五片「共に歩んでこそ」
岩永姫は廊下で深呼吸を行うと、勇気を出して部屋にいる阿戸へ声をかけた。
「阿戸、少しよいだろうか?」
「岩永姫?」
部屋の中から布蔀をまくり、阿戸が顔を出す。寛いだ格好の阿戸は月明かりを受けてひどく艶めかしい雰囲気を纏っていた。岩永姫は阿戸の衣の隙間から覗く肌に目が行きそうになって、慌てて阿戸の顔に視線を固定する。
「その、すまぬ……疲れているところを……少し、話したいことがあってのぅ」
「いや、構わない。大切な話なんだろう?」
阿戸が微笑とともに布蔀をさらにまくり上げ、岩永姫の手をとって部屋に招き入れた。阿戸の手から彼の体温を感じると、岩永姫は思わずため息をつく。
こうして手を握られたのも、久しぶりのような気がするのぅ。
この屋敷へ住むようになってからも、阿戸は毎日忙しなく働いていた。そんな彼に追い打ちをかけたのが二週間ほど前のことである。その日は妹の咲夜姫の陵墓が無事に完成し、照守王を中心に岩永姫や阿戸、朔など名だたる重鎮が彼女の冥福を祈るために葬礼の儀式を行った日だった。
その日を境に、怒涛の日常が祭事管轄処を襲った。陵墓に納められる埴輪や土器制作を優先していた結果、日常的に扱う術具をはじめ、方々の部署から破損した武具類などの修理や制作依頼が溜まってしまい、その処理に追われることとなってしまったからだ。
祭事管轄処は星読宮の直轄であるが、物作りの専門家が多く所属している性質上、実質として宮中で扱う物品の制作を一手に担っている。途中で目を離せない作業工程の時は、阿戸や他の技術者たちも作業場に泊まり込むことが珍しくなかった。
久しぶりに触れる彼の手は、いくつもの肉刺や擦り傷など、物を作る上で負ったと思しき傷が刻まれている。岩永姫は無意識に、彼の手に刻まれた傷跡をそっと撫でた。阿戸の肩が小さく跳ねる。
「あ、すまん。俺の手、荒れているから……気持ち悪かったな」
「い、いや! そうではない!」
阿戸が手を引っ込めようとしたので、岩永姫は反射的に両手で阿戸の手を握りしめる。二人の視線が真っ向から絡み合う。岩永姫は見開いた阿戸の目に見つめられ、恥ずかしさから顔を俯かせた。
「ひ、久しぶり、だったからのぅ……」
岩永姫はか細い声で呟きながら、両手で掴んだ阿戸の手をそっと撫でる。
「気持ち悪いだなどと、思うわけなかろう。阿戸の手は様々な物を生み出す職人の手じゃ。わたくしは阿戸の手が好きじゃ……」
そうして握った阿戸の手を己の頬へ導き、そのまますり寄った。
「阿戸の手……あたたかいのぅ」
目を細め、心底から嬉しそうに微笑む岩永姫に、阿戸は咄嗟に空いた方の手で己の顔を押さえた。
「君は……また、そうやって……」
「ん?」
顔を背けて苦しそうに呻く阿戸の様子に、岩永姫は首を傾げた。
「いや、何でもない……それで、話って?」
阿戸は軽く頭を振ると、岩永姫の腕を引いて互いに向かい合って腰かけた。離れていこうとする岩永姫の手を、今度は阿戸がしっかりと握りしめて引き止める。
「そう言えば今日、雅を連れて星読宮へ行ったとか。何かあったのか? また困ったことを言われたとか……」
心配そうに岩永姫の顔を覗き込む阿戸に、岩永姫は小さく首を振った。
「いや、困ったことは何もなかったぞ。実は朔殿に相談したいことがあると言われて――」
岩永姫は星読宮で朔から提案されたことを阿戸に話した。
「そうか……朔さまのことだから、君に負担がかかるようなことはしないとは思うが……。その『修行』というのは危険な行為ではないんだな?」
岩永姫の話を真剣な表情で聞いていた阿戸が、低い声で確認する。
彼の問いかけに、岩永姫は即座に頷いた。
「うむ、それはないと思う。簡単にではあるが、修行の流れを聞いてきた。朔殿もわたくしの肉体の脆さを考慮してくださったようで、身体を酷使するようなものではなかったぞ。詳細は雅が心得ておるゆえ、後で確認してもらって構わぬ」
「わかった。君が望んでいることなら、俺は反対しない。正直、俺としても朔さまの申し出はありがたい」
阿戸は握った岩永姫の手に視線を落とした。彼の親指が、岩永姫の白い肌をそっと撫でる。その表情はどこか苦しげだった。
「俺は朔さまのように、神気を見ることができない。生まれながらに見えないものを、今まで意識したことはなかった。それでも問題なく生きてこられたから、その必要性を一度も考えたことがなかった。だから朔さまから君のことを聞かれたとき、正直、何をそこまで大げさにしているのかって思ったほどだ」
「うむ、大半の人々が阿戸と同じじゃよ」
岩永姫はひどく顔を歪めた阿戸に戸惑いつつ、笑いかける。神気を見ることができる人間は限られている上、巫覡の中ですらその神気を感じ取る能力に差があることが現実である。目に見えないものを意識し、理解しろ……というのはあまりに酷なことだろう。
「だが、君は神さまだ。朔さまから、神さまにとって神気がどれほど重要なものか聞かされた時……俺は三年前の自分を殴って叱りつけてやりたい気分だった!」
「阿戸……」
岩永姫の手を握りしめる阿戸の手に力がこもる。
岩永姫は山主神の神気を受けて生まれた岩の女神である。神にとって身に宿る神気の状態を意識することは、人間でいうところの呼吸をすることと同じことだった。今の岩永姫は、たとえるなら翼を手折られて地上に落ちた鳥のようなものである。ひどく無防備な姿は儚く、踏みつけられれば即座にその命を落としてしまうことだろう。
「ごめん……」
阿戸は絞り出すように謝罪の言葉を口にする。岩永姫の両手を握りしめ、そこに己の額を擦り付けた。そのまま、阿戸は両目を硬く閉ざしてしまう。
「三年前のあの時、もっと冷静になっていれば……俺が持てる知識と技術、その全てをかけて君を生まれ変わらせてみせると約束したのに……より一層、君を苦しめる結果になっていた。それが、悔しい……」
岩永姫は俯く阿戸を見つめ、そっと微笑む。どうりで最近、また難しい顔をしていることが多いと思った。
朔殿から神気のことを聞いてからずっと、こうして自分を責めていたのじゃな……。
阿戸は自らの作ったものにひどくこだわりを持つ。それはある種の職人としての「誇り」であり、同時によい品を作ることがその品を手に取った者にとってその人生をよりよいものへと変えていくと信じている節がある。だからこそ阿戸はこだわり続けている。新しい技術を積極的に取り入れていく姿勢は、その表れだろう。だからこそ、岩永姫が神気を操る術を失った原因である自分を、阿戸は許すことができないのだろう。
三年前、阿戸に出会えてよかった……この命を、阿戸に託してよかった。
岩永姫はそっと目を閉じると、心の内で呟いた。そうして俯く彼へ穏やかな口調で声をかける。
「阿戸、どうか目を開けてくれ。そして、わたくしの姿を見てほしい」
岩永姫の柔らかい声音に促され、阿戸が閉ざしていた目を開く。ゆっくりと顔を上げた彼に、岩永姫は微笑みかけた。
「のぅ、阿戸。わたくしの姿を見て、お主はどう思う?」
「……? 綺麗、だが?」
「そうじゃ。お主がわたくしに約束してくれた通り。妹の咲夜姫にも負けぬ容姿じゃ。そんなわたくしをお主はこの世で最も美しいと言ってくれた」
嬉しかった……、そう素直に呟いた岩永姫に、阿戸は目を見張る。
「お主は言ってくれた。わたくしが他人から最も美しく見られる姿に生まれ変わらせたのだと……。そんなわたくしを阿戸が最初に認めてくれたからこそ、わたくしはこうして堂々と皆の前に立っていられるのじゃ」
今度は岩永姫が己の手を握りしめる阿戸の手に触れるだけの口付けを落とす。皮膚が裂けてかさかさになった傷が、岩永姫の唇に触れた。岩永姫は目を細め、その傷口を愛おしげに眺める。
「阿戸、昔のようにはいかぬが……わたくしもお主や豊稲国で出会った人々の力になりたいのじゃ。幸い、わたくしはもともと神であるがゆえ、普通の人よりも神気への感受性は高かろう。可能性がある限り、わたくしは様々な手段を全て試してみたいと思うのじゃ」
「岩永姫……」
「阿戸よ、どうか自分を責めるでない。わたくしはそなたの真摯さに救われたのじゃ。今後、わたくしのことでお主が負い目を感じることは許さぬ。自らを責めるくらいなら――」
岩永姫が微笑い、片方の手を引き抜いて阿戸の頬を撫でた。
「わたくしと一緒に、二人で幸せになる方法について頭を悩ませようではないか」
次の瞬間、強い力で抱きしめられた。
「……ありがとう、岩永姫」
阿戸が岩永姫の肩口に顔を埋めながら、小さく囁いた。
岩永姫も阿戸の背に両腕を回す。彼の熱いほどの体温に包まれ、そっと表情を綻ばせた。
阿戸が顔を上げると、岩永姫も彼に微笑みかける。どちらからともなく吸い寄せられ、互いの唇を重ねた。阿戸の手が岩永姫の背と腰に回り、より一層互いの身体が密着する。阿戸の熱が岩永姫に流れ込むようだ。岩永姫は自分でも驚くほどの甘い声が、唇の隙間から零れ落ちる様に頬を染めた。
阿戸への愛おしさと恥ずかしさで、岩永姫もどうにかなってしまいそうだった。
岩永姫は阿戸が求めるままに、何度も口付けを交わし合った。そうして阿戸が眠るまで、傍らで彼の手をずっと握りしめていた。
Copyright(C)Itsuka Kuresaki 2022




