三片「岩の女神と土師の青年」
最近、里の周辺を徘徊する醜女がいる。
里長に集められ、広場でそのことを告げられた皆が不安そうに顔を見合わせる。その中で、阿戸は里長の報告に呆れ返っていた。
ここは豊稲国と狩牧国の国境だ。豊稲国の最北村であるクル村からだいぶ山の中に入った土師の里である。
そんな山に住む獣しか訪れてこないような場所に、何故急に醜女が現れたのか。
皆が口々に噂し合っている。
「きっと山神さまの祟りを受けた者では? なんと恐ろしい……」
「いや、きっと昨年の飢饉で死んだ老婆の怨霊だ」
「いやいや、普通に考えて山に捨てられた老婆が物乞いに来ているだけなのではないか?」
皆が口々に言い合う中で、阿戸は不機嫌な態度のまま里長を睨みつけている。
醜女の姿が目撃されるようになったのは一週間ほど前からだ。その間、特に里から食べ物が消えたわけでも、作製した土器や埴輪が盗まれた形跡もない。当初こそ警戒したものの、その後も里へ危害を加える様子もない。
里の周辺を徘徊するだけなら、放っておいてもいいだろう。
阿戸は内心で吐き捨てた。
今は少しでも長く、土器の改良に勤しみたいのだ。
時間が惜しい。こんなくだらないことにかまけている暇は、阿戸にはなかった。
「もしかすると他の里の密偵かもしれん。我らの技術を盗むために、こうして里の周辺をうろついているならば容赦はできん」
里長はそう言うと、里の若い衆に見回りを命じた。
阿戸の表情は大きく歪む。
「迷惑極まりない話だ。捕まえたら一発ぶん殴ってやる……」
阿戸は吐き捨てるとともに、己の身長ほどの長さがある棒を片手に見回り組の輪に加わる。
山の斜面を等間隔で進みながら、阿戸は人影がいないか周囲をまんべんなく観察した。走り去る鹿や兎の類を見送りながら、かれこれ三時間は山中を歩き回っただろうか。
「おーい、交代だー! 一度里へ戻るぞー!」
見回りを仕切る男が声を上げ、皆が里へ引き返す。
阿戸も眉間のしわを深めて踵を返した。三時間近い捜索の間に溜まった苛立ちが、阿戸の形相を険しいものへと変える。醜女どころか、普段から人気のない里の周辺だ。そんな場所までやってくる奴など、遭難した旅人くらいだろう。
「ったく……里長の奴、岩かなんかを見間違えたんじゃないか?」
阿戸がそうこぼした時だった。
視界の端で、何かが動いた。
咄嗟に、振り返る。
鬱蒼と覆い茂る叢の間で、黒いものが遠ざかっていくのが見えた。
明らかに、こちらから逃げようとしているようだ。
阿戸は手にした長棒を握りしめ、できる限り足音を殺してその影を追った。草の間で見え隠れする頭部は、ボロボロに擦り切れた布のようなものをかぶっている。
件の醜女だろう。
阿戸は人影が立ち止まったのを見て、一気に距離を詰めた。
「見つけたぞ!」
「っ!?」
阿戸が声を張り上げ、長棒を振り上げた。そのまま蹲る人影へ打ち下ろす。
「いっ!? ……固い!?」
悲鳴を上げたのは、阿戸の方だった。阿戸が振り下ろした長棒はあっさり跳ね返り、両手にじんっと鈍い痛みが走る。まるで大きな岩でも殴ったような感触だ。
「お前……もしや禍神か!?」
阿戸が警戒して棒先を突きつける。すると、醜女がすくっと立ち上がった。
「無礼なっ!」
醜女が立ち上がった瞬間、頭からかぶっていたボロ布がずり落ちた。足元に落ちた布を気に留めることなく、目の前の醜女は朗々と名乗り上げる。
「わたくしを厄災の神などと同じにするでない! 神格のいと高き、山々の神の統率者であり、黄泉と今世の境を示す存在! 山主神が娘神の一柱! 永き岩の姫神とはわたくしのこと!」
阿戸は呆然と目の前の醜女を見つめる。いや、彼女の様相は人の姿とは程遠い。全身がごつごつとした岩の人形は、人を喰らう厄神と呼ばれても通じるほど恐ろしい形相をしていた。
「う、嘘をつくな! そんな化け物みたいな姿で、神さまなどと信じられるか!」
阿戸が棒を突きつけたまま、負けじと叫び返す。恐ろしさで全身の震えが止まらない。声が震えなかっただけ、阿戸は自分を褒めてやりたい気分だった。
「……やはり、わたくしはそれほど恐ろしい形相なのか?」
突然、目の前の醜女が力なく地面に崩れ落ちた。
阿戸は肩を震わせ、思わず後退りする。
先ほどまでの威勢はどこへやら、醜女はしゅんっと項垂れていた。
「わたくしの外見、化け物呼ばわりされるほどなのか? ついこの間、醜いなどと初めて言われ……今度は化け物。もう、怒りを通り越して虚しくなってくるぞ。父神さまはありのままでよいと言ってくださったが……やはり、わたくしへの気遣いに過ぎなかったというわけか。なんと口惜しい。なんと悲しいことか……」
「お、おい……大丈夫か?」
地面を拳で叩きながらぶつぶつと嘆く醜女に、阿戸は思わず声をかけた。
なんとなく、放っておくのは良心が咎めた。
「人を化け物呼ばわりしておいて、大丈夫なわけなかろう!」
くわっと顔を上げた醜女が恨みがましく言った。
その形相に阿戸は思わず腰が引ける。
「いや……悪い。そこまで落ち込むとは思わなくて!」
醜女の勢いに押され、阿戸は彼女を宥めながら謝罪する。
しかし醜女は止まらない。
「じゃが、最も腹立たしいのは己の容姿に対してじゃ! かの王といい、お主といい、里の連中といい! 何故容姿一つでこうも話を聞いてもらえぬのか!」
阿戸は蹲って地面を叩く醜女を見下ろしながら、あっと声を上げた。
宴でよく絡んでくるおっさんにそっくりだわ……この醜女。
土師の里では大掛かりな仕事は里全体で作業する。その仕事が終われば、支払われた報酬で宴が催されるのが常だった。当然、酒も振舞われる。
阿戸は醜女の言動の既視感に納得した。
「まぁ、あれだ……事情はどうあれ……」
このまま放っておいたらいつまでも管を巻きかねない。
阿戸はわざとらしい咳払いとともに、醜女へ注意する。
「もう里の周辺をうろつくのはやめてくれ。俺たちの里では技術を盗まれないよう、こうして人目を避けた場所に集落を作って住んでいる。当然、他の里との交流も最小限だ。たとえあんたに俺たちの技術を盗む気がなくとも、里の連中は気が気じゃないんだ。だから――」
「今、『俺たちの里』と申したか!?」
阿戸の言葉を途中で遮り、醜女は彼に詰め寄る。阿戸は思わず悲鳴を上げて尻もちをついた。決して詰め寄って来た醜女への恐怖心からではない。断じて。
「お主も土師なのか!?」
「だったら何だよ! お前、人の話を最後まで聞けよ!」
身を乗り出して詰め寄って来る醜女。彼女が近づいた分だけ後ろへ下がる阿戸。しかしその攻防も長くは続かなかった。
「どうかわたくしの頼みを聞いてほしい! 土師の中でもとりわけ腕のよい者でなければできぬ仕事なのじゃ!」
醜女の言葉に、阿戸は動きを止めた。
「な……何なんだ? 仕事の依頼? 仮にも、神さまを名乗るお前が?」
「そうじゃ!」
疑わしい目で見つめる阿戸に、醜女は己の胸をどんっと叩いた。
「そなたたちの里で、もっとも優れた腕を持つ土師に、わたくしを美しい娘に生まれ変わらせてほしいのじゃ!」
「……はぁ?」
醜女の言葉に、阿戸は間の抜けた声をもらしたのだった。
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