四片「朔からの警告」
「しゅぎょう……?」
聞きなれない言葉に、岩永姫は首を傾げた。
「『修行』とは、大陸からこの瑞津穂の地へもたらされた思想です」
朔はそう説明すると、どこか寂しそうに笑った。
「ご覧の通り、私は男です。神気に対する親和性、とでも言いましょうか……それが他の巫覡たちに比べて劣っておりました。恩師に出会うまでは、巫術を扱うことすらままならなかったのです」
瑞津穂の地において根強いのは、巫術によって霊的な存在に助力を得、この世の理から超越した力を持って人々を導く思想である。巫術を扱う「巫覡」がこの瑞津穂の地で王に並ぶ権力を有しているのは、物質界を統治する「王」の他に、霊的世界から押し寄せる邪悪な存在から国を守る「巫覡」の存在が必要不可欠であるからだ。
そして、その役目を担う巫覡の大半が女性であった。単純な男女比で表すならば、全体のおよそ八、九割が女性である。
巫覡とは男女を総称する呼び名であり、一般的に女性の巫覡は「巫女」、男性の巫覡は「男巫」ないし「覡」と称される。一般の人々が巫覡と言えば「巫女」をすぐさま連想するのは、巫覡の男女比が影響しているため、男性の呼び名よりも女性の呼び名の方が定着したためだ。
「巫覡の素質は生まれながらに決まります。この世に生を受けた瞬間から、神気を引き寄せることができる者が『巫覡』として認められるのです。その素質が多く見られるのが、女性なのです。かくいう、私の恩師である先代の巫覡長も女性でした」
それは霊的な存在を物質界へ呼び出し、助力を得る際の「器」として、女性の方が障りないためとされる。女性の肉体的な構造から、自分とは違う存在を己の体内へ宿すことへの抵抗が少ないためだと言われている。
生まれ持った素質が、そのまま巫覡としての能力を決める。
それが瑞津穂の地における巫術の大原則だった。
「しかし、それではどうして朔殿は巫覡長に上り詰めることができたのじゃ?」
岩永姫の疑問はもっともだった。
巫覡長とは巫覡たちを束ねる長である。神気を自在に操る素質もさることながら、幅広い見識と神々への交渉能力が重要視される。
「私は師匠の指示で『修行』を行った結果、神気を操る能力を向上させることができたのです。そうして、今の地位に上り詰めただけのことです」
朔の目が、どこか懐かしむように細められた。
「先代は……星読宮の片隅でくすぶっていた私に、巫覡としてもう一度立ち上がる機会を与えてくれた女性なのです」
「修行」は過酷な修練を自らに課すことで肉体を作り変え、万物の理を識る術を体得するものだという。朔の恩師である先代巫覡長は自らも修行を行ってその効力を認めており、日ごろから目をかけていた朔に己と同じ修練を積むことを勧めたのだ。
「私という成功例が出たことで、豊稲国では他国に比べて男性の巫覡が多いのです。私も、弟子たちに修練を課して指導に当たっています」
生まれながらに巫術を操る力が弱いなら、自らを霊的な存在に近づけるよう肉体を強化すればいい。
朔は事も無げにそう言ってのけるが、その境地に至るまでには血の滲むような努力があったことが窺えた。
「……外見が醜いなら美しく作り変えればいい。岩永姫さまと同じ発想ですね」
朔はそう言って穏やかに笑った。岩永姫はむしろ恐縮してしまう。
「いや、わたくしの場合は阿戸に助力を得て成したことじゃ。わたくし一人でどうにかしたわけではない……」
慌てて首を横に振った岩永姫に、朔は笑みを深める。
「結果的には同じことですよ。周囲を説き伏せ、己が望む理想を掴む。岩永姫さま、あなたが強い信念を持って動かなければ、阿戸殿も手を差し伸べることはなかったでしょう。これは誰にでもできることではありません」
そう言って笑う朔に、岩永姫はどこか親近感のようなものを得た。状況は違えど、互いに自らの境遇を縛る鎖を絶ち切った者同士が持つ共感のようなものが、二人の間には存在していた。それを嬉しいと思う反面、なんともこそばゆい心地になる。朔が何故こうも岩永姫を気にかけてくれるのか、その理由の一端を理解した気がした。
「朔殿、わたくしからも頼みたい」
岩永姫も朔に微笑むと、真剣な眼差しを向けた。
「わたくしは……できることなら我が身だけでなく、大切な人を守るための術を体得したいのじゃ。そのためにはどうしても神気を自在に操れることが不可欠……」
阿戸も、咲夜姫の子どもたちも、豊稲国で出会った人々が誰も欠けることがないようにしたい。それは岩永姫の心からの願いであった。
「一度は失った力、取り戻せる方法があるのならば試したい。どうか朔殿の知恵と力をわたくしに貸してほしい」
岩永姫の真摯な言葉に、朔も笑顔で頷いた。
「もちろんです。喜んで、お手伝いさせていただきます」
「感謝する! 朔殿!」
岩永姫は表情を輝かせた。
「それで、その『しゅぎょう』とやらはいつから始める!? さっそく今日から行うか? 善は急げ? とかいう言葉が人間の世界にはあるそうじゃし、できることなら早く始めようではないか!」
「落ち着いてください。岩永姫さまのその前向きな姿勢は非常に好ましいですが……さすがにいきなり始めるわけにはいきません。何事にも、準備や段取りがございます」
前のめりに意気込む岩永姫に、朔は両手をかざして待ったをかけた。
「先程、岩永姫さまもご自身でおっしゃいましたよね? 自らの肉体維持が精いっぱいだと……」
「あ……うぅ……」
朔の指摘に、岩永姫は我に返った。先程の勢いから一転、しおしおと項垂れる。
「やはりすぐには難しいかのぅ……」
「阿戸殿からも、岩永姫さまの身体を作り変えた際に神気を視ることができなくなったと聞きました。以前の姿で生み出した鉱石で作った眼球のおかげで、景色を見ることに支障はないようだ、とも聞いております。神気を視ることは操ることの基本。まずは眼から入ってくる情報だけに頼らず、全身で大気に含まれた神気を感じることから始めていきましょう」
それと……、と朔が人差し指を立てた。
「修行で星読宮へ通う際は、必ず阿戸殿と一緒に来てください。屋敷へ戻る際もその方がいいでしょう。阿戸殿には私からもお願いしてみますが、岩永姫さまご本人から伝えていただいた方がいいでしょう」
「それは構わぬが……雅と一緒ではダメなのか?」
岩永姫は首を傾げる。そんな彼女を前に、朔はひどく険しい表情になった。
「ご自身で、自覚できていないのですね……思ったより、状況はよくないですね」
「む? 何のことじゃ……?」
岩永姫は朔の含みのある言い方に、ただ首を傾げるばかりだった。
「いえ、こちらの話です」
朔はすぐさま岩永姫の疑問をかわした。いつもの人好きのする笑みを浮かべ、それ以上は岩永姫がどれだけ問いかけても答える気はなさそうだ。
岩永姫は苦い顔で朔を睨む。
阿戸が朔のことを「月」のようだと言った意味が理解できた気がする。
見る間に形を変えていき、同じ姿の時がない。近づいたかと思えば、あっという間に遠ざかる。朔の言動は、相対する者を常に惑わせた。
「岩永姫さま、貴女さまは強い意思をお持ちです。けれど……それゆえに、己の脆さをないがしろにしがちです。初めての現世で生きていくともなれば、常世に住んでいた頃とは違う苦労も多いことでしょう」
渋い顔で黙り込む岩永姫に、朔が気遣うように微笑んだ。
「岩永姫さま。貴女さまはもう少し、阿戸殿を頼っていいんですよ。彼もきっと喜んで貴女さまの助けとなるでしょう」
朔の言葉に、岩永姫は顔を俯かせた。
これ以上、どう阿戸を頼れと言うのか……。
岩永姫に輝かしい姿と未来を与えてくれたのは阿戸である。今の岩永姫は彼と出会ったからこそ、こうしてこの場に堂々と立つことができたのだ。
それにここ最近では作業場での仕事が忙しいこともあり、これ以上、彼に負担をかけることは気が引ける。何より、岩永姫は阿戸の妻として、彼に依存することなく隣に立ちたいのだ。そのためにも、できることから自分でこなしていきたい。岩永姫も、何かしらの形で阿戸の手助けをしたい。そのためには最低限のことは自分で解決すべきだというのが、今の岩永姫の正直な気持ちだった。
「いいですね、ちゃんと阿戸殿と話し合うのですよ。自分一人で結論を出すのも禁止です。何か要望があれば、必ず阿戸殿か私に相談してください」
「要求が増えておらぬか?」
不満げな表情で黙り込んだ岩永姫に、朔の笑顔が追い打ちをかけてくる。普段は柔和な笑みを浮かべる朔だが、この時ばかりは言い知れぬ「圧」のようなものを感じる。有無を言わせない。まさにそんな気迫に満ちていた。
「うぅ……わ、わかった! わかったから! ちゃんと阿戸を頼る! それで文句ないであろう!」
朔の圧力に屈した岩永姫がすぐさま悲鳴を上げた。
「わかっていただけて何よりです。修行の間、できるだけ彼の傍にいてくださいね」
渋い表情を浮かべたせいで、朔が執拗に念押ししてくる。岩永姫はそんな朔の笑顔を前に、首を縦に振るしかなかった。
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