来事の後、岩永姫はより一層阿戸を意識してしまって彼を直視することができなかった。阿戸も気まずさからか、どこか一歩下がった距離で接してくる。それがひどくもどかしい。
うぅ……わたくしの旦那が格好良すぎて辛い!
岩永姫は粘土を掴む両手を握りしめて、心の内で叫んだのだった。
「……さま、岩永姫さま!」
朔の呼びかけに、岩永姫は驚いて変な声を上げた。慌てて彼を振り向く。朔は変わらぬ穏やかな笑みで岩永姫に告げた。
「やりましたね、岩永姫さま! 成功です!」
「へ? は? 何が……?」
岩永姫は朔に促されて粘土の方へ顔を向ける。
周囲の大気から集めて取り込んだ岩永姫の神気が、目の前に置かれた粘土へと定着したのだ。粘土は岩永姫の神気を宿し、彼女の目には山の宮の鉱石と変わらない輝きが見て取れる。岩永姫は息を呑んだ。
「一体……何が起きたのじゃ?」
「きっと今までの修行の成果でしょう。一度要領を掴んでしまえば、後は岩永姫自身のこれまでの経験が生きたところでしょうか」
困惑する岩永姫に、朔が嬉しそうに言った。
「今までと違い……時間が経っても神気が抜けていきません。無事に定着しているようです」
「そうか、よかった……」
岩永姫も強張っていた表情を綻ばせる。
なんだかよくわからないが、上手くいったのなら岩永姫としても満足である。以前の自分には遠く及ばずとも、この力があれば阿戸や皆の助けになることもあるかもしれない。
「この調子なら、すぐにでも眷属を得られそうですね」
「本当か!?」
朔の言葉に、岩永姫は喜色を浮かべた。
これもきっと……阿戸のおかげじゃな。
岩永姫の顔に、自然と笑みが溢れてくる。ここ最近感じていた体の不調も、今朝になったら綺麗に消え失せていた。阿戸が気を利かせて、岩永姫を休ませてくれたおかげだろう。
ああ……そう考えると今すぐ阿戸のところへ行きたいのぅ。
そうして、無事に粘土に神気を定着させることができたと一番に報告したい。一人で悶々と考えていたところに、朔が声をかけてきた。
「それで、岩永姫さまはどのような眷属をご所望ですか?」
朔の言葉が、岩永姫の意識を現実に引き戻した。岩永姫は我に返って、粘土から朔の方へ視線を転じる。
「どのような……と言われてものぅ……」
岩永姫は悩ましげに唸った。
神々が使役する眷属の大半は動物などの獣が多い。次いで、空を飛ぶ鳥や海に住まう獣や魚たちだ。岩永姫の父親である山主神が、最初に眷属として従えたのも狼であったという。山主神の娘として振る舞うなら、やはり森に住む動物たちの中から眷属にふさわしい存在を選んだ方がいいのだろう。
しかし……それはちと違う気もする。
岩永姫は自分の中で、何かが引っかかった。岩永姫は美しい姿を手に入れて、阿戸の隣でこの現世で生きていくことを決めたのだ。ならば、人の世に存在するものを眷属として迎えたい。
わたくしの生きる場所は阿戸の傍らなのじゃからな。
岩永姫はちらりと己の神気を注ぎ込んだ粘土を見下ろした。
「ところで朔殿……この粘土はこの後どうするのじゃ?」
「岩永姫さまの神気が宿った粘土ですからね。星読宮で厳重に保管し、祀らせていただきます」
岩永姫の疑問に、朔が微笑みながら言った。
「……祀るだけなのか?」
せめて土器にするとかして道具を作ればいいのに……。
そう呆れる岩永姫に、朔は困った顔で笑った。
「有効活用せよ、ということであれば我々としましても知恵を絞りますが……。そもそも神さまの神気が宿るものを無碍にはできませんし、我々人間が手を加えて万が一損なうようなことがあってはいけません。やはり丁重に祀るというのが正しい選択肢かと……」
「そうは言うがな……」
岩永姫は手元の粘土に視線を落とす。神気が見えない者にはただの粘土とそう大差ない。岩永姫としても、散々苦労させられた粘土だ。ただ祀られるだけというのも面白くない。それに今後、岩永姫の修行の度に、己の神気を宿した粘土を祀られるのは微妙な気分だ。
「あっ……」
岩永姫はハッと息を呑んだ。いい考えが脳裏を過ったからである。
「朔殿! わたくし、決めたぞ!」
笑顔の岩永姫を前に、朔は不思議そうに首を傾げる。
「それは……眷属に迎えたい存在の話ですか?」
「そうじゃ!」
岩永姫は晴れやかな顔で頷く。
「わたくしにふさわしい、これ以上にない眷属候補が頭に浮かんだぞ!」
何故、こんな簡単なことに気づかなかったのか。人の世で生きていく岩永姫に、この上なくふさわしい眷属候補がいるではないか。
意気込む岩永姫に、朔もすぐさま頷いた。
「それでは今からでも外へ出て探しに参りましょう。眷属候補はどこに住む獣ですか?」
「いいや、獣ではないぞ!」
興奮する岩永姫があっさり首を横に振ったので、朔は他の候補を思い浮かべる。
「では、鳥でしょうか? それとも水生の生き物?」
「いいや、違うぞ! これからわたくしたちが向かうべき場所は、作業場じゃ!」
岩永姫はそう言って、己の神気がこもった粘土を抱えて立ち上がった。
「はい?」
珍しく二の句が継げずにいる朔を尻目に、岩永姫は駆け出した。
「岩永姫さま!? お待ちください!」
朔が慌てて岩永姫の後を追う。
「い、岩永姫さま!?」
「一体、どちらへ……!?」
「さ、朔さま! 何があったのですか!?」
星読宮の回廊を駆けていく岩永姫と朔の様子に、お付きの巫覡たちが仰天した。
何人かの巫覡たちが慌てて朔を追いかけ、朔は岩永姫を追いかける。普段からいかなる事態にも冷静に、粛々と対処してきた巫覡たちが揃いも揃って走り去る様は異様な光景だった。そんな巫覡たちを引きつれた岩永姫は、阿戸が立ち働く作業場へと駆け込んだ。
「阿戸!」
作業場で部下や弟子たちに指示を出す阿戸の姿を見つけると、岩永姫が笑顔でその背に呼びかける。振り返った阿戸が、岩永姫と後ろから追いかけてくる朔や巫覡たちの姿を見るなり目を見張った。
「なっ!? 岩永姫!?」
阿戸の声が驚きのあまり裏返る。
「えっ!? 巫覡長!? どうして作業場に……!?」
「お付きの巫覡さま方も……一体何事だ?」
作業場が俄かに騒然となった。働いていた職人たちも、星読宮の巫覡長の登場で一斉に作業の手を止めてその場で平伏する。
「そのまま! 皆さんは作業を続けていてください! 私たちは筆頭土師殿に用があります!」
すぐさま朔の声が飛んだ。火を扱っている者もいるため、作業を中断させるのは危険だと咄嗟に声を上げたのだ。
皆が阿戸にちらちらと視線を送りながらも、各々が請け負っている作業へ戻っていく。阿戸は岩永姫と朔のもとへ駆け寄ってくると、困惑した表情を浮かべた。
「一体何事です!? 使いの者を寄越してくだされば、俺がそちらに伺います!」
阿戸がどこか非難するように朔へ告げる。朔も苦笑を浮かべた。
「ええ……私も、目的がわかっていればそうしたのですが……」
朔の視線が、目を輝かせている岩永姫に向いた。阿戸も己を期待の眼差しで見上げてくる妻を振り向く。何故だか、嫌な予感がした。
「岩永姫。一体、何があったんだ?」
阿戸が慎重に岩永姫に尋ねる。彼女がこういう表情をしている時はたいてい突拍子もないことを思いついた時だ。
「阿戸よ、お主に頼みたいことがあるのじゃ!」
案の定、岩永姫は両手に抱え持っている粘土の載った盆を阿戸へと差し出した。神気を見ることができない阿戸には、何の変哲もない粘土にしか見えない。
「その粘土がどうかしたのか?」
阿戸が状況を飲み込めず、怪訝な表情になった。
「この粘土を使って、わたくしの眷属を作ってほしいのじゃ!」
岩永姫の嬉々とした声が、妙に大きく作業場に響き渡った。
「……はぁ?」
沈黙の降りた作業場に、阿戸の間の抜けた声がこぼれた。
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