二片「新しい生活」
長雨の時期が過ぎ、いよいよ本格的な夏の到来を目前に控えた頃。
岩永姫は繕い物をしていた手を止めた。布蔀の向こう側が明るくなってきている。蔀に手を差し入れて外の様子を見ると、右盾山の稜線がだんだんと白んできている。もうすぐ長鳴き鳥たちが夜明けの刻限を告げる頃であった。
「今日はここまでにしておくかのぅ……」
岩永姫は繕い物と裁縫道具を漆の小箱へと仕舞うと立ち上がった。部屋の衣装箱の中へそれらを片付けると、褥で眠る阿戸の傍へ歩み寄った。声をかける前に、褥の傍に正座して阿戸の寝顔を見下ろす。
「ふふふ……相変わらず、寝ているときはあどけない表情じゃのぅ」
岩永姫は穏やかな表情で眠る阿戸の頭をそっと撫でた。さらさらと指の間をすり抜けていく阿戸の髪を掬い上げてはまた指に絡めていく。
「ん……岩永姫?」
阿戸がゆっくりと目を開いた。何度か瞬きを繰り返した後、自分の頭を撫でている岩永姫をぼんやりと見上げてくる。
「おはよう、阿戸」
岩永姫は寝ぼけ眼の阿戸にそっと微笑みかけた。普段の引き締められた表情も好きだが、岩永姫は阿戸の無防備な寝ぼけ顔も好ましいと思っていた。阿戸を起こしにくる岩永姫だけが独占できる、この瞬間が尊いもののように思えた。
「もうそろそろ夜明けじゃ。雅も朝餉の支度を整えてくれておる頃じゃろう」
「ああ……」
阿戸は起き上がると、大きく伸びをする。
「顔を洗ってくる……」
目をこすりながら部屋を出ていく阿戸を見送り、岩永姫はかけ布を畳んで褥を片付けていく。自室の片付けを終えると、岩永姫も雅を手伝うために部屋を出た。
阿戸が照守王より与えられた屋敷は、大宮殿に近い屋敷群の一角にあった。他の屋敷に比べて面積は百坪と小さいらしいが、これよりも広い屋敷を阿戸が固辞したのである。
「あまり広いと管理が大変で、より多くの人も雇わなければならない。そんなことに頭を悩ませたくはない」
実用性と合理性を重視する阿戸らしい言い分に、照守王も思わず大笑いしたという。王から土地と屋敷を授かることは非常に名誉なことである。それにも関わらず、土地の広さを求めるどころか狭くしろと言ってきた人物は後にも先にも阿戸だけだという。
最終的には阿戸の意向が尊重され、この場所に落ち着いたというわけだ。
「ふふ、阿戸のこだわりはわかる気がするのぅ」
渡り殿を進みながら、岩永姫は小さく笑った。
阿戸と岩永姫が暮らす屋敷は、石を積み上げて整えた水路と柵、丈の低い植物を植えることで周囲との敷地を区切っている。敷地内の中央には阿戸たちが生活する正殿があり、この居住空間から東に伸びた渡り殿を通ると「竈」を備えた調理場があった。
ちなみに、竈は阿戸が自分で造って設置したものである。
大陸から伝来した竈は、土師たちが土器や埴輪を制作する際に用いる窯と似ている。ただ土器造りに求められる保温性よりも、適度に空気を入れることで火力を安定させることに重点を置いた造りになっていた。
「竈は熾した火を安定させるだけでなく、煤が飛び散るのを防ぐんだ。その方が手入れも楽だし、何より、風に吹かれて火の粉が舞い、火事になる危険性もなくなる」
竈を作っている最中、阿戸は岩永姫にそう説明した。土をいじっている時の阿戸は心底から楽しそうで、岩永姫の疑問にも嫌な顔一つせずに教えてくれた。岩永姫は傍らで阿戸の作業を手伝いつつ、いつまでも楽しそうな彼の横顔を眺めていた。己の身体を作り変えてもらうよう依頼したあの日から三年経ったが、物作りに没頭する阿戸の姿は見ていて飽きなかった。
「そういえば、阿戸の竈を見て雷殿も興奮しておったのぅ……」
つい先日、阿戸たちの入居祝いに屋敷を訪ねてきた雷の様子を思い出し、岩永姫は小さく笑った。豊稲国でもまだ竈は珍しいものらしく、雷が竈の性能について阿戸を質問攻めにしていたほどだ。
阿戸特製の竈を備えた料理場の裏手には、井戸と食料の保管された高床式の倉庫が設置されている。正殿から見て西側には岩永姫専用の作業場である小屋が設けられ、機織り機が一台と作業台が備え付けられていた。その小屋の傍には屋敷の警護のために照守王が遣わしてくれた兵士たちの詰め所がある。その裏には鳥小屋があり、庭に放し飼いされている長鳴き鳥が土を突いては餌を探していた。
「おはよう、雅! 何か手伝うことはあるか?」
渡りを通って調理場にやってきた岩永姫は、竈の前で煮炊きをしている女性に声をかけた。
身綺麗に整えた上衣と下衣をまとった女性は、油で汚れないために衣の上から肩巾を着て長い袖を襷でまとめている。艶やかな黒髪を肩まで切りそろえた珍しい髪型をしているが、知性を漂わせる落ち着いた物腰と容姿に、思わず振り返るほどの美人であった。彼女は表情が乏しいその顔に、微かな笑みを浮かべた。
「おはようございます、岩永姫さま」
雅は岩永姫に一礼する。そのまま、長い木製の匙で煮込んでいる雑炊をかき混ぜていた。
「岩永姫さま。何度も申し上げておりますが、位の高いお方は炊事などを行わな――」
「やらないというだけで、やってはならぬというわけではあるまい?」
岩永姫は雅の傍まで歩み寄ると微笑んだ。
微笑む岩永姫を前に、雅が迷うように口ごもる。
「それは……そうですが……」
「確かに、わたくしは食事を必要とせぬ。しかし、人の世で生きていく上で、食物に関する知識は必要じゃ。火はまだ苦手じゃが……だからこそ扱い方を心得ておかねばならぬ! 何より、自分の知らないことを知れるのは楽しいしのぅ! わたくしも、色々やってみたい!」
「……後半が本音ですね?」
瞳を輝かせて雅へ迫る岩永姫。そんな岩永姫に根負けした雅が、口元に笑みを浮かべた。
「では、そちらの皿に移した焼き魚を旦那さまのところへ運んでください。私も汁物をよそったらすぐに参ります」
「うむ、わかった!」
岩永姫は言われた通り、皿に盛られた焼き魚や桃などの木の実、山菜の塩漬けを阿戸の待つ部屋へと運んでいった。その足取りは非常に軽やかだ。
「本当に……好奇心のお強い女神さまですね」
嬉しそうに立ち去っていった岩永姫の背を見つめ、雅は苦笑まじりに頷いた。
雅は化蛇姫の一件で、岩永姫が一時的に星読宮へ身を寄せた際に彼女の身の回りの世話をしていた巫覡である。それが縁となったのか、朔より岩永姫専属の護衛兼侍女に抜擢されたのであった。
岩永姫も早々に雅に懐いてくれたようで、何かと珍しいものを見つけては「これは何に使う?」「この奇怪なものは何じゃ?」と雅に尋ねてくることが常だった。
「岩永姫さまのためにも、私がしっかりしないと……」
雅は悩ましげに呟く。
最初こそ、雅は身分による線引きを明確にするよう岩永姫に言い聞かせてきた。宮中では岩永姫の一挙一動に皆が注意を払っている。中には邪な考えや下心を持った輩もいることだろう。そういった連中に付け入る隙を与えないためにも、雅は岩永姫に貴婦人としての振る舞いを身に着けるよう指導している。
岩永姫も雅の意向は理解してくれているので、宮中へ赴く際は振る舞いに気を付けているようだ。しかし、物珍しいものを見るとすぐ先程のような素の態度に戻ってしまう。根が素直過ぎるのも、雅が頭を悩ませている問題の一つだった。
「……しかし、それを喜んでいる自分がいるのも世話のない話です」
雅はため息まじりに苦笑した。身分による線引きを、雅が岩永姫にそう告げた直後だった。
「わたくしの侍女となったということは、言わば家族の一員になったということじゃろう? ならば、余計に無碍な扱いなどできぬ。わたくしはまだ人の世のことに疎いゆえ、雅には助けられてばかりであるからな!」
岩永姫は当然のようにそう返してきた。その言葉に、雅がひどく胸を打たれたのは岩永姫には内緒である。この屋敷の主人である阿戸も堅苦しい雰囲気を嫌うのか、雅に対して岩永姫同様気さくに接してくる。
そんな二人の人柄のせいか、この屋敷は雅にとってすでに居心地のいい場所となりつつあった。
「……私は贅沢者ですね」
竈の台座から土鍋を外し、匙で雑炊を椀へと移しながら雅は小さく笑った。ここ数日ですっかり離れがたい心地である。
「雅~、まだ手伝うことはあるか?」
再び調理場へと戻って来た岩永姫に、雅は苦笑した。
阿戸と岩永姫、そして侍女として仕える雅の朝は、こうして賑やかに回り出すのであった。
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