三十九片「手を取ったのは……」
――我が奥殿にいる妃の誰かを、お主の嫁として下賜するのはどうかということになった。
照守王の言葉に、岩永姫は目の前が真っ暗になった。
阿戸に、妃をあてがう。
より信頼の置く家臣が、王より妃を賜るという話は耳にしたことがある。それがまさか、阿戸の身に起こるなどと、岩永姫は予想だにしていなかった。
そんな……。
岩永姫は縋るように、平伏する阿戸を見つめる。
「どうして、断ることなどいたしましょう。過分の名誉、必ずや王さまへの忠義でお返しします」
岩永姫の想いとは裏腹に、阿戸は平然と王の言葉に頷いた。岩永姫は懐に隠し持っている髪飾りを衣の上から握りしめた。
嫌じゃ……。
岩永姫の顔がくしゃりと歪む。
阿戸を……他の女子に取られたくない。
彼の傍にいるのは、自分でありたかった。この時になってようやく、岩永姫は周囲の目を気にせず自分の正直な気持ちを受け止めたのだった。
「よし、では誰がよいか……! 阿戸よ、お主から何か要望はあるか?」
阿戸の返事に気を良くした照守王が、阿戸に呼びかけた。
「ああ……」
岩永姫は縋るように阿戸を見つめる。
無意識に、髪飾りを握りしめる手に力がこもった。
「できることなら、妻として迎えたい娘がおります。お許し願えますか?」
阿戸のこの言葉に、岩永姫と雷が表情を強張らせた。身構えた彼に先んじて、照守王がほぅっと意外そうな声を上げる。
「ふむ、お主の心を射止めた娘がおるのだな。構わぬ、その娘の名を申してみよ」
顔を伏せていた阿戸が、真剣な表情で照守王を真っ直ぐ見据える。
「岩永姫を、我が妻として迎えたく存じます」
謁見の間に、静寂が降りた。
「貴様、よもやそのようなことを――」
即座に口を開いたのは雷だった。片足立ちになり、今にも阿戸に殴り掛かりそうな勢いだった。
「控えよ、左将軍」
そんな雷を止めたのは、照守王本人だった。
「はっ!? しかし、王さま……!」
まさか照守王に止められるとは思わなかったようだ。雷が拍子抜けしたような、なんとも変な顔になった。照守王は特に表情を変えなかった。阿戸は緊張から、床についた手を強く握りしめている。
「恐れながら……奥殿にいる妃の誰かを、とのお言葉でございました」
阿戸は臆することなく、照守王を見据えたまま続けた。
「先ほど、王さまは岩永姫さまを正式に奥殿の妃として迎え入れられました。であれば、岩永姫さまも奥殿の妃に含まれると思われますが?」
「ふむ……確かにそうだな」
阿戸や雷の視線を受けた照守王は、冷静な調子で頷いた。
ようやく阿戸の言葉の意味を飲み込むことができた岩永姫は、ヒュッと喉を鳴らして顔を真っ赤に染めた。内心で、声にならない叫びをあげる。
――岩永姫……俺は君のことが愛おしくてたまらない。
岩永姫は、右盾山で阿戸に告げられた告白を思い出す。同時に、その時重ねた唇の感触まで思い出してしまい、岩永姫は両手で頬を抑えた状態で唇を震わせた。
もう頭の中が真っ白になってしまっていた。
そんな岩永姫を尻目に、照守王が思案げな調子で言葉を続ける。
「王として己の言葉を覆すようなことはしない。とはいえ、岩永姫はこの国において最も高貴な存在である。姫の意思を無視して、余の一存で決めることはできぬ」
謁見の間に居合わせた全員の視線が、顔を真っ赤に染めて硬直している岩永姫に向いた。
「わ、わた……ひぃ……」
岩永姫は自分の頬を両手で押さえたまま放心状態だった。
「岩永姫よ、阿戸はお主を妻にと言っておるが、そなたはどう思う? 嫌なら断って……聞いておるか?」
「おそらく、聞こえてないですね」
照守王の呆れ顔に、岩永姫の傍らに座した朔が苦笑した。
「わたくしが……阿戸の……え、それ……うぅ……いや、しかし……」
なにやらぶつぶつと呟いている岩永姫の肩を、朔が手を乗せて揺さぶった。
「失礼、岩永姫さま。岩永姫さま……そろそろ戻ってきてくださると助かります」
「はっ、はい!?」
我に返った岩永姫が、自分を見つめる男たちを前に全身を強張らせた。
「わ、わたくしは……」
岩永姫の視線が、照守王と阿戸の間で揺れた。
「岩永姫よ。阿戸はお主を妻として迎えたいと言っておる」
「し、しかし……」
岩永姫の不安そうな目が阿戸に向いた。岩永姫の視線を受け、阿戸はどこまでも真っ直ぐな目を彼女に向けている。阿戸の視線を受け、岩永姫は全身が熱を帯びるような心地だった。
「岩永姫、余はお主がどのような結論を出そうと一切咎めはせぬ。無論、阿戸も責を負うことはない」
「照守王さま……」
岩永姫が目を見開き、照守王を見上げた。照守王は穏やかに笑いかけてきた。
「咲夜姫も、きっとそれを望むであろうからな」
「王さま……」
岩永姫は再び阿戸へと視線を向ける。
彼の真っ直ぐな目を前にすると、頬に熱が集まった。
「わたくしがこうしてここにいられるのは……すべて阿戸の協力があってのこと」
岩永姫は胸に手を当てる。懐に仕舞った髪飾りを意識し、表情を綻ばせた。
「わたくし一人では……きっと何もできなかった。阿戸がいたから、わたくしは何度でも立ち上がれた……」
岩永姫はそっと頭を垂れる。
「願わくば……阿戸ともに、王さまが治めるこの国を支えたいと存じます」
それが、岩永姫の出した答えだった。
「よし、決まりじゃな。この都に居を移すに際し、何かと入用のものもあろう。必要なものがあれば遠慮なく言うがよい」
「はっ! この御恩に必ずや我が技術と知識でもって、王さまに報いることをここに誓います」
阿戸が深々と照守王に頭を下げた。
そうして、岩永姫が阿戸からの求婚を承諾した後、阿戸は照守王との謁見をつつがなく終えた。
岩永姫は阿戸とともに、謁見の間を辞した。これから、照守王が阿戸に与えたという屋敷へ赴くことになっている。
いいのだろうか……。
岩永姫は両手を胸の前で握りしめながら、顔を真っ赤にして阿戸の後ろをついて歩いていた。
こんな……幸せな気持ちになって、いいのだろうか。
岩永姫は頬に集まる熱を鎮めることができず、縋るように前を歩く阿戸の背を見つめる。阿戸も謁見の間を辞してから、岩永姫を振り返ろうとしない。その耳が冬でもないのに真っ赤に染まっていることに気づき、岩永姫は余計に自分の胸が高鳴った。咄嗟に顔を俯かせる。
今、どんな顔をして阿戸と向き合えばいいのか、わからなかった。
「……岩永姫」
大宮殿を出てしばらく歩いたところで、阿戸が急に立ち止まった。岩永姫は間の抜けた声を上げてわずかに跳び上がる。岩永姫に向き直った阿戸は、眉根を寄せている。どこか罰が悪そうな、そわそわと落ち着かない様子だった。
「その……後日、新しい髪飾りを用意するから、受け取ってもらえないだろうか」
「あ……そのことなのだが……」
岩永姫はいそいそと懐から髪飾りを取り出す。
阿戸が驚いた様子で目を見張った。
「それ……どうして……」
「朔殿を通じて、照守王さまから返していただいたのじゃ」
岩永姫が嬉しそうに笑う。すると、阿戸が大きくため息をついて項垂れた。片手で目元を覆っている。
「あ、阿戸!? 一体どうしたのじゃ!?」
「あんの野郎……最初から仕組んでいやがったな……」
阿戸の呟きに、岩永姫は訳が分からず首を傾げるばかりだった。
「のぅ、阿戸……大丈夫か?」
気遣う岩永姫に、阿戸は顔を上げて苦笑した。
「あぁ、すまん。こっちの話だ。こんなことで気落ちしていたら、あの野郎の下ではやっていけない気がする」
阿戸がどこか恨みがましい視線を大宮殿へと向けていた。
「岩永姫、その髪飾りを少し貸してくれ」
やがて気持ちを切り替えるようにため息をこぼすと、阿戸は手のひらを差し出した。
「う、うむ」
岩永姫は髪飾りを阿戸の手に乗せる。阿戸がざっと髪飾りを確認する。破損した箇所は見受けられない。艶やかな鉱石たちが陽光を受けて美しく輝いていた。
「正直、あんな形で君をもらい受けたままじゃ癪だからな。仕切り直したい」
「え?」
阿戸はそう言って岩永姫の手を取ると、髪飾りを握らせる。
その上から阿戸の大きな手が覆った。
「あなたの目に映り、あなたの心に届く唯一の声、そしてあなたの生涯をともに歩む男に、私はなりたい」
改まった口調で告げた阿戸の表情が、岩永姫の視線を受けて綻ぶ。今までに見たことのない彼の表情に、岩永姫の胸は高鳴った。頬を赤く染めた阿戸の眼差しを前に、岩永姫もまた目をそらすことなく彼の顔を見つめていた。
「岩永姫、私はあなたを心から愛している。どうか、我が妻として傍にいてほしい」
阿戸の手が、岩永姫の頬を撫でた。その優しい手に、岩永姫も恥ずかしそうに目を伏せる。岩永姫の手が、阿戸の手に重なった。
「はい……」
岩永姫はそっと頷いた。阿戸が髪飾りを岩永姫の髪に差すと、そのまま岩永姫の後頭部に手を回して引き寄せる。岩永姫も目を閉じて応じた。
二人の影が、一つに重なり合った。
互いの唇が離れては、その存在を確かめるように何度も重なる。岩永姫は阿戸の背に腕を回し、密着する阿戸の体温に身を任せた。
ああ……わたくしは、幸せ者じゃ。
唇が離れ、阿戸の腕に強く抱きしめられる。肩口にかかる彼の吐息に、岩永姫は穏やかな笑みを浮かべた。
咲夜姫……わたくしも、阿戸とともに人の世で強く、気高く生きていくぞ。
岩永姫は顔を上げ、抜けるような青空を仰いだ。吹き抜ける風が、遠くに見える星読宮の桜の枝を揺らす。
岩永姫と阿戸はいつまでも、互いの身体を抱きしめ合っていた。
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